第11話 再び、ひとり

 もう決して戻らないと思っていたカヨちゃんが、突然、戻って来た。

 それは、僕にとって幸運で、奇跡だった。


 僕は、相も変わらず馬鹿みたいに彼女を待っていたから、玄関に君を見つけた途端、やっぱり飛びついてしまった。



「カヨちゃん!」

「……コタ、痛いよ」

「おかえり」


 僕は、カヨちゃんを両手で強く抱き締め、まるで学校帰りの彼女を出迎えるように言った。


「ごめんね、私が、全部悪かった」


 カヨちゃんは僕の胸の中で静かに泣いた。

 一体、今まで何があったんだろう。


 カヨちゃんは、グレープジュースの匂いがした。

 それは、僕が嗅いだことのない匂いで、カヨちゃんが都会で新たに身に付けたものだろう。

 僕はの匂いは変わらないだろうか。

 カヨちゃんと違って、まるで時間が止まったままのように同じままでいられただろうか。

 自信はない。



 カヨちゃんは多くを語らなかったので、僕も聞かなかった。

 難しいことはどうでも良い。カヨちゃんが帰ってきてくれただけいいんだ。


 僕等は、何もなかったように食事をし、一緒に眠った。

 それから、カヨちゃんの仕事の話を少し、あとは昔話とか、そういう他愛のない話をして時を過ごした。

 僕はというと、かつてカヨちゃんを探しに行ったことを彼女に言わなかった。

 格好悪い話だしね。





 結局、僕は、カヨちゃんに付いて彼女のマンションで暮らすこととなった。

 僕らとおばあの思い出が詰まった家は、長いこと待ちぼうけだった今の僕にとっては寂しい場所でしかなかった。


 実は、数週間前に、遠い親戚という人が家に来て、何やら手続きをして、おばあの土地を売りに出したと言ってきたのだ。

 もちろん、カヨちゃんの方には連絡済みだった。

 カヨちゃんは、それを機に、僕を迎えに来てくれたのだった。

 彼女が僕をマンションへ連れていくと決めたということは笹原くんとは終わってしまったんだな、そう思った。



「コタは、私のものだよね」

 カヨちゃんが、ベッドの中で、自信なさ気にそう言った。


「そうだよ、カヨちゃん」

 僕は、君のものだ。僕は、生まれたときからたぶん、そう。

 この瞬間のために生まれ、君をこうして抱くために人間になったんだと思う。

「コタは、私のもの」

 カヨちゃんはそう呟いて、うふふ、と笑い、僕に背中に手を回し、抱きついてきた。僕はカヨちゃんの顔が少し熱いのを感じ、前髪を除けておでこを合わせた。

「熱いね」

「うふふ」


 カヨちゃんは、暫く見ないうちに一層美しくなっていた。

 きっと、今が人生の中で最も輝いている瞬間なのだろうと僕はカヨちゃんを見て思った。


「僕、カヨちゃんが死んでもずっとカヨちゃんのことを想ってる」

 僕は呟いた。

 その一瞬、カヨちゃんの両手の力が弱くなる。彼女は少し驚いたようだ。少し黙ってから言った。

「コタは、そうやって、死ぬとかって簡単に言うんだね」

「おかしいかな」

「人間はね、そんな風には、きっと言わない」

「僕はさ、やっぱり人間じゃないから、仕方ないよね」

 僕はそう言って笑ったが、思いの外、鼻に掛かってしまったその笑い方が、嫌だなと自分でも思った。

 そういう笑い方をするつもりはなかった。そもそも、僕は笑いたかったのではない。僕は、どちらかというと哀しかったのだ。


 僕は、このとき、幸せというものが永遠に続かないものだということを既に知っていた。だから、この、胸の中にいるカヨちゃんが幻じゃないのに、幻みたいに思えた。




 価値観も生き方も違えてしまった僕等――。僕は、カヨちゃんがまた僕の腕の中にいるこの時間が、かりそめの逢瀬のように思えて仕方なかった。

 一度離れてしまった二人だもの。上手くいかなくなるのは目に見えていて、すぐに予想できた。

 それなのに、また求め合ってしまった僕等――。

 ある意味で成長しないね。


 昔は、当たり前のように傍にいて喧嘩なんてすることがなかったのに。カヨちゃんはやっぱり変わってしまった。

 そういえば、おばあが言っていた。私たちは元に戻るってことはないのよ、人間はどんどん前に向かって進んでいくものなの、って言っていた。




「コタ、人間ならさ、働きなよ」

 カヨちゃんと都会で働き始めて、彼女にそう言われ、僕はそうした。

 戸籍とか、経歴とか、そういうものがないから、履歴書は適当にカヨちゃんに書いてもらって、そんな書類に全然目を通されないような日雇いの労働作業、工事現場で廃材をひたすら運んだりするような仕事に就いた。



 人間とは、どうして働くのか。

 もちろん、食べていくため、生きていくためには必要なことなのだ。

 そうして稼いで得たお金と労働が同価値なのかも僕には分からなかったけど、カヨちゃんに認めてもらうためなら、何でも、苦ではなかった。


 お金を持ってきた日は、カヨちゃんと対等に話ができるような気がした。

 対等とか対等じゃないとか、僕等はどうしてそんなことを意識するようになったのだろうか。僕が対等であれば、カヨちゃんを抱きしめても彼女は許してくる。

 けれど、なぜだろう。拒絶はしないのに、抱き合った後、カヨちゃんは少し悲しい顔をするようになってしまった。

 それが憐れみの表情だって気付いた時、カヨちゃんは一体、僕の何を憐れんでいるのだろう――考えてみたがわからなかった。



「コタ、私もう限界」

「あんたの面倒をみていくなんて、今の私には耐えられない」

「面倒をみてほしいなんて、僕は思っていないよ」

「だって、そういうことじゃない、あんた犬なんだから」

「僕はさ、カヨちゃんが笑っている姿が好きなんだ、君が笑っているのをずっと傍で見ていられたらそれだけでいいのに」

「わかんないかなあ、あんたがいつまでも、いつまで経ってもそんなんだから……」


 カヨちゃんは、言葉に詰まった。

 僕は、できるならその続きを知りたくはなかった。

 けれども、カヨちゃんは続ける。


「へらへら笑ってるあんたがいると、笑えないのよ、私」


「私の辛さ、理解できないでしょう? イライラするの」


「いい加減、犬に戻ったら? そうしたらずっと傍に置いてあげるよ」


 僕は、カヨちゃんの残酷な言葉に固まってしまった。

 まるで呪文のように、僕の全身の毛という毛が一気に萎びて、僕の幻の尻尾は項垂れた。口や耳や目や、頭皮の隙間から、ドロドロの鉛が流し込まれたように、僕は次第に重く硬くなった。

 僕は、タイムリミットの迫った頭で必死に、カヨちゃんの言った言葉の真意を理解しようと、奥歯で噛み砕いている最中だ。人間の言葉は難解な表現が多すぎる。


 答えは、そんなの、シンプルだよ、とハチ公先輩が僕の頭のてっぺんで呟いた。


「人間失格!」



 それから後の言葉は、僕には全て同じに聞こえる。

 カヨちゃんは、僕とさよならしたいってことだよね。


「ねえ、コタ」

「なに」

「前さ、ずっと前、コタは私のものだよねって、私が前に聞いたら、そうだよって言ったよね」

「うん」

「本当に、そう?」

「そうだよ」

「私はさ、コタのものじゃないんだ」

「そうだろうね……」


 それは、仕方のないことだよね。僕はそれでカヨちゃん、君を責めたり、君に失望したりはしない。僕はなんて愚かだろうとは思うけど。


「私ね、コタを傷つけてばかりいるね、嫌いになってよ」

「嫌いにって、どうやったらなれるの」

「そうやって、頑なな姿勢がさ、重くて苦しいのよ」

 だって僕は、あの銅像になった忠犬ハチ公と同じ遺伝子を持っているんだよ。僕にとっては当たり前のこと、カヨちゃんにとってもそうだと信じていたかった。


「――それは駄目なことなのかな」


 僕等は暫く黙っていた。

 カヨちゃんは窓辺のソファに、僕はテーブルのチェアに腰掛けて、少し距離を取りながら話していた僕等は、もう見つめ合わないで、最後カヨちゃんは窓の外を見つめて言った。


「少なくとも、私は苦しいの」


 声が震えていたから、きっと泣いていたのだと思う。

 僕は、このとき、僕の存在がカヨちゃんにとって毒だと理解した。

 僕は、僕がカヨちゃんをこうやって思うことがカヨちゃんを苦しめているのだとしたら、僕は僕自身を許せるだろうか。


 僕等は、黙るしかなかった。

 どちらも答えを持っていなかった。

 何が正しいのか、答えてくれる大人は僕等の周りにはいないのだから。僕らは、不完全なまま、大人の振りをして、大人のように生きていかなくてはならないのだから。




 その日から暫くして、カヨちゃんが家に帰って来なくなった。

 僕は、労働して疲れ果てて、カヨちゃんの帰って来なくなった部屋に帰ることが耐えられなくなっていた。

 この部屋は相変わらずカヨちゃんの匂いに溢れているのに、カヨちゃんだけはいない。匂いは常に新鮮だったから、彼女はきっと僕の働いている時間帯にこの部屋へ戻ってきてはいるのだ。

 僕だけを避けて、彼女はこの家に帰ってくる日が続き、それから少し経って、一日中だってカヨちゃんはこの部屋にいないことが増えたのだ。


 カヨちゃんが帰ってこない。

 僕は、自分の給料で買ったばかりの最新の携帯電話でカヨちゃんに電話したが、彼女は出てくれなかった。

 休みの日にはカヨちゃんの匂いを辿って彼女を一日中探したけれど、結局僕は、カヨちゃんを見つけることができなかった。

 僕は途方に暮れていた。

 そして僕は、昔、カヨちゃんを探して歩いたあの夏の日のことを思い出した。

 暑くて、とても喉が渇いていて、お腹も空いていたのに、ホームレスのおじさんに食べ物を奪われ悲壮感一杯で帰ったあの日のことだ。

 そんなことを思い出しながらまたあの日のような気持ちに還り、雨の中、とぼとぼと歩いていたら擦れ違い様に見知らぬ女の人の声を掛けられた。


「そんな恰好じゃ、風邪引くよ」

 とても印象的な、風鈴のような声だった。

 僕は、今までそんな清らかな涼しい声を聞いたことがない。

 足元ばかりみて歩いていた僕は、その美しい声に足を止めて顔を上げると、シンプルなカヨちゃんの服装とは全く違う、煌びやかな装飾品を纏った女性がいた。

 この雨の中でもピカピカに光る桜色のパンプスに、美しい脚線が伸びている。

 雲みたいな(例えが変だけど)ワンピース。陽が射すように開いた胸元には巻き毛の束が幾つも下りている。

 このとき、僕は彼女がどんな顔をしていたのかをはっきり見てはいなかった。

 ただ、赤々とした艶やかな唇が、やさしく語りかけてきたのだった。

「行くところがないんなら、シャワー貸してあげるよ」


 僕は抜け殻のように冷たかった。

 彼女に対しても、何も感じない。ただ、彼女のファッションを見て、晴れた空が少し恋しくなっただけだ。

 女の人は自分の傘を僕に差し出してくれたけれど、僕はそれを押し戻して首を振った。

「放っておいてください」

 そう言うのが精一杯だった。

 女の人は、僕が動き出すまでずっと傘を差し出してくれていた。そんな彼女を置き去りにして、僕は振り返らず何処へともなく歩き続けた。

 後ろには彼女の気配がずっとあって、僕はそれを置き去りにすることで自分の何か一部分を捨てた。


 それから、まっとうな人間であろうと努力することをやめた。

 認めてくれる人が傍にいないんじゃあ、意味がない。


 僕は、犬に戻ろう。

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