第6話 忠犬ハチ公先輩
その存在を、僕はちゃんと知っているわけじゃない。
でも、誰もが知っているんでしょう。
飼い主に忠誠を尽くして、戻ることのない飼い主をずっと待って、結局死ぬまで会えなくて、自分も死んじゃった犬なんでしょう。
僕は、どうしてハチ公のことを知ったかっていうと、カヨちゃんが或る日のデートの待ち合わせ場所に指定したのが、渋谷駅のハチ公像の前だったから、気になってカヨちゃんに聞いたんだ。
僕からしてみても、銅像になっちゃった犬って、多少なりとも興味がある。
日本中で最も有名な犬。
カヨちゃんを待っている間、この背中の銅犬について、カヨちゃんに買ってもらった携帯電話を使って、忠犬ハチ公を調べてみた。
ハチ公が、生きていたときに撮られた写真が幾つか出てきた。
うーん、僕から見たら、イケメンどころか、どちらかといえば醜犬じゃないか。写真写りが悪いのかな、目の前の銅像とはどうも別犬に見える。
なんて、ぼーっと画像を眺めていた。
これがもし、人間だったら、馬鹿なやつ、で終わる話になり兼ねない。けれども、犬なら。犬なら、ね。
でも僕は思う。犬なら、普通だよ。そう大して驚くことでもない。
僕だって、もしもカヨちゃんがいなくなったら、僕が死ぬまで馬鹿みたいに思っているんだろう。
忠犬ハチ公さまは、当然のことをしたまでだ。犬の僕からしてみたら、偉人(犬?)でも何でもなく、ただ、初めて人間を驚かせたのがハチ公っていう犬だったということだけでしょ。
ハチ公さまっていうよりは、ハチ公先輩ってとこだろう。
犬の習性というか、当然のことだけれど、そういう部分を、数多くの人間に知ってもらうのに貢献してくれた存在。
それはそれですごい、かな。
先に言っておくど、僕は別にハチ公先輩に敵対心を持っているとか、いけすかない奴だとか、そういうことをいいたいわけじゃない。
馬鹿にしているわけでは毛頭ない。
人間にとって美談になった話も、犬なら当然でしょって思うだけ。
僕だって、別に誰かに教えてもらったわけでもない。
誰かを一途に想うこと、それをたまたまこの忠犬は、多くの人の前で実践したっていうだけのことでしょ。
それを人間に、美談として取り上げられたっていうだけの話だろう。
僕は、まだ来ないカヨちゃんのことを、このハチ公先輩の見事な銅像の前で待っていた。
おふざけのつもりなのだろうか、カヨちゃんもわざわざこんな場所を待ち合わせ場所に指定しなくてもよいのに。
僕の、反応が面白いだろうからって、わざとだ、きっと。
僕が、学校まで迎えに行くと言ったのに、来なくていいから、たまにはどこかで待ち合わせでもしてみましょうとカヨちゃんは言ったのだ。
最近のカヨちゃんは、僕が少しでも言い返すと臍を曲げるから、僕は大抵のことは何も言わないで飲むことにしている。
僕って、大人でしょう。
僕は、カヨちゃんが来るまでの十数分、この見事なまでの銅像を穴が開くくらいに見ていた。
この中身は、何だろう。ハチ公先輩の、魂が入っているのだろうか。
犬としては、当然ですよねえ、僕は、そう心の中で語りかけ、その大して美犬でもない彼の姿をまじまじと舐め回した。
僕は、僕なら、できればこんな銅像になどなりたくないなあ。
僕は、僕の体は自由でなければならないのだ。
こんな、地面とくっ付いてしまっては、カヨちゃんとの約束を果たせない。
或る夜、カヨちゃんと約束した、あの星を取りに行けなくなる。
そう、僕はカヨちゃんに約束したことがあった。
だいたい、星っていうのはどうやったら掴まえることができるんだ。
第一に重力を超えること、身体も捨てる覚悟の跳躍が必要だ。
第二に命中率を上げること、星は流れるものだから、動物的な動体視力と俊敏なリーチ、それから確実な握力がいるだろう。
それが、銅像なんて。ないね。
「何してんの」
「うわっ」
僕は、完全に驚いた。
僕の耳の真横から、突然声がしたのだ。
カヨちゃんの声だ。カヨちゃんが来た。
「カヨちゃん」
「ごめんね、コタ、待たせちゃったね、なんかホームルームが長くって」
「いいんだけど…」
「何、自分に似てるなあとか、思ってた?」
「似てないでしょ」
僕は、ちょっと怒りましたよ。
カヨちゃんは、そんな僕の顔を覗き込み、
「あ~やっぱり怒ってる」
とからかった。
「ハチ公は、秋田犬だもんね。コタはさ、柴犬だったよ」
「柴犬の方が、イケメンだよね」
「うーん、好みによるんじゃないの」
僕は、わざとらしく、がっくりと項垂れた。
「そこはさあ、彼氏を立てるでしょう、普通」
「そっかなあ、てか、コタは彼氏なの?」
「え、違うの?」
「そっか、そうだよね、今まであまり意識したことなかったけど、そうだよねえ」
「そうだよ、さっちゃんには僕のことなんて紹介してたの?」
「え~、従兄の居候って言ったけど」
「何それ、彼氏って紹介してよ、てかこれから会う人皆に、僕のこと彼氏って言ってよ、カヨちゃんには彼氏がいるって、ちゃんと言ってよ」
「何ムキになってんの、犬のくせに」
カヨちゃんが、冷たい顔をして僕をあしらう。
僕はふくれっ面をしてみせたけど、カヨちゃんはそれを見ても動じないのだ。
「あー、あついあつい」
と、制服のブラウスのボタンを二つも開けて、前後にぱたぱたさせている。
制服を胸元で引っ張る度にカヨちゃんの真っ白い鎖骨がちらちらと見え隠れしている。それを眺めていると、僕はまたしても何とも言えない気持ちになった。
「ぼ…僕は、カヨちゃんに変な虫が付かないかがいつもいつも心配なんだ」
「コタ、今日はお父さんみたいだ」
「もう、何とでも言って」
「ねえねえ、先にさ、近くのカフェでかき氷とかパフェとか、そんなの食べよう」
「いいよ」
「そこで、おばあの誕生日プレゼント何がいいか決めよう」
「うん」
カヨちゃんはそう言って僕の手を握った。
僕は、カヨちゃんが手を握ってくれると嬉しい気持ちになる。
擦れ違う男たちが、カヨちゃんを見て意識しているのが僕には分かる。
カヨちゃんは最近、また綺麗になった。気にしていた癖毛の前髪は最近、縮毛矯正をかけて真っすぐになった。この暑い夏、汗をかいても、突然の雨に濡れてもカヨちゃんはいつでもしゃんと前を向いている。
僕はそれが幾分心配だ。綺麗過ぎるのが何かと心配だ。
笹原君とのことも、どうなったのか、聞きたいけれど聞けないでいる。
この間、さっちゃんにそれとなく聞いてみたけれど、何も変わってないって言っていたから、それを鵜呑みする糞真面目、というか意気地無しの僕。
ハチ公像から離れる前に、カヨちゃんに聞いてみた。
「ねえ、カヨちゃん、ハチ公ってなんで銅像になったの?」
「偉い犬だからでしょ」
「人間って、誰か死ぬとこうやってよく銅像にするよね。偉いと銅像になれるって嬉しいこと? カヨちゃんは嬉しい?」
「厭よ、恥ずかしいもの」
「じゃあ、ハチ公には誰が聞いたの?」
「誰も聞いてないでしょ、てか聞けないでしょ、犬だし」
「人間には、聞くの? そもそも何のために、銅像にするの?」
「うーん、生前に聞ける人には聞くんじゃない? 銅像にするのはさ、こうやって偉い人をお手本にしなさい、見習いなさいって、戒め的な感じ? ごめん、適当に言った、わかんない。大人ってお説教とか好きだからね」
「じゃあさ、像になったのは像になった人の意志では、必ずしもないってことだよね」
「意志の人もいるかもしれないけど……必ずしもね、そうではないと思う」
「じゃあ、像になった人のためでは決してないんだね」
「それも、一概には言い切れないけどさ」
「変だね」
「そうかな、でも、敬意とか、称賛、とかさ、そういう意味もあるでしょう」
僕は、目の前のハチ公像が少し可哀想に思えた。
僕なら、厭だ。
「僕だったら、そんなもの要らないから。僕の好きなもの、例えばササミとかキャベツの芯とか、ボールとかさ、そういうものをたくさんもらった方がいい」
「コタったら、バカね、偉人はそんなこと言わないのよ。だから偉人なの」
「ふーん、偉人ってつくづく変な人種だね」
「だから、私たちはなれないのよ」
僕は、そうだね、と小さく呟いた。そして最後にもう一度だけハチ公像の瞳を見つめ、言った。
「この中に、魂ってあるのかな?」
「ないでしょ、空っぽよ。抜け殻でもないでしょ、どちらかっていうとフェイク。魂は、お墓に入ってるんじゃないのかなあ、知らないよ、もう、行くよ」
「あ、うん」
僕は、カヨちゃんに手を引っ張られた。
そうか、抜け殻でもない、空っぽの模造品か。それならそれで、何だか哀しいね。醜犬なんて言ってごめんなさい、先輩。
僕は、ハチ公像を背に、真夏の陽射しの中を駆けて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます