第10話 僕が犬に戻った日

 

 犬の姿には、案外すんなり戻れた。

 僕が今までそうしなかっただけで、実は、戻ろうと思えば戻れたのだ。


 犬に戻るなんて、そんな勿体ないこと、今まで考えることすらしなかった――。今思えば、僕は幸せだったんだ。



 どうやってやったのか、説明するのは難しいが、僕はとにかく願った。

 もう、人間でいたくない――と。


 そして今、どうしてこんな状況なのか、はっきりしない。こんな状況が、どんな状況なのかすら、はっきりしない。

 僕は一体、どうしてしまったんだろう。

 そもそも今日は何日の何曜日だ。


 昨日とは違う。目の前に広がる視界も、駆けてみた感触も、身体の軽さも何もかも。

 僕は犬に戻った。

 姿見で確認したかったのだけれど、自分の姿が低すぎて姿見に映らない。声の出し方も分からなかった。もうこれは、完全にそうだ。


 今の気分を、何と言おう。

 魔法が解けたような、夢から覚めたような、そんな気分。

 いままでの出来事すべでが、もしもなかったことなら、悲しい。

 僕は死んで生まれ変わったような気分で、これからを生きていくしかない。


 そうだ、カヨちゃん。

 カヨちゃんは、この世界にちゃんといるよね。

 僕は、この姿でなら今度はカヨちゃんに受け入れてもらえるかもしれない。

 犬の姿なら野宿だって大事でもないし、僕はもう惨めな思いをせずに、カヨちゃんを探しに行ける。

 どこを探すかなんて、問題ではなかった。僕は、なんでか今の僕は分かる気がした。迷わず、カヨちゃんの元に駆けていく。



 どこをどうやって、走ったのかは曖昧だ。犬の本能に身を任せたと言っておこう。

 先日、人間の姿ではあんなに苦労したというのに、今はそれが嘘のよう、僕はどこまでも最高速度で駆けて行ける。

 そのまま、カヨちゃんの元まで一直線で辿り着けるような気がした。


 カヨちゃん。

 カヨちゃん。

 あ、カヨちゃん、ほら、やっぱりすぐに見つかった。


「ワン、ワンワン」


 僕の啼き声に、カヨちゃんが振り返る。

 僕は、カヨちゃんの膝の辺りに突撃する勢いで駆けて行った。今度は躊躇せずにだ。


「コタ? コタなの?」


「ワン」


「どうしてここに……、おいで!」



 やっぱり、駆けていけば良かったんだ。

 カヨちゃんは僕のことを見捨ててなんかいなかった。


 カヨちゃんはしゃがみ込むと、僕を両手で包んだ。

 僕は拍子抜けするくらい簡単にカヨちゃんに受け入れられた。

 なんだ、あれ、ずっと犬だったっけ。人間の姿になったことは、夢だったっけ。

 よく分からなくなった。





「コタ~、疲れたよ~」


 それから僕はカヨちゃんのマンションで一緒に暮らしている。

 本当は、またおばあの家で一緒に暮らしたかったけれど、カヨちゃんには仕事があるのだ。

 僕はホームシックに陥りながら、慣れないマンション暮らしを送っていた。


「もう、仕事嫌だなあ」


 カヨちゃんはいつも疲れて帰ってくる。

 そんなに仕事って大変なんだ。

 僕は、人間が大人になるっていうことをよく理解していなかった。


 家にいるときのカヨちゃんは、疲労困憊の日には、なんだか犬の言葉でも話すように唸るだけとか、何にも言わないこともあるけれど、大半はよくしゃべる。

 僕といるときはこんなにおしゃべりじゃなかった。

 しゃべらない相手を前にすると、そうなのかな。


 僕は、カヨちゃんの言っている言葉が分かる。十分とは言えないけれど、相槌だって打てる。そこに人間の言葉はたぶん必要ないんだ。

 ただ、今の僕はカヨちゃんを癒すことができる。今までは、カヨちゃんを苛立たせてばかりいたこの僕が、だ。

 僕は抱き締められる。

 カヨちゃんは僕をずっと自分の傍らに置いて、片時も離さない。

 僕は、この世で唯一、カヨちゃんを如何なる時も癒す、絶対的な存在であることを目指そうと決意した。




 ピンポン。


 こんな時間に、インターホンが鳴った。


「はい」

 カヨちゃんが、僕の頭をぽん、と撫でて席を立った。



 ――ガチャ。


「こんばんは」


「――来たんだ」

「なに、駄目だった?」

「……ううん」


 遠くで聞こえる声に耳をそばだて、ついついじっとしていられずに玄関先へ足が行く。


(あ、笹原くんだ。笹原くんがやって来た。)


 おい、カヨちゃんに、何してんだ。そっか、そうだったね、カヨちゃんと笹原君は、付き合っているんだった。

 僕はフラられてペットに降格し、かつては僕が独占していたカヨちゃんの身体に笹原くんが触れている様を、指を咥えて見ていなきゃならないのだ。


(笹原くん、暫くぶりに見たら何だか垢抜けてカッコイイな。でも、いきなり玄関で、鼻息荒すぎやしないかい。)


「ちょっと、待ってよ、コタが見てるじゃん」

「なんで、犬でしょ」

「だって、ほら――」


 うん、見てるよ。僕の前で、僕のカヨちゃんに、何をする気だ。僕は見ているぞ。

 僕は必死の形相で睨んだが、凄みはいまいちだな。


「こいつの顔、間抜けだな」

「可愛いでしょ」

「藤谷、久しぶりに会えたんだ。今は犬はいいからさ、俺のことだけ見てよ」

 そう言って、笹原君は、半ば乱暴にカヨちゃんの唇を奪う。


(こいつ、こんなキザなことも言えるんだ。成長したな)


 僕はただカヨちゃんの足元をうろつくだけだった。

 カヨちゃんも、まんざらじゃないみたい。なんだか可愛さが増してくる。


 ここで今もし僕が逆立ちしても、二人は僕の方なんか目もくれないだろう。

 僕はこういうとき、犬だからカヨちゃんを振り向かる技も、カヨちゃんを独占できるような特殊能力も持っていない。

 僕の能力は、いつもカヨちゃんと二人だけのときにだけ発揮されるのだ。

 僕は、まるで負け犬のように尻尾を垂らして、二人の世界から隔たれた自分の寝床に戻る。



 二人が今頃、何をしているのかは言わなくとも分かる。だけど僕はそれを分かりたくない。

 僕は、早く事が終わって、カヨちゃんがまた僕だけのカヨちゃんになるのを辛抱強く待つのみだ。

 情けないけれど、仕方ない。



 犬の人生の大半は、待ち時間だ。こういう待ち時間には、例の収集癖で集めた僕のコレクションのことを思い出す。

 僕は、そうだ、今朝もらったササミの食べ掛けを残していたな、ということを思い出し、宝の隠し場所まで歩いていく。

 待つ時間の食事はあまり身が入らないので、さすがのササミも美味さ半減である。それでもササミは美味いものだ。


 僕は、ご馳走を頬張りながら、笹原くんが脱がしたカヨちゃんのキャミソールを戦利品として持ち帰らないかと心配になった。

 持ち出し厳禁! もしも僕のお気に入りがなくなっていたら、今度こそは、吠えてやろう。

 あまり大きく吠えたことがないから上手くいくかはわからない。けれども、今度こそは、やってやるぞ。噛みついたっていい、今に見てろ。



 僕の宝物、僕の宝島、僕の女神。

 この都会にはどこにでもありふれていそうで、実は陳腐なものしかない。

 同じ形をしていても、それは何だか本物じゃない気がする。

 何だか虚しい。人生は、こんな都会じゃ、僕は憂鬱だ。カヨちゃんは僕のものじゃないし。

 そんなことを思って目を閉じた。

 目を閉じたら、自然と眠ってしまっていたらしい。



 犬に戻った僕は、何だか悔しい。

 僕は結局、人間のままでも、犬に戻っても、何も変わりはしなかった。

 人間になれば、犬では不可能なことができる。犬になれば、人間では許されないことができる。

 どっちがいい。答えることに意味がない。




 目覚めたら、なんだ、夢だった。

 僕は、犬の姿ではなく、犬に戻ったと思ったのは夢だった。

 カヨちゃんもいないし、ここはおばあの家で、僕一人だし。


 なんだ。


 少し笑った。

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