水族館の彼女
「おーい」
白い石畳が夏の日差しを跳ね返す駅前広場。偉人を模した青銅像の前で手を振る
長い髪。白いワンピース。同じく白いハイヒールドサンダル。ハイビスカスの刺さった麦わら帽子と二つ折財布しか入らなそうな丸いポシェット。先週と同じような格好をしているように見えるが、よくよく観察してみれば耳元や首元にアクセサリーが付いている。小指の爪ほどの大きさのさりげないものだが、雰囲気はがらりと変わっていた。
「……なんか気合い入ってません?」
若干頬をひきつらせつつ尋ねれば、さも当然とばかりに答えが帰ってきた。
「だって、デートだし」
ぐ、と零時の喉が鳴る。
さりげなくでもお洒落をしてきた志映浬に対し、零時といえば、白いTシャツと黒のハーフパンツ、メンズのヘップサンダルなんて平凡かつラフなスタイル。ハーフパンツはこの前と違い、ジャージではなく綿製のものだが、完全に近所に遊びに行く格好である。
いや、だって、まさか本当にデートだとは思わなかったし。
後悔したところで、帰る、なんて言えるはずもなく。たちまち志映浬に腕を掴まれて、逃げる間もなく電車に連れ込まれてしまった。
夏休み期間内とはいえ、平日の昼日中。冷房の効いた電車内はそれほど混んでいない。適当な位置の、古くさい赤いシートに並んで座る。なんとなく良い香りがするような。そんなことを考える辺り、自分はもうどうかしているのではないだろうか。
水族館の最寄り駅までは三十分。遠いようで、あっという間の距離である。
「具合でも悪い?」
むっつりと押し黙っていると、長い髪を垂らしながら首を傾げる志映浬がこちらを覗き込んだのだった。体調は本当に悪くないので、慌てて首を振る。
「いえ、別に」
「じゃあ気が進まないとか」
「あんた、いつもそんなこと構わないじゃないですか」
「そんなことないよ」
むすり、と口を尖らせて、で、どうなの、訊いてくる。いつものように化粧っ気のない小麦色の顔だが、今日は唇だけ艶々していることに気が付いた。リップグロスか。そんなところばかりに目が行くなんて、先週なんとか免れた熱中症、今日になって
「そんなこと、ないですよ」
目を逸らしながらなんとか答える。曖昧な答えになったのも、いつもよりも言葉が丁寧になったのも、素直に認めるには少し気まずいからだ。
カタンカタン、と電車が揺れる音がする。周囲はスマホを弄ったり、本を読んでいたりと静かだ。喋れば周囲の人に内容を聞かれそうで、なんとなく話しづらい。
ひんやり心地の良い車内。だが、窓越しの太陽光がジリジリと零時の後頭部を焼く。それだけじゃない。隣からも太陽光に負けない強い視線を感じる。
「わたし、さ」
焦れったくなったのか、志映浬が口を開く。珍しく、神妙な響きを持っていた。
「受験終わったら、遠くに行くの」
彼女が口にしたのは、飛行機を使うほどの距離にある海の綺麗な土地の名前だった。そこの大学に進学することを決めているのだという。
「だからさ、もう地元で思いっきり遊べるのは夏休みくらいかなーと思って」
その口ぶりに違和感を覚えて、零時は眉を顰める。
「……別に、一生戻ってこれないわけでもないでしょうに」
「そうなんだけれどさー」
ぶらぶらと行儀悪くサンダルの足が揺れる。子供っぽいその仕草は、彼女の癖なのだろうか。
「で、水族館ですか」
「そう。近いとむしろ行かないじゃない?」
「まあ、そうッスね」
最後となれば、特別なことをしたくなるものかもしれないけれど。
――でも。
零時はまた黙りこくる。
言葉と裏腹に帰ってくる気がないような感じがして、それが少し気に入らなかった。
水族館に到着してからは、普通のデートとさして変わりがなかった。きれいな魚を見て、イワシの大群が作る巨大な渦巻きを見て、マンタやサメを見上げ、薄暗い中で見るクラゲの演出に見惚れ、グロテスクな深海魚たちに見入り。北極や南極の鳥や海獣たちに頬を緩ませたあと、終着点で行われるイルカのショーに歓声を上げる。水族館の順路に従ったお決まりのツアー。半日もあれば充分堪能できる。朝から入ればちょうどお昼時。ガラス張りの現代建築の出口近くに併設された、白い箱のようなレストランの屋内席は満席で、零時たちはテラス席に追い出された。
申し訳なさそうに開かれた白と紺のパラソルが真夏の日差しを遮ってくれるが、赤砂利を撒いたようなアスファルトが容赦なく熱を輻射するので、さしたる避暑の効果はない。テラスの向こうの道路を挟んだ更に向こうは海なので潮風が吹いているのだが、あまりに強すぎて涼を感じるどころではなく、むしろ鬱陶しいくらいだった。
屋内の冷房を恋しがりながら、買ったハンバーガーの包みを開く。キャベツの上の白身魚のフライにタルタルソースが乗ったフィッシュバーガー。魚が活き活きと泳いでいるのを見る場所で魚介を食べるのが妙に滑稽だが、これが売りなので仕方がない。
ペンギンが可愛かった、だの、やっぱりイルカだ、だの感想を言いながら、コーラ片手にハンバーガーを胃の中に流し込む。零時が二つ目に手を伸ばす頃、一つしか頼まなかった志映浬は劣化が心配になるプラスチックの白いチェアにもたれかかって海のほうを眺めていた。厚手のグラスの中には、またしてもレモネード。
「甘い」
啜って眉を顰めてそう一言。
「砂糖多めが良いんじゃなかったんでしたっけ?」
「多すぎる。砂糖で味を誤魔化してる感じ」
施設のおまけでついてくるような飲食店のドリンクなどそんなものである。零時のコーラだって、レモネードとは逆に酒じゃないのに水割りだと言えそうなくらいには薄い。炭酸はそこそこ強いので、炭酸割りか。
ちぇ〜、と不満そうに呻いて、グラスをテーブルの隅に置く。カラン、と氷が涼やかな音を出す。パラソルが防ぎきれなかった日差しがグラスに降り注いだ。
薄まるレモネードを放っておいて、志映浬の視線は再び左手側の海へ向く。心地良さげに細められる眼。潮風に長い黒髪が靡く。麦わら帽子から零れ落ちた端から毛先まで均等な黒色。波に合わせて揺れ動く艶は、七色の光を全て跳ね返して銀色。自分の格好に無頓着なようで、意外に手入れがされている。いや、そもそも白いワンピースの簡素なこの格好も、彼女の趣味というだけで決して無頓着というわけではないのかも。
ふとこちらを向いた大きな黒瞳が、一瞬零時を通り過ぎ、四時の方向に視線を留めた。それから零時の瞳を真っ直ぐに捉える。じっと見つめられて心臓が大きく跳ねた。
「……なんですか?」
口の中の最後の一欠片を味わう余裕もなく飲み下し、冷静さを装ってつっけんどんに尋ねる。
「あそこ。帽子があるの」
「はあ?」
一気に気が抜ける。手の中で包み紙をくしゃりと丸め、背後を振り返ってみれば、レストランの入口の隣に小さな売店があった。外に置かれたポールハンガー。子ども向けのぬいぐるみのようなリュックが掛けられた上に、刺繍が入った白いキャップが吊るさっている。
「帽子ないんでしょう? あれはどう?」
一週間前、日除けに入ったバス停で、帽子を持っていないという話をしたのを思い出した。
「いやいやいや」
ぱたぱた、と顔の前を左の掌で払う。確かに左下に小さく刺繍されたシャチは、だから可愛らしくもシックで男性でも被れるだろう。が、英字とはいえ真ん中にでかでかと水族館のロゴが入っているのはいただけない。ここであれを被ったら、スタッフと間違われそうだ。
「ないッス」
「いーじゃん、思い出に」
ずー、と一気にドリンクを飲み干す志映浬に、そんな恥ずかしい思い出は嫌だ、と零時は拒絶した。次に被る機会がないのは明らかだし。
零時は志映浬の前の水色のプラスチックのトレイに手を伸ばした。ゴミとグラスを集めて自分のトレイに乗せ、志映浬のを重ねて立ち上がる。食事を終え、飲み物も飲んだとなれば、席を立たねばならないだろう。いつの間にか店内は閑散としていたとしても、だ。
「じゃあ、キーホルダーは? ペアの」
片付けをしようと店内に入る零時の後ろをちょこちょこついて来ながら、志映浬は言う。
「なんでペアものなんですか」
「憧れない? ああいうの」
「いや、別に」
恋人向けだからかよくできているとは思うが、そんな見せびらかす真似恥ずかしいだけだとも思う。
「だいたい、俺の帽子の話じゃなかったでしたっけ」
「まあ、そうなんだけど〜」
思い出とか言ったら欲しくなっちゃって、と志映浬は笑う。
全く気紛れなんだから。零時は呆れながら入口付近のゴミ箱にゴミを捨て、その上にトレイとグラスを置いた。
ふぅ、と比較的重い溜め息が出る。
水槽を巡る間は、いたって普通のデートだった。案内に従ったお決まりのツアー。観賞したときの反応もいたって普通。
ただ時折、合間に彼女が海に抱く夢を語るのが、少しだけ違ったかもしれない。
大学に行って、海について学ぶのだ、と巨大水槽の前で遊泳する魚を見上げながら語る彼女。水槽から漏れる青い微光の中で見た彼女は、水の中へ溶けてしまいそうなほど霞んで見えて、本当に遠くへ行ってしまう人なのだと実感させられた。
志映浬が思い出の品に拘るのは、いずれここを去っていくからなのだろう。何故零時との思い出の品なのか。何故零時に残そうとするのか。その意味はあえて考えない。
だって、考えたところで――。
「行こ」
沈みかけていた思考が浮上する。左手に繊手が触れた。引っかかった中指と薬指だけ握られて、店の外へと引っ張られる。
再び強烈な日差しの下へ。一瞬でも心地の良い環境にいた身体は早速避難を訴える。何処か、と視線が彷徨った先にあったのは、レストランの左手にある小さな売店だった。
「帰ろっか」
しかし、他でもない志映浬がその売店に背を向けて、駅の方へと歩き出した。慌ててその背を追い駆ける。
「土産はいいんスか?」
「うん。別に、物が欲しいわけじゃないし」
素っ気ない物言い。本当に執着しているわけではないようだ。じゃあさっきの会話は何なのか、と頭を抱えだした頃。
「零時くんさ、ちょっと鈍いよね」
白いサンダルがくるり、と踵を返す。少し怒ったような表情に零時は硬直した。瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いたかと思うと、ヒールのある踵が持ち上げられる。
近づいた顔。
唇に感じる柔らかい感触。
驚きの声も静止の声も封じられ、ただされるがままになる。
「じゃあね」
ほんの一瞬の口づけから解放されると、志映浬は普段通りの笑みを浮かべて、零時に背を向けた。そのまま駅の方へと一人歩いていく。
思わず手の甲で唇を拭う。快・不快の問題からは離れた、濡れた唇に対するただの反射行動。その手で今度は目蓋を覆う。誰も見ていないかもしれないが、頬が紅潮しているのが恥ずかしい。
「――じゃあね、じゃねーよ」
あーもう、としょうのない愚痴が漏れる。
一瞬だけ唇を割って入ってきた舌は、甘かった。
レモンの爽やかな香りが残った吐息に、目眩がした。
これはもう、いずれとか脇に置いておいて、観念するしかないのかもしれない。
「帰り道、同じだっつーの!」
だん、とサンダルで地面を蹴る。素知らぬ振りをした白ワンピースの背中に追いついて、その左手を握った。嬉しそうに握り返されるその手とともに、駅まで走る。
なにやら青くさいことをしている気がしたが、そこはもう割り切ることにした。
――少しくらい甘くてもいいじゃないか。
どうせ時間が経てば、薄まってしまうのだから。
レモネード 森陰五十鈴 @morisuzu
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