第4話 笹原くん

 僕の下手な回想なんて、もう飽きてしまっただろうか。


 過ぎ去ってしまったものはそんなに長くは続かないから、もう少しだけ僕は語りたい。



 カヨちゃんは、僕の知っている中で一番美しい女の子で、それは僕以外の人にとってもそうらしい。

 カヨちゃんは中学に入った頃から男の子達から騒がれたりすることが増えて、それがちょっとうざったいと言っていた。

 高校に入ってもやはりクラスメイトから何度も告白されているようだったし……。


 カヨちゃんは細かいことは僕には言わなかったけれど、よくラブレターをもらってきていたり、家に電話が掛かってくることもあったから、正直僕は気が気じゃなかった。

 カヨちゃんの魅力に皆が気付き始めているのは当然のことで、仕方のないことなんけど、それが僕の知らない世界で起こり始めてる。

 学校にも行けない僕には、カヨちゃんが遠くに感じることがある。それが僕は歯痒くて仕方なかった。


「もう、カヨはコタ君一筋だから大丈夫だってば」

 よくカヨちゃんが家に連れてきた友達の一人、さっちゃんが僕に言った。

 僕は、カヨちゃんの友達の間では、東京の従兄で、カヨちゃんの彼氏っていうことになっている。

 設定は、いちいち口裏を何度も合わすのが面倒くさいから予め二人で決めた。


 僕は、藤谷小太郎、高校一年生。

 生まれつき心臓が弱くて、この田舎に療養しにやって来た。

 都会育ちだけれど、ずっと病院生活だったから流行にはめっぽう疎い。そういう感じの設定だ。


「でもさ、あいつ、笹原君はさあ、なんか違うよねー」

「えー、そう?」

 ん?

 僕はカヨちゃんの少しの仕草も見逃さない。さっちゃんが確かに笹原君っていう名前を出した時だ。カヨちゃんの目ん玉が普段より黒く光った。


「さっちゃん、何が違うのか、僕聞きたい」

 僕は顔を乗り出した。

「コタもやめてよ、何にも違わないったら」

「そうムキになるのも、なんかねえ」

「うん、なんか、だ」

「何よ、もう。私がなんて言おうが関係ないじゃない」

「笹原君、カッコイイじゃない。良すぎるくらい、いいじゃない」

 さっちゃんはカヨちゃんを宥めながら言った。

「それは―、そうだね」

 カヨちゃんが、認めた。それをにんまりと見てさっちゃんが言った。

「他の男子とさあ、言ってしまえば格が違うのよね。ちょっと大人びててさ、カヨに云い寄ってきたりとかは絶対しないんだけど、見てたら分かるわ。カヨのことは特別だって」

「そんなこと言われたら、次から意識しちゃうじゃない」

 カヨちゃんは、やめてよ、と言いながらさっちゃんにクッションを投げつけた。さっちゃんはまだ笑っている。

「カヨちゃん、意識しないでよ、僕を捨てないでよー」

 僕は真剣に言ったつもりだったのに、僕の必死ぶりに一瞬、二人の空気が止まり、さっちゃんは突然笑い転げ、カヨちゃんは呆れて、席を立ってしまった。

「カーヨー、逃げないでよ、私を捨てないでー」

 さっちゃんは、こうやってよく僕等をからかうからいけない。

「なんだよ、さっちゃん、僕まで怒らすつもりかよ」

「冗談、冗談、痴話喧嘩してたまには波風立てなきゃ、長持ちしないわよ」

 さっちゃんは携帯電話を弄りながらさらりと言った。



 僕はさっちゃんが帰った後、カヨちゃんには内緒で、さっちゃんに教えてもらったクラス写真の笹原君を観照していた。


 真面目そうな顔、カメラ目線でも全然笑っていない。僕だったら、へにゃらとにやけて写っているんだろう。

 けれども、笹原君は、そういう風には絶対笑わない。お内裏様に雰囲気が似ている、かな。

 襟足の短い髪の毛先は作為なく自由で、剥き出しになっている首筋からは、男の匂いが漂ってきそうだ。

 浮き出た鎖骨が、開襟シャツの隙間で際立ち、それはいわゆる男の魅力だ。

 笹原君は僕から見てもやはり僕よりも格好良い男だった。


 カヨちゃんが、彼と歩いている姿を想像してみる。なんだか知らないけれど、ドキドキした。

 彼がちょっと片手を振りかざしたら、カヨちゃん一人くらい簡単に攫えてしまいそうだ。


 そんなの、厭だ。

 僕は、鏡を見た。

 僕はというと、長身ではあるけれど、ごつごつと骨張った感じがない。肌の色は笹原君みたいな鳶色ではなくって、白い。

 髪型を変えようか……。襟足は短いのに前髪がおぼっちゃまみたいに重くて長い。

 全体的に、悪くはないけれど、ひ弱だろう。


 さっちゃんに初めて会ったとき、“ケーポップ”って言われた。

 それって、どういう意味だろう。


 笹原君っていう存在が気になって仕方なかった。

 それから、カヨちゃんが学校での話をする度に、僕がしつこく、

「笹原君は?」

 って聞くものだから、カヨちゃんがついにキレた。

「もう、コタは、なんだっていうのよ。笹原君のことなんて知らないわよ」

「ご、ごめん」

 僕は、カヨちゃんの迫力に怯んだ。

「次、彼の名前を口にしたら、私の気の済むまで口利いてやらないから」

 しつこい男は否応なしに嫌われるのだ。

 僕はそれから笹原君という単語を口に出さないよう気を付けた。それでも、どうしても気になってしまい、僕の腹の中には、笹原君がどんどん溜まっていく。



 或る日の夕方、僕はカヨちゃんを迎えに行ったことがあった。

 その日は夕立が降って来て、僕は買い出しの途中だった。

 傘を持っていなかった僕は、急いで家に戻り、荷物を玄関に放ったまま、傘を持って出かけた。カヨちゃん、傘を持って行かなかったから。


 いつもは迎えに行くと怒られるので、家で待っているのだけれど、今日ばかりは口実ができた。

 僕は、身体を大きく前後に動かしながらカヨちゃんが通る路地を駆けていた。

 途中、何度も擦れ違った車の突っぱねを浴びたが、家に帰ったら風呂に入ればいいや、とお構いなしだ。買い出しの段階で既に雨に濡れていたから関係ないのだ。


 雨は思いの外激しく、それでいてすぐに止んでしまった。

 僕は結局、雨の中でカヨちゃんに出くわすことができなかった。

 それでもいいか、この口実は有効だろう。

 僕は、そのまま歩き続けた。けれども、少し歩いて僕の足は止まった。


 遠くに、カヨちゃんが歩いてくるのが見える。

 夕陽を背中に浴び、逆光になった輪郭線に、自信がある、あれは確かにカヨちゃんだ。

 いつもの僕なら、躊躇わずカヨちゃんの元まで全速力で駆けだすのだけれど、僕はそうしなかった。だって、カヨちゃんの輪郭線の隣にはさっちゃんでもない、僕の知らない、いや知っているもう一つの輪郭線があった。


 笹原君だ。


 僕は、思わず小路に身を潜めた。

 二人は、少しずつこちらに近付いてきた。

 二人の話声がはっきりと聞こえる距離まで来て、笹原君の声が、カヨちゃんの声を遮り、そこで二人は足を止めた。

 僕は、その場から動くことができず、ただ耳を欹てた。


 夕暮れの路地の真ん中で佇んでいる。

 夕陽が強くなり、二人の影は僕の足元まで濃く、伸びていた。二人の影は、まるで時間が止まっているように瞬きすらしない。

 話し声も、不自然に止んだ。

 僕は、小路からばれないように少しだけ顔を出し、二人の息遣いから全て、一つ一つの仕草を逃さぬように見守っていた。

 カヨちゃんが、笹原君を見つめている。二人は、何か特別な話をした後で互いを見つめているのだ。

 ああ。

 カヨちゃんは少し、この人が好きなんだ。そのとき僕はそう思った。

 カヨちゃんが、僕ではない別の人、別の世界に目を向けていること、今のこの状況が、厭だ。僕は、この時初めてそういう感情を抱いた。

 この瞬間、僕の中で生まれた感情が口を出た。

「厭だ」

 僕は、誰にも聞こえないくらい小さな声で、呟いた。

 カヨちゃん、その人と、行かないで。それ以上近くでその人を、そんな目でずっと見ていないでよ。

 僕はとうとう、堪らずにカヨちゃんの元へバカ犬みたいに駆けていった。


「カヨちゃん!」

 僕の声に二人は驚いたようにこちらを見た。

 僕は、二人の反応なんかお構いなしに、そこにあったカヨちゃんの細い腕に手を伸ばし、掴んだ瞬間に引っ張った。

「コタ」

 カヨちゃん、なんでそんな目で見るの。

「カヨちゃん、迎えに来たんだ。雨が降ってたでしょ、さっきまで」

 僕は、滑稽だな。

 傘を持っているのに濡れている。

 カヨちゃんは、濡れていない。笹原君の持っている傘に、入れてもらって来たんだ、きっと。

「あ、ありがとう、でも――」

「いこ」

 カヨちゃん、いま君が何と言っても関係ない。僕は固い意志でカヨちゃんを笹原君から離した。

 僕はなんだか、笹原君のことが見れなかった。笹原君は動かない。

「じゃあ、また明日」

 カヨちゃんは彼に言った。僕の手を振り払わないでいてくれた。それでもまるで攫われたお姫様みたいな顔をしている。

 夕暮れの影は、一つだけ取り残され、そして僕等は家路を急ぐのだ。早く、行かなくちゃ。

「藤谷!」

 突然、後ろの影が叫んだ。

 小心者の僕の全身は、びくりとなる。

 足を止めず行こうとしたら、付いてきてくれていたカヨちゃんの歩みが遅くなり、少し距離が開いた。

「また明日!」

 カヨちゃんは叫んだ。

 振り返らないで、そう叫んだ。もう笹原君のことを見てはいなかった。

 代わりに僕は、カヨちゃんと、カヨちゃんの後ろをちらりと見た。笹原君がこちらを見ている。

「俺、本気だから。だからさ、さっきの――、なかったことにしないで」

 彼は幾分小さな声で、最後の方は呟くよう、祈るように言っていた。

 カヨちゃんの手が僕の手を強く握ってくる。

 笹原君は、きっとまだ僕等の背中を、見ている。僕はそう確信したけれど、過ぎ去った今にしがみ付くと痛い目を見そうなので、そのまま置いていくことにした。

 黙々と歩いた。

 僕がここで何を言ったって、カヨちゃんは明日また笹原君と会うのだから。さっき、また明日って言ったもの。

 僕は見て見ぬ振りをするように努めた。だけど、今このタイミングで何を話して良いのかも思い付かず、黙っているしかなかった。


 三分くらい黙って歩いた後、いつものように、

「今日の夕飯は何なの」

 とカヨちゃんが言ってきた。

「今日はね、一緒にお好み焼きを焼こうと思って」

「いいね、あ、ホットプレートを出さなくちゃね」

「もう物置から出してあるよ」

「コタ、さすがだね」

「でしょ」

 僕は、はは、と笑った。カヨちゃんも、少し笑っている。

「おばあは変わりない?」

「うん、今日は調子が良いって言って、起きてテレビを見ているよ」

「お好み焼き、おばあも一緒に焼けるかな」

「きっとね、三人で焼こう」

「ねえコタ」

「なに」

「後で、帰ったら抱っこさせて」

「いいよ」

 僕等は、ふふ、と笑い合った。

 抱っこさせて、なんて、赤ちゃんやペットみたいだね。

 元々はそうだったんだけど、僕が犬の姿に自由自在に戻れるなら良かったんだけどね、それでもカヨちゃん、僕は君を癒すよ。


「コタ、傘差して、迎えに来てくれたんだよね」

「そうだよ」

「なんで髪の毛も服もそんなに濡れているの」

「買い出しの途中で雨に降られちゃってさ、カヨちゃんも濡れちゃうんじゃないかなって心配になって、そのまま家に戻って傘だけ取って、来たんだ」

「そっか」

「でも、意味なかったね、雨もう止んじゃったし」

「風邪、引かないように、帰ったらお風呂に入ろう」

「一緒に入ってくれるの?」

 僕が目を輝かせて言うと、

「入んないよ」

 と冷静にカヨちゃんは言ってくれた。

「入ろうよ、カヨちゃん」

「駄目」

 僕は、カヨちゃんに、駄目、とか、待て、って言われると弱いのだった。

「あ~あ」

 僕は息を吐く。

 二人で手を繋いだまま帰る。

 まるで何もなかったかのようにカヨちゃんは話す。

 僕はさっき、僕の知らない顔をしたカヨちゃんを見て、なんだか不安だった。あのまま僕の知らない世界に行ってしまうんじゃないかと心配だった。

 けれども僕等の日常は、僕の心配を他所に、きちんと舞い戻って来た。

 僕等の日常から排除された笹原君という存在は、けれどもカヨちゃんの日常には依然としてパラレルに存在を止めないで、明日また僕の知らないところでやってくるのだ。


 あいつは今頃、一人で家路に着き、カヨちゃんのことを思っているんだ。

 あの夕暮れの路地を何度も回想して、身体が火照って、顔でも洗っているんじゃないかな。カヨちゃんの名前を、呟いているのかもしれない。

 思えば、僕は、カヨちゃんがどんなことを考えているのか、一日の過ごし方だって僕と一緒にいる十数時間しか見ていなくて、カヨちゃんという人間の一側面しか、知らないのだ。

 人間って、とても複雑な生き物だよね。

「カヨちゃん、僕、あの人、なんか嫌いだ」

 熱したプレートの上にお好み焼きの種を垂らしながら僕は言った。

「あの人って、誰よ」

 じゅう、っと音が響く。

「帰りの」

「ふーん、どうしてよ」

「あの人、笹原君……でしょ」

「――知ってるんだ、あ、さっちゃんでしょう、もう」

 そう言ってカヨちゃんがお好み焼きをひっくり返す。結構、勢い良くいったから、端っこのキャベツが飛んだ。

「あっ」

「あっ」

 固まる僕等。おばあの、手の甲に、飛んだ。

「おばあ、ご、ごめん!」

「大丈夫、熱かったでしょ、氷水で冷やそう。僕、持ってくる」

 あたふたする二人を余所に、おばあが笑って言った。

「なあんも、皮が弛んで感覚も鈍ってるからなー、それより、笹原君って、誰だい? カヨのボーイフレンドかい? 犬コロ、焼きもち焼いてんだろ」

 おばあは、僕をからかうとき、僕のことを犬コロと呼ぶ。

「ボーイフレンドじゃないもん」

「そうかい、あ、焦げてきたんじゃないかい」

「ホントだ、今皿に移すね」

「僕は、焼きもち焼いたんだよ」

 カヨちゃんも、おばあも、僕を見た。

 じゅうじゅう、とお好み焼きが啼いた。

「コタは、本当にカヨ狂だねえ」

 おばあが、ひやかすように言い、僕の頭を撫でつけた。その手は軽くて骨張っていて小枝みたいな感触だった。

 カヨちゃんはというと、照れたのか、厭気がさしたのか、分からない。変な顔でお好み焼きを取り分けていた。

「あ!」

「え、何?」

「コタの、キャベツの芯、捨てちゃった!」

「え~、ひどいよ、カヨちゃん」


 結局、僕等はそうやって、少しの諍いがあったとしても、少し時間が経てば何事もなかったかのように接することができる。

 そのきっかけも方法も、ごく自然の中にあったから、どうやっていたのかなんて改まって聞かれても分からない。

 もしも、一度、遠くに離れ過ぎてしまったら、僕はどうやってカヨちゃんを取り戻そう。そういうことを考えると不安になるのだけれど、ごく自然の流れの中を生きている僕は、そのとき、そんなことを深く考えたりはしなかった。


 それは自然の摂理だ。

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