第12話 初美さん
おばあの家の取り壊し作業は、あっという間に終わってしまった。
僕は、カヨちゃんの部屋を出た後、正真正銘のホームレスとなったのだが、それでもあの家に、もしも戻ることが許されるのなら、やっぱりそこで死んでいきたい、という気持ちが僅かながらあった。
僕は呆然と歩いて、結局、おばあの家の前に立っていた。
このとき、土地が売りに出されたことは知っていたが、あの家が今、どういう状況にあるのかは知らされていなかった。
もしかしたら、もうないかもしれない。新しい家が建っていることも考えられる……しかし、僕の心配をよそに、家は、昔の姿のままそこに建っていた。
僕はそれから数日、当然のことながら水も電気も来ていない廃墟となったその場所で、ただじっと亡霊のように寝起きした。
おばあの匂いも、カヨちゃんの匂いも、薄くなったな。
これが、家の死というものなのだろうか。
僕だけは一向に死んでいないから、お腹も空くし、身体だって汚れていく。
老いだって、確実に僕を飲み込もうとしている。
僕はもうこの場所しか居場所がなかったので、できれば死ぬまでここで眠っていたかった。
しかし、それはすぐに叶わぬものとなった。
とうとう、取り壊し作業が始まったのだ。
土地が売れたのだろう。
或る朝、轟音と埃の臭いで飛び起きた僕は、その後に入って来た作業員達に見つかりこっぴどく叱られた後。すぐさま立ち退きを余儀なくされてしまった。
僕は、これからどこに行こう。行きたいところがあるわけでもないのに……。
それからは、ある公園の裏にある森に段ボールを組み立てて生活するようになった。
実はホームレスになりたての頃、前に一度、傘を差し出してくれたお姉さんに偶然にも再会したことがあった。
それは奇遇にもまた雨の日だった。僕はその汚い体を洗い流したくてわざと雨に打たれに何もない路地に出たのだ。
雨に打たれていると何だか小さい子どものように、心が少しだけ踊るような気がして僕は久しぶりに幾分上機嫌だった。
雨の夜は人はあまり歩いていない。それがいい。
僕は、はたから見たらもしかしたら笑っていたかもしれない。
「あら、あなた、もしかして」
雨音を通り抜けて僕の耳に届く、風鈴の声だ。前にも確か、聞いたはずだ。
僕は振り返る。
「やっぱり、そうよね、覚えてないかな」
艶やな真っ赤なルージュがしゃべる。この声が心地よいので、できれば僕はもう一度聞きたかった。
僕は正直もう全てのことがどうでもよかったので、彼女のその声を再び聞いて、この後、彼女に言われるまま、傘に入り、マンションに付いていった。
彼女の名前は初美さんというそうだ。
「ほら、遠慮しないで上がって、あらあなた、明るいところで見たら随分汚い格好してんのね、そのまま、あっち」
初美さんは、玄関からすぐの右ドアを指差した。
「風邪引いたらいけないし、シャワー先に使っていいよ」
「はい」
「あ、あるもの全部、何でも使っていいからね」
そう言われ僕は、初美さんの部屋で、久しぶりに温かい風呂に浸かり、シャンプーの香りに包まれて綺麗になった。
初めて嗅ぐシャンプーの匂い。
身体を綺麗にしてから湯船に浸かろうとしたら、いきなり浴室のドアが開き、初美さんが入って来た。僕は、びくっと身体を強張らせた。
「何も、とって食ったりしないわよ、あ、違う意味で食べちゃうかもしれないけどね」
うふふ、と笑い、その後、
「選手交代!」
と言って、ぽん、と僕の背中に、その小さな手をのせた。
僕は湯船に浸かって初美さんを観察していた。
この人を、初めてちゃんと見た。
カヨちゃん以外の女の人の体を初めて見た。
初美さんの体は白くて、胸やお尻や、首筋の全てが柔らかそうに見えた。
女の人の身体って皆、こうも艶やかなのだろうか。
それに比べて僕の体は日に焼けて所々皮が剥けていたりする。
こうやって温かいお湯に浸かっていたらこの硬い皮膚がふやけて綺麗な肌が剥き出てくるのだろうか。僕は少々長風呂しながら思った。
初美さんはちゃっちゃと身体を洗うとすぐに出て行った。
「私、烏なの」
「烏?」
烏とは、あの黒い烏。
「烏の行水って、意味知らないっかな?」
初美さんは、その意味を説明してくれずに、そのまま浴室から遠くへ行ってしまった。
僕は当然、行水の意味も知らないから、クエスチョンがずっと頭に浮かんでいた。
浴室から出て、初美さんが用意してくれた衣服に手を通し、初美さんを探した。
初美さんはリビングで、僕に背中を向けるようにして爪の手入れをしていた。
「あの」
「あ、上がったのね、どうぞ好きな場所に落ち着いちゃってちょうだい」
そう言われたが、僕は初めての場所でどうしたらよいのか本当に分からない。
僕がいつまでも立ったまま固まっているのを見兼ねた初美さんが、
「じゃあ、ここ」
と言って、彼女のすぐ横のクッションに招いてくれた。
僕は、言われるままにそこへ座った。
「ビール飲む?」
「お酒って、飲んだことない」
「マジで」
初美さんは驚いた様子だった。
「飲んでみたら?」
そう言って、初美さんは自分の口の付けた缶ビールを僕の方へ差し出したが、僕はいらないと言った。
爪を磨く初美さんは猫のよう。
だけど彼女は自分のことを烏と言った。そんな不思議な雰囲気の初美さんは涼しそうな青と白のボーダーのキャミソールを着ていた。
キャミソール。
僕はその瞬間、カヨちゃんのことを思い出さずにはいられなかった。
「君、前にも一度会っているよね、覚えている?」
「……覚えています」
「あのときは、ふられちゃったけど、今日はお持ち帰り成功だね」
初美さんは笑った。
さっきから、僕はこの人の笑った顔しか見ていない。僕は今、彼女のように笑えるだろうか。
きっと笑えない。
「名前、何て言うの?」
「コタロウ…だったと思う」
不意に初美さんに尋ねられ、かつて決めた僕の人間の名前を瞬時に述べるのは至難の業で、名字は、何だっただろう……適当なのも思い付かないし、言わなかった。
「私は、初美っていうの」
初美さんはそれから僕の手を取り、爪を丁寧に切ってくれた。
女の人は、誰でもどこかに母性を持っているのかもしれない。
僕は、経験したことのない想像の母親の記憶を、ほんの一瞬だけこの人に重ねてしまった。
僕の爪を切り終えた初美さんは、道具を置くといきなり衣服を脱ぎ始めた。
「こっち来て」
手を引かれるままに寝室へと僕は歩いた。
足元に、初美さんの脱ぎ落したキャミソールがそのままになっている。僕は流し眼でそれを追った。
そしてその後、僕はそのまま、全て初美さんの言う通りに動いた。
パンティを脱がして、とか、首筋を舐めて、とか、そこを撫でてとか、初美さんが叶えてほしいことを、叶えられる範囲で、言うがままに。
こういう行為は、かつてカヨちゃんとしたことがあった。
僕は、未練がましくも、またあの真夏の砂浜へ行けると思っていたのに、行けなかった。
あの季節にトリップできる時代は、僕の中でとうに終わってしまったのだ。
そして過ぎ去ってしまってはもう二度と戻って来ないのだと、悟った。
事が終わって、初美さんはベッドの中で言った。
「私、風俗で働いているんだあ。コータ君、働かなくていいから、ずっと家にいてよ」
「風俗って何ですか?」
僕が真顔でそう言うと、初美さんはくくくと笑った。
初美さんは僕のことをコータ君と呼んだ。
「君ってさ、烏の行水もビールも、風俗も、知らないんだね。ホント不思議」
「そうですか」
「でも、知らないで良いことは知らないままでいられた方が幸せだよ」
そう言って今度は寂しそうに笑った。
「他に何も望まないから、いてくれるだけでいいんだけどなあ、こんなに素敵な拾いもの、なかなかないもの」
このまま、初美さんの傍で、初美さんのために生きていくということを、僕は想像してみた。
それが、いいことなのかもしれない。できれば、良いのかもしれない。
けれども、それは、永遠にはできないような気がする。
「あなた、だって、犬でしょう?」
「え、なんで、わ、わかるんですか」
僕はかなり動揺した。
なんで分かるの。否、待て、初美さんは僕とは違う意味で言ったんだ。
「お手」
そう言って初美さんは僕に掌を差し伸べた。
「な、なに?」
「ふふ。キミ、犬タイプ」
そうだ、分かるわけはない。
けれど、このユーモラスな初美さんとの会話のやりとりは、僕を幾らか幸せな気分にさせてくれた。
僕は本当に久しぶりに、人間の温かさというものを思い出していた。
僕を必要としてくれているこの人のために、犬になってみようか、と、僕は暫く初美さんの飼い犬のように生活してみることにした。それは、初めての経験というか、僕には挑戦だった。
別に気の利いた言葉をしゃべらなくてもいい。仕事だってしなくてよい。人として生きようとしなくていい。
ただ、初美さんの寂しさを癒すために、傍にいて、身体を温めてあげるだけでいい。
「コータ君、ホストの素質、あるよ!」
「ホストって何ですか?」
初美さんは、けらけら笑った。
「またあ? コータ君って本当になんにも知らないんだね」
「君が今、私にしてくれていることを仕事にしている人のことだよ」
「そんな仕事、あるの?」
「そうだよ」
僕は少し考えた。
「でも僕は…… 」
僕は、誰にでもそうやって接することはたぶんできない。お金のためになんて、おそらくできない。
それから一週間くらい過ぎて、何の気なしに見ていたテレビのコマーシャルでカヨちゃんを見つけて驚いた。
カヨちゃんはモデルの仕事に本腰を入れたみたいだ。
僕は、運命的に流れたそのコマーシャルをもう一度見たくて、リモコンを片手に、何度もチャンネルを回したのに、二回目はそう簡単に見ることができなかった。
次にカヨちゃんを見たときは、初美さんと一緒だった。
僕は未練がましくも、やっぱり、何度見てもカヨちゃんに見惚れてしまう。
「コータ君、こういう子、タイプ?」
「え、うん」
つい否定せず答えてしまった。
「へえ、珍しいね、君がはっきり物言った」
そう言って、二人でカヨちゃんを見る。
世にも不思議な気分だった。
この人は、昔僕と一緒に暮らしていた人なんです。
小さいときからずっと一緒にいた大切な存在だったんです。
僕は、初美さんにそんなことを言えるはずもなく、それから黙ってテレビを見続けた。
それからというもの、テレビや雑誌で、たくさんカヨちゃんを見かけるようになった。
僕は当然のことながら、簡単な文章くらいしか読めないし書けない。
カヨちゃんを特集した雑誌の文章は読解できないし、カヨちゃんの口から出た本当の言葉を、僕はもう簡単に聞くことができなくなってしまったのだ。
カヨちゃんは僕から逃げるように、あっという間にどんどん遠くに行ってしまった。
テレビの中の存在って、ほぼほぼ現実の世界にいないのと同じだよね。
この頃、僕は、初美さんに何か喜んでもらえるようなことをしたくて、彼女が仕事に行っている間、彼女宛てに手紙を書くことにした。
文字の練習にもなるし、何より初美さんの喜ぶ顔が見たい。
初美さんの部屋にある本から、言葉を取りだして、繋げて文章にしていく。
テーブルの上に置いて、そのまま買い出しに出かけたら、戻ってくると初美さんが家に居て、
「よかったあ」
って肩を撫で下ろした。
「どうして?」
「君が置手紙を残して居なくなったと思った」
「そんなことはしないよ」
僕は、そんなことはしない。
あれは、感謝の手紙だった。
けれども、結果的にはそれを僕は置手紙にしてしまったのだ。
あるとき僕は、初美さんを抱きながら思った。
僕はさ、どうして生きているんだろうね。そんなことを考え出したときから、僕は既に犬ではないのかなと思った。
人間と似たように生きていかなければならないということだろう。
人間の言葉も人間の営みも、僕には真似しかできない。全て、マネゴトなんだよ。
現に今、僕は何の意味もないことをしている。こんな快楽の暴力みたいな、マシンの反復みたいな、こんなことは無意味だ。
初美さん、ごめんなさい。
初美さんは優しかったけれど、この毎日は僕にとって何の意味もないことだ。
そう感じてから、僕はしばらくの期間、初美さんの傍にいたけれど、或る日、仕事でくたびれた初美さんを寝かしつけた後、その部屋を出て、ホームレスに戻った。
そしてもう二度と、初美さんと会うことはなかった。
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