第16話 オジサン

「お前、最近、えらく老けたな。なんか悪い病気じゃないのか」


 あるとき、西蔵さんがそう言った。


「いえ、病気ではないと思います。平気です」


 僕にはその理由が分かる。

 僕は日に日に、人間のそれとは別の速度で老いていっている。

 分かるんだ。体力が回復しないことや、手を陽射しに翳した時の皺の数とか、僕を見る周囲の目線とか、そういうものを総合して、僕は五感で自分の老いを感じている。


 老いていくことは決して恐怖ではない。僕は決して焦りなど感じていはいなかった。


 遠く得体の知れないもの、計り知れないものは恐い。けれども、僕はこの様になって、人生のだいぶ先、行くところまで行ってしまってからは、恐いものが減ってしまった。死に怯え、泣く子では既になかった。


 僕は、公園の脇に駐車していたトラックのサイドミラーを覗き見て、今の自分の顔というものを観察してみた。

 随分久しぶりにちゃんと見たら、想像以上だ、僕は立派なおじさんになっていた。

 昔は、自分で言うのもなんだけど、少しはイイ風貌をしていたんだ。カヨちゃんの隣に居ても、釣り合う容姿だったと思う。さっちゃんにも、そう言われた事がある。

 それが、今はどうだろう。

 粗雑に日焼けした肌、ようく見ると頬にあちこちに小さなシミがある。瞼も目尻も下がったな、張りがないと言おうか。髪なんか伸び放題で、所々、銀色の毛が混じっているぞ。艶のない針金のような。顔も骨張って、骸骨みたいではないか。

 僕は、わざと上下の歯をカチカチと当てては離してを繰り返した。


 これでは、西蔵さんも心配するわけだ。


 僕は、大きく深呼吸をして目を閉じる。

 

 最近では、鼻も利かなくなってきたから、覚えているカヨちゃんの匂いも、カヨちゃんの気配も辿ることなんてできないだろう。

 けれども、カヨちゃんの姿は毎日、簡単に見ることができる。

 カヨちゃんは、今や売れっ子で、テレビや街頭の広告物のどこかしらにいる。そしてかつて西蔵さんがくれたくたくたの雑誌の切れ端――僕のポケットにも、彼女がいる。



 僕はある日、食料調達に出た帰りに通った道で、とあるポスターを見つけて釘づけになっていた。

 大きく張り出されたポスターは化粧品の新作……なのかな、僕は初めて見た。


(カヨちゃん……本当にキレイになったな。)


 改装途中の敷地を覆う外壁にできた広告版に、連作で並んだいろんな女優さんのポスターの中に、カヨちゃんがいた。

 端から端まで見比べても、カヨちゃんがやはり一番に見える。

 こんなに美しい人は、やっぱり見たことがない。僕はまたここへ足を運ぶだろう。


 カヨちゃん、大人になったな。

 化粧をばっちりしているせいだろうか。

 辺りは薄暗く、人気もない。

 目につく所に人がいないことを確認し、僕はカヨちゃんのポスターに口づけをした。

 冷たく平らな感触。

 湿った紙の匂い。

 僕は、目を閉じてカヨちゃんの匂いと唇の感触を必死に思い出そうとしていた。

 目を、そのまま暫く閉じている。

 その時だった。


「何してんの」


 後ろから声を掛けられ、僕は動揺した。

 まさか人に見られていたなんて、どうしよう、こんな汚い身なりで、警察とかに通報されちゃったりとかしたら、と、僕はかなり慌てた。

 そして振り返ると、僕は驚きで、どうにかなってしまいそうだった。


 カヨちゃんだ、間違いなく。

 顔に不釣り合いなくらい大きなサングラスを掛けていたけれど、カヨちゃんだった。


(カヨちゃん、どうしてここに?)


 僕は、本物とポスターの彼女を見比べ、目をパチクリさせていた。


「……おじさん、キモイですよ」

「あ、あの……」


 カヨちゃんに、おじさんと言われてしまった。まあ、仕方ない。

 それよりもどうしたことか、有名人の藤谷カヨが、どうしてこんなところにいるのだろう。僕の妄想、僕の空想、僕は死んだのか。そんな馬鹿げたことを考えた。



「藤谷さん、行きますよ!」

 僕は本当は、カヨちゃんって声を掛けたかったんだ。けれど、カヨちゃんのマネージャーか、誰かそういう業界関係者の叫び声に遮られた。

「はーーい!すみません。」

 カヨちゃんは返事して、もう一度だけ僕を見た。

 置いてきぼりの子どものように佇む僕。


 小雨がぱらついてきた。


「……カヨちゃん……僕だよ、わかんないかな」



「コタ……?」



 カヨちゃんは、僕を抱きしめた。こんなに汚い僕のことを、抱きしめてくれだのだ。


「ちょっと、藤谷さん、何してるんですか?誰が見てるとも知れないのに。誰です、この汚いおじさん」

「私の……家族なんです」

「ええ、ちょっと、とりあえず、ここじゃまずいんで……」


 そう言うと、その人はカヨちゃんと僕をワゴンに乗せた。


 後部座席には二人しかいない。

 僕は、何を話せば良いのか分からず黙っていた。カヨちゃんだって、何を話して良いのか、悩んでいるみたいに見える。

 それでもやはり、切り出したのはカヨちゃんだった。


「今まで、何してたの」

「僕は――見たら分かるでしょ、犬みたいに生きていたよ、犬だけに」

 そう言って僕は笑った。

 僕は、ただ生きてきたんだ。

 それからね、ずっとカヨちゃん、君のことをバカみたいに思っていた。太陽が毎朝出るのと同じように、いつか降る雨のことを想うようにカヨちゃんのことを考えていた。

 僕の物語はやっぱり、最初から最後までカヨちゃん中心で終わるみたいだ。


「さすがだね」

 カヨちゃんも笑った。そして、

「ガム、食べる?」

 と、バックから取り出したガムを一つ僕にくれ、自分も食べた。



「私はね、けっこう頑張ったかな」

「うん、さっきもさ、見惚れてたんだ。あんなに綺麗なモデルや女優さん達の中でも、カヨちゃんが一番輝いていた」

「恥ずかしいね、なんか」

「でも、ほんとだよ」

「ありがとう」

「うん」

 車が、どこかに止まった。

「コタ、なんだか随分――歳とったね」

 カヨちゃんは僕の顔にできた小皺の一つ一つに触れて言った。

「そうでしょ、寿命だよ、きっと」


 そう言った僕の言葉に、カヨちゃんは一瞬変な顔をした。しかし、それはすぐに

「なに言ってんの」

と、元の表情に戻りカヨちゃんは続けた。

「私ね、これからもう一つだけ仕事が残っているんだ。このままコタは私のマンションに行って、待ってて。運転手にそうお願いしてあるから。じゃあ後でね」

「え――、うん」

 カヨちゃんは僕に鍵を渡して慌ただしく行ってしまった。



 僕はその後、カヨちゃんのマンションに案内され、そこで彼女を待つこととなった。

 カヨちゃんのマンションは、当たり前だけど当時とは違っていてかなり高級な高層マンションだった。こんな場所に僕みたいのがうろついていたら完全に不審者だ。そんな心配を余所に、僕が最初に連れて行かれたのはマンションではなく、どこかの美容室で、ごわついた髪の毛も無精髭も綺麗に整えられ、服も清潔になった。

 この格好なら、と僕は幾らか安心してカヨちゃんのマンションに足を踏み入った。



 カヨちゃんの部屋はシンプルだった。装飾品とかはほとんどなくて、家の中心に大きなパキラの鉢が置いてあった。

 僕はここでカヨちゃんを待った。

 そして、こうやってカヨちゃんを部屋で待っていたあの頃のことを思った。

 あの時代は、あまり楽しい思い出がなかった。カヨちゃんが笑っていなかったから。僕は、還るならおばあが生きていた頃のあの家に戻りたい。カヨちゃんと手を繋いで買い物に、また行きたいな。



 カヨちゃんは案外早くに帰宅した。


「カヨちゃん、もしかしてまた僕を傍に置いてくれる気になったの?」

 「また」ってところが、ちょっと皮肉っぽかったかな……。それでもいいや、僕は続けた。

「でも、また捨てられても大丈夫なように、当てはあるから安心してね。」


「コタ、しばらく会わないうちに、随分意地悪な洒落が利くようになったのね」

「えへへ、そうでしょ」

 僕等は、僕等を隔てていた数年のことは忘れて案外普通に話をすることができた。


「男前になったね」

「もう、びっくりしたよ。どこに連れて行かれるのかと思って」

「そうでしょう、でもねえ、あの格好はさすがに、ないわ」

「ないね」

「これ、捨てちゃって、いいのかな」

そう言ってカヨちゃんは僕の脱ぎ捨てた上着を拾った。ポケットから何かはみ出している。

「……何これ」

 カヨちゃんは、そのくたくたの紙を引っ張った。そこから、芋づるのようにたくさんのぼろぼろの紙が床に散らばった。

「カヨちゃん……」

「ホントだ、私だ……」


 僕のポケットには、あれから拾ったカヨちゃんの写真が何枚も重ねてしまってあった。カヨちゃんは散り散りになったそれらを、僕と一緒に拾い集めながら、気付いたら僕のすぐ横で泣いていた。

「カヨちゃん、どうしたの?」


「具合でも悪いの?」


「……ごめんね、こんなに切り抜き集めて、気持ち悪いよね」

 僕は慌ててそれらを掻き集めた。


「違うの、コタ、ごめん、本当にごめん」

 カヨちゃんが泣きやまない。


「私、本当に大事なものを自分から捨ててしまったんだね」

「あのときは……全部、仕方がなかったんだよ」




「ねえ、カヨちゃん、僕等、また間違ってもいいからさ、一緒にいようよ」

 僕は、ダメ元でダメ男みたいなセリフを言ってみた。

 そして、「僕が死ぬまで」とは言わなかった。

 僕は明日死ぬかもしれない。彼女だって同じことだ。


 カヨちゃんは僕を抱きしめてくれた。

 抱きしめられる感覚を僕は、本当に久しぶりに味わった。

 ああ、これが幸せだった、と思った。そして僕は、長年に渡って僕を支配していた疑問に対する答えを、今、見つけた。


 僕は、何者でもない。僕は僕だった。



 拾い終わった後、僕等は互いの話をした。

 カヨちゃんの仕事の話とか、僕の方は、情けない話だけれど公園で生活していたことや、もちろん西蔵さんの話もした。おばあと僕等の家が取り壊された話もした。

 カヨちゃんは、西蔵さんにとても興味を抱いたみたいだった。


 それから僕は、カヨちゃんの携帯電話から西蔵さんに電話した。あの携帯電話はやはりカヨちゃんが復活させたらしい。

 西蔵さんが言っていた、未登録の番号も新しいカヨちゃんの番号だった。カヨちゃんは、カヨちゃんなりに僕のことを思って後悔していたみたい。

 忘れたわけではなかった。それだけでも嬉しかった。



 西蔵さんがまだあの携帯を持っていれば、必ず出るはずだ。

「もしもし」

 案の定、それは聞き慣れた声だった。

「西蔵さん、僕です」

「お、お前、犬コロか、大丈夫か?」

「はい」

「お前が怪しい車に乗せられて連れて行かれたっていうのを、他の奴から聞いて心配していたんだぞ、」

「なんですかそれ」

「とにかく元気なんだな、今、どこにいるんだ」

「はい、西蔵さん、僕、今、大切な人の部屋にいます。だからもう、あの公園には戻らないと思います。それを伝えたくて、今まで本当にお世話になりました。西蔵さんがいてくれて、僕、結構楽しかったです」

「おう、でもなんか、死ぬ前の挨拶みてぇで、しおらしいな」

「違うんです。ある人のために、やっぱり僕は生きていくことに決めたんです。だからきっと、そっちに戻ることはないかなって」

「お前、そりゃあ運命の女だな」

「そう、運命の女です」

「そうか、元気でな。俺も結構楽しかったぞ」

「西蔵さんも、お元気で、もう歳なんだから無理しないで、あとリンチに気を付けてね」

「余計なお世話だ、じゃあな」


――そう言って電話は切れた。

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