第5話 思春期
春を思う時期、と書いて思春期と読む。
人が誰かを思う時期が春なのかもしれない。
ちなみに今は春じゃあない。初夏だ。
もしも僕がまだ犬の姿でいられたら、青々とした草原を思い切り駆け回り、蝶や小鳥を追い駆けるのに夢中になっていたことだろう。それが許されないから、僕は仕方なく縁側で昼寝なんかをしている。
カヨちゃんが学校に行っている間、僕はいろんなことを考える。
やることがないんだもの、物思いに耽るくらいしかできない。
さっちゃんもその他のカヨちゃんの同級生たちも、勉強をしているんだ。
社会に出て立派な大人になるための勉強をしに学校に行っているのだ。
そこでカヨちゃんはいろんなことを学び、知識を得、僕の考えの及ばない宇宙を広げていくのだろう。
学校がない休日は、僕はよくカヨちゃんと家の庭に出て洗濯物を干す。
ある日の朝。洗濯物を干しながら、何の気なしに見たカヨちゃんの横顔が、僕の知らない表情をしていた。
カヨちゃんの心はここにあるようでないみたい。そういうことが最近、すごく多いのだ。
僕がそれに気付いたのは、笹原君の一件がきっかけだった。もしかすると、前からそうだったのかもしれないけれど、いつからそうなのかなんて、検討も付かない。
一度気付いてからは、僕の認識がガラッと変わった。
最近のカヨちゃんは、僕といてもぼんやりとどこか別の空間にいるような表情をしているということが、僕の目には見える。
何かを考えている。けれども、何も考えていないようにも見える。
かつて僕のことを、好きって言ったカヨちゃんは、今ま僕のことを考えてくれているようで、少し目を離すと、別の誰か、別の世界、遠くの世界を見ているような、まるで病気や魔法に罹った人みたい。
「カヨちゃん、最近変ったみたい」
「どこがあ? 別に何も変わってないけど」
僕が尋ねると、カヨちゃんは鼻歌を歌いながら答えた。
カヨちゃんは洗濯物の皺を伸ばし、僕はそれを干す。共同作業は順調で息も間合いもぴったりの僕等なのに、確かに感じる、僕と彼女の温度差。
「カヨちゃんの考えていることが、分からなくなってきたよ、僕」
「何それ、今までは私の考えていることが分かっていたっていうの?」
カヨちゃんの片眉が上がった。
「そうだよ」
僕が間髪入れずに答えると、
「あんたはエスパーかって」
そう言ってカヨちゃんは僕をハンガーの先で小突いた。
「じゃあ、カヨちゃんが今考えていることを、当てるよ」
「いいよ」
うーん、とわざとらしく僕は唸ってみせた。
「カヨちゃんは、今、お腹が空いていてとろろ蕎麦を食べたいと思っている」
「……って、すごいね、ちょっと思ってたよ。こわっ」
「適当に言ったけど、当たったね」
あはは、と僕は笑った。
今のは、本当に適当だったんだ。だけど、カヨちゃんのお腹が空いているときの顔は分かる。僕には分かる。
僕に手渡された衣服は、端の方がくしゃくしゃだ。カヨちゃん、大雑把なんだもの。
しまいにカヨちゃんは、洗濯かごから服を取るときに、よっこいしょって言っている。
「カヨちゃんって本当は大雑把だし、オバさんくさいところもあるのに、学校では清楚な女の子だと思われちゃってるんでしょ」
「清楚な女の子って何よ、またさっちゃんの入れ知恵でしょ」
「まあね」
「あの子ってどうしてあんたに何でも言っちゃうのかしら」
「僕がいろいろ聞くからじゃないかな」
「止めてよね」
「だって、カヨちゃんのこと知りたいんだもん」
「私に直接聞けばいいじゃない」
「直接聞いたら、教えてくれないこともあるでしょ」
「そりゃそうよ、人間関係って何でもかんでも包み隠さず言えばいいってものじゃないのよ」
「ふーん」
僕が相槌をついた後で、カヨちゃんの目が少し雰囲気を変えた。
僕は、分かった。カヨちゃんは、僕といるときと外にいるときとを区別している。
僕といるときのカヨちゃんは溌剌としていて少し勝気で無邪気なのに、あの、夕暮れで見たカヨちゃんは、どこか引っ込み思案な子どものようでいて、凛とした冬の湖みたいだった。
カヨちゃんが言った。
「自分が思う本当と周りが決めた真実は、違うでしょう」
「言っていることが、よく分からないよ」
「コタは、そうやって正直に言えていいわよね、分からないことを分からないと言う。そう言うことを許してもらえる」
「誰だって、そうじゃないの」
「……そうでもないのよ」
「へえ」
「私が物思いに耽ってるとしたら、物の本質は一体どこにあるのかしらっていうことよ。」
「本質?」
「綺麗だと思っていたものが一瞬で汚いものになったり、朝だと思っていたら夕暮れだったり、イエスと言っているつもりがノーだったっていうことが、最近どうも多いんだあ」
カヨちゃんはぼんやりと言った。
僕には、カヨちゃんの言わんとしていることがやっぱりよく分からなかった。
「カヨちゃん、好きだよ」
「何よ、急に」
「例えばさ、僕のこの気持ちが、カヨちゃんには一向に伝わらないで、嫌いだって、もしかしかすると聞こえてしまうということなの? そういう日が来るかもしれないっていうことなの?」
「そういうことだって、有り得るよ」
僕は、束にして持っていたハンガーを強く握りしめた。
「だとしたらそれは、カヨちゃん、やっぱり病気だよ。どこかがおかしいとしか思えない。真実じゃない。真実は、覆すことのできない本当だよ。僕は、間違わない、君に好きって言ったんだよ」
「コタのそういうところに、ときどき呆れるよ」
カヨちゃんの心が一気に閉じてそっぽを向いてしまった。持っていた衣服をかごに戻し、家の方へ歩いていってしまった。
「待ってよ、カヨちゃん、洗濯物、最後まで一緒に干そうよ」
「私は、最後まで干したくない」
カヨちゃんはなんだか最近、気難しいのだ。
僕は、犬だけに、人間が大事にしている空気を読むのが苦手で、僕のこういう姿勢に、カヨちゃんは苛々したりするんだろう。
だから、予期せぬ反応をされる度に困惑して、カヨちゃんが急に知らない人のように見えることがある。
部屋で寝ていたおばあにそう言ったら、おばあは、大丈夫だよ、って言って笑った。
「それはね、人間がちゃんと成長しているっていう証拠だからね」
「そうなの」
「カヨは、成長途中なのよ」
成長途中。
まるで人が変わったかのように豹変する、こんなのが成長途中。
僕にはそれが突然の病気にしか思えない。カヨちゃん由来のものとは到底ね。成長の過程で、内から生まれたものとは、どうしても思えない。
「人間は、皆、そうなの? ねえ、おばあもそうだったの」
「そうだったさ、人間っていうのは複雑な生き物なんだよ、未熟なうちは、ああやってカヨみたいに葛藤するのさ」
「また、元のカヨちゃんに、戻るよね」
「私たちは元に戻るってことはないのよ、カヨだってそう。人間はどんどん前に向かって進んでいくものなの」
「カヨちゃんは、別人になっちゃうの」
「そういうことではないよ、前のカヨも今のカヨも、木の幹みたいに太くなった未来のカヨの内側にちゃんといるのよ」
僕は正直、それを聞いて安心した。
もしも、僕とカヨちゃんの今までの日々が、なかったことにされてしまったら、たぶん僕は辛くて仕方ない。
「カヨはね、ちょっと今、自分の身に起きている変化に戸惑っているだけよ」
「僕は、何をしてあげられる? 」
「何もしないことを、してあげてちょうだい、言っている意味、分かる?」
「うん、たぶん」
「コタは、良い子だね」
「おばあ、僕にも思春期って来るのかな、僕も立派な人間になれる日が来るのかな」
「コタは、知識はもちろん半人前だけど、誰かを思い遣る心は大人にも負けない。心の本質が出来た、立派な人間だと、おばあは思うよ」
「ホント?」
「ああ」
僕は、それを聞いて安心した。
おばあは、僕の知っている人間の中で一番、真実を知っている人間だから。
「おばあも、思春期、あったんだよね」
「もちろんだよ、若い時もあったさ。生まれつき婆さんなわけじゃない」
「――そうだよね、でも、全然想像できないな」
「私の若い頃の写真、見るかい?」
「え、あるの? 見たい!」
「そこの引き出しの、一番下の段にある、見ていいよ」
「見る、見る」
僕は随分年季の入った、今まで触れたこともない引き出しを開けた。
ずっしりとした、良い材木の重みを、取っ手を摘まんだ指先から感じる。
「これ、かな、うわあ、これおばあ? 本当に?」
そこには、古い手紙や何かのパンフレット、それから白黒の写真が束になって入っていた。おばあの思い出の代物なのだろう。どれも少し色褪せ、僕の知らない時間、過ぎ去った昔を思わせた。
重なっていた写真を数枚手に取って眺めると、カヨちゃんにそっくりの、もしかするとそれ以上に美しい女の子のすました姿が写っているものがあった。
「どうだい、若い頃のおばあは、カヨに似ているだろう」
「うん、カヨちゃんが着物着てる」
「おばあも、誰にだってこういう時代があったんだよ。生き物っていうのは、どうしても老いていかなくてはならないね。それはコタだってそうだろう」
「僕も、最後にはおばあみたいになるの?」
「だぶんね、でも、未来は誰にも分からない。命はいつ終わるかも知れないし、この先もしかすると、医療が進歩して、こんな皺だらけの姿に誰もならなくなるかもしれない、要は容姿の問題ではないんだよ」
「命は限りがあって、別れは来るっていうことだね」
「うん。過去は誰にでも与えられる、永遠に消えない宝箱みたいなものだと、おばあは思っているんだ。今が素晴らしければ、どんな未来に立ったとしても、やっていけるもんさ。コタ、今を大事にするんだよ」
「おばあ、ありがとう、僕、今大切なことを聞いたね」
「そうさ」
「僕、カヨちゃんが健やかになるまで、何もしないで見守っているよ」
「それがいい」
「それで、カヨちゃんとおばあにおいしいご飯、作り続けるよ」
「あんたは、いつのまにかカヨの兄弟みたいな役割になったね」
「やめてよ、僕はカヨちゃんの恋人でいることがモットーなんだ」
「そうなのかい、カヨの恋人には、ちっと役不足じゃないかい」
「なんでさ」
「うふふ」
おばあが笑った。
「コタ、買い物行こ」
カヨちゃんが、おばあの部屋の襖から顔を出した。
さっきのことは、もういいのだろうか。僕は、気にはなったけれど、気にしていない風を装った。
僕は、できることならカヨちゃんのお母さんにも、お父さんにも、兄弟にも、恋人にもなりたい。カヨちゃんと関わりのある人間になって、ずっと傍にいたいのだ。
「うん、今すぐ準備して、行くよ」
そう言って、玄関に向かった。
上がり框に二人並んで腰を下ろし、カヨちゃんはサンダルを、僕はスニーカーを履く。
すぐ近くに並んだカヨちゃんは、少しずつ大人に成長していて、今までとは少し違って見える。
細い首筋から繋がる緩やかな胸の膨らみも、艶やかにほんのりと色づいた桜貝みたいな手足の爪も、僕の知らないものだ。
僕は、何というか、何て言葉に表現したらいいんだろうか、何とも言えない気持ちになった。
僕は、おばあからとても良いことを聞いた。僕のこの記憶の一つ一つ、カヨちゃんの言動に一挙一動した瞬間が思い出となり、未来の僕にとっての宝物になるのだ。
カヨちゃんと一緒に干した洗濯物の匂い、歩く昼下がりの路地のこと、その全てが、だ。
すぐ近くにカヨちゃんを意識したら、いつもより鼓動がだいぶ速い。
顔もなんだか熱っぽい。
僕はカヨちゃんをずっと見ていたいのに、カヨちゃんの素肌や髪の毛の一本一本にどぎまぎして、目のやり場に困ってしまう。
この気持ちの名前を僕はまだ知らない。
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