第15話 約束
西蔵さんがカヨちゃんの切り抜きを僕にくれた日、久々に僕はカヨちゃんの懐かしい夢を見た。
それは、忘れてしまっていたけれど、僕にとって大切な思い出だった。
そして僕は、ある約束を思い出した。
僕はかつて、カヨちゃんに約束をしたことがある。
僕等がまだおばあの家に住んでいたときだった。
まだ小さくて、ごく自然に二人が一緒にいられた頃――。
夏の夜、縁側で花火をして、二人で夜空を眺めていた。
僕等は相変わらず僕等だけの、僕等にしか通じない他愛もないやりとりをしていた。
「コタ、本当に私が言ったこと、みんな叶えてくれるの」
「うん」
僕は、あの時、躊躇わずにそう言った。
「じゃあ、あの空の星を取って来てって言ったら、どうするの」
「もちろん、取りに行くよ」
「無理でしょう」
「今はさ、僕にその知識がないだけだからね、これからどうやって取りに行くか、考えるだけだよ。だから、答えはイエスなんだ」
「そんなの、できっこないのは分かり切っているじゃない」
「すぐじゃなきゃ、駄目? やり方を考えるよ。時間さえあれば絶対にできるよ。」
「……コタってどうしてそう楽天的なの?」
「僕、間違っているかなあ?」
「そんな簡単に言い切っちゃったら、できなかったらときどうするの? 嘘つきとかいい加減な奴って言われちゃうわよ」
「僕は、死んだってその努力を続けるよ、ほら、死んだ方が空に近付けそうだよね」
僕は気軽に笑ったのに、カヨちゃんは何だか怒ったような顔をした。僕にはそれがどうしてか分からなかった。
「コタは、分かってないよ」
そう言った。
僕は、そうかなあ。分かっていないのかな。
そこが、僕と人間の決定的な相違だったよね。
思えばさ、だからカヨちゃんは、後になって僕とは一緒にいられないって言ったんだよね。
犬の姿のままだったら、僕はカヨちゃんの傍にずっといることを許されたのだろうか。
僕は、どうして、こんな姿になったのだろう。
何かしら意味はあったんだよね、きっと。
犬が人間に化けた、なんて、なんて滑稽な話だろう。
僕は、これから、どんな奇想天外摩訶不思議なことが起きても、月日なんて超えてずっとカヨちゃん、君のことを愛している。
君が、本当は前みたいに振り向いて、僕を見てくれたらって思うけど、そうでなくたっていいんだ。
僕がいま見ているあの星を、本当に君に届けたいよ。
あのとき僕が、どの星って執拗に聞くものだから、じゃあ、あれ、と投げやりに言って君が指さした星を、僕はずっと覚えている。星の位置は、夜空を回りながらもずっと変わらないんだ。
きっと届けに行くよ。僕が死んだら、ね。
犬の寿命は二十年くらいだから、僕は随分老いてしまったように思う。カヨちゃんと別れてからのここ数年で顕著だ。
日焼けなんて気にせず生きてきたから、肌は真っ黒で小皺も増えて、髭だらけだし、どう見てもおじさんである。それでもきっと実年齢より若いと思う。
実際の年齢は分からないけれど、僕は自身の死が近づいているのがわかる。
この姿では、カヨちゃん、もう君の横を歩いたら釣り合わないよね。
かつては、お母さんみたいな存在だった人の年齢を優に超え、今では自分がお父さんみたいな身なりになってしまった。
僕は最近、死を自覚する時間が増えた。死を、肉体の消耗について意識することが増えた。
僕は、人間として死にたいのか、犬として死にたいのか。
そういうことを、考える時期があったけれど、今はもうどちらでもいいような気がした。
たとえ僕の死が今日訪れようとも、それが明日であっても、僕は後悔なんてしない。心残りも、ないかな。
うん。
うーん……嘘かも。
「おーい、犬コロ」
西蔵さんの声がする。
「ここです、どうしました?」
まだ夜も明け切っていない時間帯。
僕は一度目を覚ますと眠れない質だったので、段ボールの上で、朝露の匂いを嗅ぎながら、空の色が少しずつ変わっていくのを見ていた。
「これこれ、お前からもらったケータイ電話、とっくに解約されたガラクタだったのによ、これ見ろ」
「え」
「電波、三本、立ってんぞ」
「どういうこと」
「誰かが金払ったんじゃないか?」
「これ、いつからですか?」
「わかんねえな、誰か欲しい奴がいたら物々交換に使おうと思ってたら、忘れてた」
「そうですか」
「電話、本当に掛かるのかな、犬コロ、ちょっとやってみていいか」
「あ、はい」
そう言って、西蔵さんは興奮気味に、番号を早技で押し携帯電話を耳に押し当てた。
「……おい、これ、聞いてみろ」
暫くして、西蔵さんは自分の耳元から携帯電話を外し、僕の耳へ押し当てた。
「……まの時刻は、午前四時五五分です。プップップ…」
「時報、ですか?」
「おお、ちゃんと繋がってるぞ」
「そのようですね」
「これ、だから、お前に返すよ」
「え、でも、僕は使わないから、西蔵さん使ってください」
「え、いいのか」
「はい」
「何かの手違いとか、一時的なものかもしれないしな」
「そうだと、思います」
僕の携帯電話には、カヨちゃんの番号とさっちゃんの番号、それからもう使われなくなってしまったおばあの家の番号、働いていたときの幾つかの会社の番号くらいしか登録されていない。
着信履歴はずっとない。
別に流れ星に願ったわけでもないのに、変なことの一つや二つは起きるものだ、この世の中というものは――。
僕は、遠慮する西蔵さんに携帯電話を押し戻すとまた所定の位置に戻った。
もしも、親切な何処かの誰かが、滞納料金を払ってくれたとして、繋がった携帯電話はお金を払わなければまた止まるのだ。僕は、携帯会社へのお金の払い方も知らない。今まではカヨちゃんが全部やってくれていたから――。
あれ、もしかすると、カヨちゃんの仕業だろうか。
僕と連絡を取りたがっているのか、なんてね。
もしかしてカヨちゃんの身に、何かあったのだろうか。頭の隅っこでいろんな可能性についても考えてみた。
(もしも、そうなら、なぜ連絡をよこさない?)
却下。
西蔵さん曰く、その後、登録番号以外のところから一度電話が掛かって来たのだが、西蔵さんが出ると何も言わずに切れた、らしい。
携帯電話は、西蔵さんがそれからも使っていた。
日雇いのアルバイトなんかをしたいとき便利だ、と言っていた。
僕は、西蔵さんの役に立てていると思ったらそれで良かった。
僕は、西蔵さんみたいに携帯電話を活用することがきっとできない。自分から掛ける当てもなく、掛かってこない着信をただ待つことくらいしかできない。そんなのに支配された生活は、今の僕にとって、きっと携帯電話がない生活よりもどかしい。
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