第14話 ホームレス

「よーし、これからお前に、三つのことを聞く、耳の穴かっぽじって、よおく聞け。」

「はい!」


「一つ、お前は、パン一かけを手に入れることの苦労を知っているか。」

「……。」


「二つ、お前は、お前にとってのパンの一かけの価値を知っているか。」

「……。」


「最後に、お前にとって、地べたに落ちたパンと高級レストランの高級皿にのったパンの違いは何だ」


 まるでなぞかけ、とんちのようなことを西蔵さんは言う。

 僕は西蔵さんの言ったことを一つ一つ思い出しながら、結局、

「わかりません!」

 と点呼のように叫んだ。

「分からんやつらが、俺らみたいになっちまうんだよ」

「え?」


「犬コロ、お前は若くて賢そうに見えるのに、とんだロクデナシだな。心が壊れてしまたのか、元からイカレてんのか、どちらかだな」



 西蔵さんというのは、僕が今、寝起きしている公園に古くから棲みついている先輩ホームレスだ。

 僕は知らなかったが、ホームレスにも‘しきたり’というか、その区域で決まりみたいなものがあって、僕は完全に無礼な新参者だったのだが、この西蔵さんに目を掛けてもらえたお陰で、今の場所で寝起きすることを他のホームレス達にも認めてもらえたのだ。

 西蔵さんは僕の恩人である。

 そんな西蔵さんは、僕のことを犬コロと呼ぶ。


 西蔵さんに犬コロと呼ばれる度に、僕はなんだか懐かしい気持ちになるのだった。



「西蔵さんって、頭がいいね」

「そうだ、俺は元はエリートだった」

「エリートって何?」

「お前って、本当、横文字にめっぽう弱いのな」

「うん」

「まあ、そこそこ有名な学校出て、一流企業に勤めて、順風満帆な生活を送っていた時期もあったんだ」


「そういう人も、ホームレスになるんだね」


「好きでなったわけじゃねえよ」


「そうだよね」

 僕は、僕もそうだった、と呟いた。


「皆、こんな地べた這いつくばるような生活をする破目になったきっかけっていうのがあったんだ、人生は思わぬところに落とし穴があるもんよ」

「うん、本当この世界って分かんない」

 僕は吐くようにいうと、西蔵さんは、うむ、と腕を組みながら講師のように言った。

「この世は愚かなことで成り立っている。自分だって愚かでできているんだ。だけど、そんな愚かな人間の最も愚かな行為は、自ら命を絶つということだ。それを知っているから、俺はこうやってのうのうとでも生きてんだ」

「僕、死にたいって思ったことはないけど、或る人のためになら必要であれば死んでもいいって思ったことがあるよ」


「運命の女だな」


「運命の女? 何それ」


「命を懸けられる女……」



「お前は、そういう女、いないのかい? まあ、いたらこんな所でこんなことしてねえよな」

 そう言って、西蔵さんは、がはは、と笑い、今日の夜ごはんの調達に行くと言った。


「お前の分もありそうなら、後で持ってきてやるよ」

「ありがとう」



 西蔵さんに会釈しながら僕は運命の女について考えてみた。

 僕の、運命の女は、間違いなくカヨちゃんだった。だけれど、どうしてか、僕は最近、カヨちゃんのことを言うとき、過去形で終わらせてしまうのだ。

 それは自分で考えても不思議な現象だった。

 どうしてかは分からない。

 僕は、ぽりぽりと頭を掻いた。



「そうだ、お前、このモデル好きなんだよな、やるよ」

 去り際、思い出したように駆け寄ってきた西蔵さんが僕に差し出したのは、カヨちゃんのくたくたになった雑誌の切り抜きだった。


「西蔵さん、これどうしたの?」

 僕が子どものように目をキラキラさせながら言ったので、西蔵さんが得意になって言った。

「拾ったんだ」

「拾った? 捨ててあったの?」

「雑誌なんてな、こんなの軒先や道端にだって捨ててあるんだ」

「そういうもんなの?」

「ああ、もったいねえよな」

「たくさん?」

「だってお前、これが一体どれだけの数、印刷されて世に出回っていると思ってんだ」


 カヨちゃんが、そんなにたくさん複製されてたくさんの人に見られて、こうやって捨てられている。薄っぺらの紙に何枚も、何枚も……?


 僕はそれを大事に折りたたみ、ポケットにしまった。写真でも、カヨちゃんが捨てられているというのはとても嫌だ。

 僕は、そんな光景をこの世から消し去るためにこれから、それを一枚一枚拾ってあげたい。



 写真になったカヨちゃんは、冷たくて、薄っぺらで、紙の匂いしかいない。

 カヨちゃん、でも、僕にはこの一枚でもカヨちゃんの一部だと思うし、それら媒体は、たとえ遠く細くても、遺伝子みたいにきっと最終的にはカヨちゃんに繋がっていると思うから。


 僕のこの気持ちは、確かに前の僕の気持ちとは少し違っていると思う。


「ねえ、西蔵さん」

「なんだ」

 僕は、西蔵さんを呼び止めて尋ねた。

「好きなだけでは駄目ってどうしてなんだろうね」

「なんだお前、フラれたのか? おセンチか?」

「ずっと好きでいることって、できないことなの?」

「恋愛っちゅう形はやがて終わんだよ。人間は飽きっぽい生き物だしな。でも、終わった好きを越えたらその先には、違う形の好きがあるんじゃないのか」

「そうなの?」

「家族とか、そうだろが、って天涯孤独の俺が言うなって台詞だな、変なことを言わせるな」


「西蔵さんってやっぱり頭いいね」

「そうだろ、何でも分かっちまうから、ついつい答えちまうんだ、これ俺の悪い癖」

「ねえ、西蔵さん、もう一つだけ」

「なんだよ、お前、俺の夕飯が遠のくだろうが」

「ごめんなさい、あのさ、西蔵さんってずっと昔からこの公園にいるの?」

「いや、他にもいろいろ回ってきたな」

「あのさ、もう数年前の話だけど、僕に会った記憶、ない?」

「は? 覚えねえよ。お前みてえなアホ面、一度見たら忘れないだろうが」

「そうですか、じゃあ人違いか」

「なんだよ」

「僕、前に西蔵さんにそっくりの人にパンを奪われたことがあってさ」

「俺は、人様の物は奪わないって決めてんだ、そいつはとんだ無礼者か、無類のパン好き、パン狂いじゃねえか」


「なんか、怪しいね」


「なんだよ、その、睨んだような顔はよお」

「いや、西蔵さんもパン好きだよなあって思ってさ」

「そんなこと言ってたら、お前の分はやらんからな」

「ごめんごめん、ついね、いや、僕嬉しいんだ」

「なんたそりゃ」

 そう言って、西蔵さんは夕飯を探しに行ってしまった。



 そっか、そういうことだったのか。

 僕はこのときようやっと理解したような気がした。僕のカヨちゃんへの愛は、形を変えて永続する。

 昔も今も、僕はやっぱりカヨちゃんが好きで、この気持ちは死ぬまで続くのだ。

 もう、君の傍に居たいとか、君に触れて、君に見てもらいたいとか、望んだりしないから……。


 君を、空を飛んでいる鳥のように、夜空に浮かぶ月のように、慈しむように、見守っていくよ。

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