第2話 コタ
僕は今日、カヨちゃんと生まれて初めての海に来ている。
久しぶりに、おばあの調子が良くて、
「夕飯の支度をして待っているから、遠くに遊んできなさい。」
と、僕等を送り出してくれたのだ。
カヨちゃんは、おばあが作ってくれたお弁当を片手に、もう一方には僕の手綱を持ってウキウキだ。
ここは子どもの足で歩いて四十分くらいの海岸。
僕等は海の見える町に住んでいる。
カヨちゃんとの散歩は近所の公園や原っぱが通例で、海という場所に来るのは今日が初めてだった。
今まで僕が小さくて、そんなに長くは歩けないというのもあったのかもしれない。
それにしても、海はすごい!
僕はこのときの感動を一生、忘れることはないと思う……きっと。
隣に佇むカヨちゃんは、海はもちろん初めてではないらしかった。
「よし、ここにシートを敷いて、コタ、波と遊ぼう」
「ワン」
僕等は、押しては引く波の永遠に、いつまででも飽きることなく足を浸して遊んだ。
世の中には、こんなに面白いものがあるなんて、僕は知らなかった。
足を浸けることに案外抵抗なく挑んだ僕は、こんなこともできるよ、カヨちゃん、見て、そんなふうに少し調子をこいたら、案の定波に攫われて溺れかけた。
「コタ、危ないよ」
この瞬間、僕は生まれて初めての遊泳、俗に言う犬掻きを本能的に実践したのだった。
あっぷあっぷさせながら必死に浮いている毛玉の固まりに、カヨちゃんは爆笑した。
「あはは、ウケる! コタ、がんばれ、がんばれ」
僕は、いつ来るか分からない二度目の大きな波に飲み込まれないよう必死でカヨちゃんの足元まで泳ぎ切った。
「コタ、すごいよ~」
どうだ、僕は、全身をぶるると振り、毛に付いた水を払った。
暫くは波と遊び、疲れたカヨちゃんは先ほど敷いたシートに腰を下ろした。
「コタ、お腹空いたね、ご飯食べよっか」
「ワン」
食べる、食べる、僕もうお腹ぺこぺこだ。
海と遊ぶのって想像以上に疲れるもんだ。
僕等は家から持ってきたお弁当を食べた。僕の分は、もちろんササミだ。
それからカヨちゃんのお弁当のおかずをちょっとずつお裾わけしてもらった。おばあの味付けは、うまいものだ。
「コタ、こんなものも、ございますよ」
そう言ってカヨちゃんが別の袋から取り出したのは、キャベツの芯だった。
今日は、何という日だろう。こんな贅沢、いいんだろうか。
僕は大好物を目の前に、両目をきらきらさせた。
「えーい、取ってこーい」
カヨちゃんは、手に持ったそれを、思い切りぶん投げた。
僕の目線は、好物がカヨちゃんの手から離れる寸前からその動きを予想していたから、カヨちゃんの号令で反射的に身体が動いた。
思い切り、駆けていく。
「コタ、速いね!」
砂浜は、この白い砂浜というものはなんとも走りにくい。蹴る足先を取られ、思うように走れない。
それでも、僕はこの四本の足先に心地良い熱を感じながら思い切り駆けた。
走りながら、ワン、と吠えると、僕の声はどこまでも遠くに響いていく。
「ワン、ワン、ワン!」
僕は、この波と砂浜と陽射しが好きだ。カヨちゃんとおばあと、大好物の次に好きだ。
「コタ、おばあ、良くなるといいね」
「ワン」
そうだね、今度は元気になったおばあと三人でここに来ようよ、カヨちゃん。
「私、ちょっぴり恐いんだ。もしもおばあが突然死んじゃったら、どうしようって、おばあがこうやって少し元気になる度に、そう思うの、なんでだろ」
いつの間にか、陽射しが随分低くなり、空が赤みを帯びていた。
僕はこのとき、昼と夜に線が引けないことを知った。
日は落ちたら暗くなる、暗くなったら月が光る。太陽は、西の海に帰っていく。東の海からはまた明日太陽が生まれる。それがこの世界の理なんだそうだ。
「おばあが死んだらさ、私は本当に、一人ぼっちになるんだよ」
僕がいるじゃない、そうカヨちゃんに言ってあげたい。
僕はこれから、どんなことがあってもカヨちゃんを一人にしたりしない。カヨちゃんの傍から絶対に離れないよ。
波が、ざざん、と啼いた。
僕には波の言葉が分からない。犬には犬の言葉があるように、波には波の言葉があるのだろうな。波も、カモメや魚や砂浜と会話しているのだろうな、と僕は思った。
そしていつか、その会話に僕も混ざりたい。そして僕は伝えたい。
僕は、海も砂浜もこの夏の陽射しも好きです。また何度でもここに来たいと思ってしまうほど、あなたたちが好きです、とそう伝えたい。
カヨちゃんは、波の言葉が分かるのだろうか、聞いてみたいけれど、叶わない。
ざざん、ざざん。
昼間より何だか、静かな波の声。もうお帰り、と言っているみたいだ。
僕等は、それから家に帰った。
おばあは、僕等が家に帰った時も元気に台所に立っていた。
よかった、元気だ。
僕はおばあの姿を見ると、歩き疲れたはずの身体に再び力が漲った。
「ただいまー」
「おかえりなさい。あんたたち、夕飯の前に、先にお風呂に入りなさい」
「はーい」
僕等はその足で浴室へ直行した。
「うわあ、ひりひりする!」
湯船に体を浸す瞬間、カヨちゃんが震えながら言った。
僕はそんなの全然なくって、いつも通り洗い場に用意された洗面器に張られたお湯の中に浸かっていた。
「コタはいいね、日焼けとか、関係ないもんね」
そう言いながら、カヨちゃんは自分の体を洗う前に、僕の毛にシャンプーを付けてごしごしと身体を洗ってくれた。
僕の毛は、スポンジみたいに簡単に泡立つ。カヨちゃんはいつも、必要以上に立った泡を僕の頭や体に乗っけて、滑稽な容姿にして遊ぶ。写真を撮られたこともあった。
今日は、砂浜で寝転がったからかいつもより念入りに、ふざけないで洗ってくれているみたいだった。
僕はカヨちゃんより先に浴室から出され、脱衣所に用意されたタオルの上で待機させられた。
少ししてカヨちゃんが出てくると、二人で一緒にタオルに包まり、あついあついと居間で寝転んだ。
「カヨ、コタの毛、ちゃんとドライヤー掛けてやんなさいよ」
「わかってるー、ちょっと暑過ぎだから、涼んでからね、ねえいいよね、コタ」
「ワン」
いいよ、僕も少しのぼせちゃったから、このまま暫くこうしていたい。
カヨちゃん、また海に連れていってね。僕、あれ大好きだ。カヨちゃんとまた行きたい。
「ワンワンワン、ワン」
僕は、そう言ったつもりだったんだけど、
「ほら、コタ怒ってんじゃないの? 早くしろってさ」
おばあはよく、僕の言葉を間違えるんだ。もう笑っちゃう見当違いにさ。
「そうかなあ、違うんじゃないの、カヨちゃん、お風呂気持ちいいね、って言ったんじゃない? ね、コタ」
そう言ってカヨちゃんは僕の両手を掴んで遊んだ。
カヨちゃんも、違うよお、犬の言葉ってそんなに難しいのかな。残念。
僕は、敷かれたタオルケットの上で寝返りを打った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます