03_八千代さんとわけあり非常食
八千代さんは人間を食べない。
そういうことに、なっている。
どう頑張ってもその事実を無視できなくて、指先がじっとりと湿るのがわかった。
東さんがどんなに平然と振る舞っていたって、不安がないはずがない。悪意ある他者が有形無形の暴力を伴って意に沿わぬ行動を迫ってきたら、少なくとも、僕は怖い。怖かったから、
相手がどれだけ常軌を逸した行動をとってくるか全く予想がつかず、日に日に膨れ上がる不安が、直接的な被害と同じくらい耐え
「八千代さん、あのさ、」
乾いた唇が引き
「今日のデザート、人間でもいい?」
『いいよ』
八千代さんの反応は淡白なものだった。
試しにスクリーンショットを一枚送ってみると、味を確認するように端っこを少しだけ
経験則からして、いけるときの反応だった。
先輩の言いつけを守るか。
東さんの依頼を完遂するか。
ふたつの選択肢が親指の上で
東さんは
大学は違うが、同じく異方神を扱う
僕が東さんに出会ったのは一年ほど前、交流人事による中途半端な時期の異動によるものだった。
東さんの前任者は、考え方の古い、高圧的な男性だった。
行政からの仕事は、金額ベースで六割を占める僕の生命線だ。けれど、打ち合わせとデータ引き渡しの
去年の途中で担当が東さんに変わらなければ、今頃取引をやめていた、かもしれない。
東さんは僕の経歴に興味を示さないし、くたびれたパーカーとジーンズで現れても文句を言わない。事務所を訪ねるのが嫌だと言えば外での打ち合わせを提案してくれた。「合法的にサボれるのでありがたい」なんて笑っていたが、経費で落ちないから自腹を切らせていることを知っている。
例えば僕が嘘をついて東さんを助けなかったとして、問題の彼が動画をばらまいたとしたら? それがもし、職場の誰かの目に止まったとしたら?
想像だけで十二分に息が詰まる。煮詰まった嫌悪を無理やりに吐き出して、僕は顔を上げた。
「東さんがつまらないことでいなくなると、僕が困るんだ……」
言い聞かせる僕の声に、八千代さんは興味を示さなかった。
『いただきます』
今回ばかりは裏切り者と
けれど、いくら待ってみても、先輩の悪態は聞こえなかった。
しゃくしゃくと微かな音と共に、東さんの体が虫食い状に消えていく。八千代さんが食事を進めるたび、初めから何もなかったかのように、汗に濡れて変な皺の寄ったシーツだけを残して。
人間を食べさせるとこんな風になるのか。
素朴な感想とともに、ふと脳裏を過ぎった疑問があった。今まで思いつかなかったのが不思議なくらい単純な問いを、そっと舌に乗せる。
「八千代さん」
『うん』
「先輩はどんな味だった?」
『おいしかった』
シンプルな返答は、奇妙な感慨と共に心臓に突き刺さった。
当然といえば当然ではあった。飽きっぽい八千代さんが、曲がりなりにもひとりの人間の三十年近い記録を完食したくらいだ。さぞかし素敵な味がしたのだろう。
『ごちそうさま』
本編の三倍ほどの時間をかけて、八千代さんは食事を終えた。
消し忘れがないか、念のため最初から最後まで動画を確認する。
東さんの肉体が消えたことにより、延々と虚空へのストロークを繰り返す男根という名状し難い映像がこの世に誕生していた。
人間性の貯蓄を切り崩すような虚無感に耐えて、僕は仕事の完遂を確認した。
味が好みでなかったせいか、八千代さんも心なしかしんなりしていた。
『つかれた』
「ごめんね、八千代さん。ありがとう」
『くちなおしほしい』
「何が食べたい?」
あれ、と八千代さんが示したのは、ピンボケの僕と先輩の左端だけ写った、七番目のフォトフレームだった。
今となっては八千代さんの他には唯一の、形ある先輩の痕跡。
「あれは」
『だめ?』
駄目と言いかけて、できなかった。
僕は先輩の他に八千代さんがおいしいと評するものを知らない。代わりに差し出せるものが何もない。
今まであの写真に興味を示したことなんてなかったのに──理由を問うまでもなく、原因は僕にあった。
僕が、人間を食べさせたから。
先輩の味を思い出させたから。
「わか、った」
顔さえきちんと写っていないのだ。もとよりあってないような写真には違いない。
僕の都合に付き合わせた以上、要求の一つくらい呑むべきだろう。
データを送信するだけの、数タップのあっけない操作。
たった数センチ指先を動かすのに、普段の何十倍もの時間がかかった。
『いただきます』
最後の面影が消えていく様を直視する勇気がなくて、僕は自分の夕食を準備するために席を立った。
電子ケトルに水を注いで、スイッチを入れる。オレンジ色のランプが、消えかけの夕陽のように薄暗い廊下を照らした。
本当は。
先輩が
僕も先輩も、この世で生きるのに向いていない人間だった。頑張って真人間らしくしてみても、生活上の必要に迫られて所属する集団の端の方に浮遊するのが限界だった。
ふよふよしながら生き延びた僕は、大学で先輩に出会い、ラーメンの小さな油滴同士がくっつくみたいに、精神的な癒着を果たした。
異方に行きたい、というのは、出会った頃から先輩の口癖だった。当時の僕は先輩の願いに大いに賛同して、それが親交を持つきっかけにもなった。
けれど、八千代さんから語られる異方は、寒くてご飯がなくて寂しくて、理想郷とはほど遠い姿をしていた。
地球はそれなりに暖かくて、僕は今のところ飢えていなくて、隣には先輩がいた。
だったら、ここの方がずっといいじゃないかと、正直なところ、思ってしまったのだ。
学位請求講演を控えて「異方に行きたい」と
「請求講演が終わったら、二人で温泉にでも行きませんか」
「いやだ。目的地が
「
「……うん、まあ、蟹は好きだが」
先輩は
「卒業旅行というやつか? 私はそういうのは好かんと言っただろう」
「僕だって縁のない身の上でしたけど、一回だけ試してみませんか。ひょっとしたら楽しいかもしれないし」
先輩と一緒なら、とは気恥ずかしくて言えなかった。けれど、本気でそう思っていた。
「少なくとも蟹はおいしいですよ」と逃げ口上を付け加えると、先輩は虚を突かれたような顔をして、それから力なく微笑んだ。
「この、裏切り者め」
先輩の透明な諦念を、僕は見なかったふりをした。
本当は、嘘でもいいから、一緒に異方に行くと言い続けなければいけなかった。ずっと先輩の味方でいたいのならそうするべきだった。
でも、もし僕がそんな器用な芸当のできる人間だったとしたら、先輩と親しくなることも、東さんの依頼を受けることもなかっただろう。
全部がひとつながりの出来事を、都合よく切り出すことなんて、きっと誰にもできはしない。
『ごちそうさま』
小さな囁きで我に返った。一拍遅れて、電子ケトルの蒸気の悲鳴が耳に飛び込んでくる。
中途半端に剥いたカップ麺を放り出して、僕は大股で部屋に戻った。
『おいしかった』
抑揚のない評価とともに、若草色の姿がにゅうと画面の端に引っ込む。その動きを目で追って、呼吸が止まった。
「先輩」
フォトフレームを手に取ろうとして、気が
蟹尽くしの夕飯を前に、先輩が小さく微笑んでいる。視線の先、今はもう誰もいない場所には、ピンボケの僕が写っていた。
八千代さんが食べたのは、先輩ではなく、僕の方だった。
ああ、そうだ。
こういう表情をするひとだった。
先輩は決して、今生に何の楽しみも見出せないひとではなかった。一緒にいた日々で笑い合ったことは、きっと本当だったはずだ。
ただ、僕は先輩がいれば十分で、先輩は僕がいるだけでは不十分だった。
多分、それだけのことだった。
八千代さんに人間を食べさせてから数日はビクビクしながら過ごしたが、東さんにも僕にも副作用らしきものは現れなかった。
変わったことといえば、八千代さんが僕の写真をおやつに要求するようになったことだろうか。僕は八千代さんの相棒を自負していたのだが、相手からは非常食と認識されていた疑いがある。
最初はブレブレの自撮りでも喜んで食べていたが、全く上達しない撮影スキルについに文句が出始めたので、僕は恥を忍んで東さんに教えを乞い、お薦めのアプリも入手した。
きっと、と思う。
楽しかった日々の面影を惜しみながら、僕は、先輩に悪態をつかれるような下手くそな真人間面を、死ぬまでやめることができないだろう。
身の丈に合わない虚勢というやつがいつまで続くものか、自分でも判然としない。
でも、なるべく長く待つつもりだ。
もし、異方に飽きた先輩が戻ってくることがあるのなら、その時はどうか、僕の笑い話を聞いてほしい。
アプリで超絶可愛く盛れた僕が、八千代さんに死ぬほど不評だったという、とっておきの、くだらない話を。
八千代さんは味にうるさい 千鳥すいほ @sedumandmint
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