02_八千代さんと僕と先輩のこと
玄関の鍵を閉めて、よれたスニーカーの
「ただいま」
僕の声に応じるように、玄関脇のデジタルフォトフレームがひとりでに点灯した。
『おかえり』
内蔵スピーカーから幼い子供の囁きに似た音が流れる。
飾り気のない白いフレームの中に、声の主の姿はない。昨日の夕飯に僕が作ったカニカマ炒飯の写真、だったものだけが表示されている。
朝は確かに一人前あったはずの炒飯は、まるで誰かが食事を終えた後のように、綺麗に姿を消していた。今はただ、使い古されたただの丸皿だけが、物寂しげに写っている。
「八千代さん?」
僕が声をかけると、皿の影からひょっこりと細長いシルエットが現れた。
一見した印象は、若草色の多肉植物だ。全長は人差し指くらい。蓮の花弁を肉厚にした形状の頭には、子供の落書きにも見えるデフォルメされた顔──小さな二つの点で表現された目と、少し微笑んだ形の口が表示されている。
セダムの一種によく似た形の三等身の彼女こそが、僕の相棒こと八千代さんである。
『おかえりウサミ』
フォトフレームの音楽再生機能を乗っ取って、八千代さんが囁く。
意外とお喋りな八千代さんは容れ物の”声”にもこだわりがあって、今のお気に入りを見つけるまでには結構な苦労があった。
「ただいま、八千代さん。炒飯どうだった?」
『たべた』
完食は八千代さんの評価としてはなかなかに高い方である。僕の手料理の打率は三割くらいなので、食べ切ってもらえるのは嬉しい。
「よかった。また作るね」
『わーい』
八千代さんの細長いシルエットが、液晶モニターの中で生き物のように揺れる。
いや──事実として生きているのだ。地球上の生命とは違う形で。
八千代さんは異方神の一種で、僕の相棒である。僕は行政の許可を受けて八千代さんを運用し、有害な異方神を世間から隠匿する仕事をしている。
彼らの生態は様々で、超常的な被害をもらたす個体もいれば、八千代さんのように無害な個体もいる。共通するのは”存在を観測されること”で活性化するという、こと現代社会では厄介すぎる性質だけだ。
そんな生き物だから公的な記録が残っている個体はごく少数で、初めて異方神の存在が観測されたのがいつだったのかは諸説がありすぎて判然としない。
かつては都市伝説そのものであった異方神は、現代ではしれっと研究機関でテーマとして取り上げられるくらいの市民権を得た。かくいう僕も異方神を扱う
時代の流れを見るに、百年ほど前から徐々に出現が増えているという話は事実なのだろう。
本人の申告によると、八千代さんは五年前に異方からやってきた、比較的新しい個体である。
第一発見者は先輩だった。故郷を飛び出した八千代さんの最初の住処が、先輩のパソコンだったからだ。
先輩は、僕の大学時代のバイト先の先輩であり、ラボの先輩であり、同居人であり、僕の認識に致命的かつ悲惨な誤りがなければ、たぶん僕の恋人だった。
けれど、二年前に何も言わずにいなくなってしまった、大変に薄情なひとである。
『おみやげは?』
「たくさんもらったよ」
八千代さんを住まいごと持ち上げて、キッチンを通り抜ける。
木製の扉の向こう、何の変哲もないワンルームには、似たような形のフォトフレームがあと六個並んでいる。うち五個の画面の中には、それぞれ一株の八千代さんが住んでいる。
『おかえり』『ウサミ』『ウサミだ』『ウサミごはん』『おなかすいた』
撮影された場所や日時は様々で、写真もあれば動画もある。共通しているのは、全長数メートルにもおよぶ半透明の
『ごはんだ』『ごはん』『いただきます』『いただきます』『いつもの』『あんていのくおりてぃ』
雲ひとつない青空を背景に電信柱にはりついた蛹を、若草色の小さなシルエットが齧りとる。SNSでオカルトだの加工だのと騒がれていた風景が、ただの秋晴れの日常写真に姿を変えていく。
僕は膝を抱えて、八千代さんの微かな
八千代さんはデジタル化された画像を食べる。正確には、”その瞬間にその対象が記録された”事実そのものをなかったことにする。
複製にも印刷物にも、効果は容赦なく及ぶ。インターネットで広く拡散されたとしても、元が同じデータであれば確実かつ同時に一掃できる。
アナログ写真でもスキャンすれば同様の効果が生じる。この無体な現象の仕組みは不明だが、異方神の異能は得てして不条理なものだ。
僕が東さん経由で受けているこの仕事は、蛹型異方神の活性化による有害な影響を抑制するため、全国的に実施されている事業の一環、らしい。
詳しいことは知らない。東さんに聞けば教えてくれるかもしれないが興味はない。
先輩がいなくなってしまった今、僕はもう、八千代さんと一緒に生活できる身分とお金がありさえすればそれでいいのだ。
『もぐもぐ』『かわらないあじ』『もぐもぐ』『ふつうがいちばん』『もぐもぐ』『もぐもぐ』
この異方神は、ここ二年間の八千代さんのご飯の定番である。
味自体は普通だが安定して食べられる、らしい。実家の猫が食べていたカリカリと似たようなポジションなのかもしれない。いつか自力で「おいしい」と言わせてみたいものだ。
八千代さんは味にうるさい。
マイブームはすぐに移り変わるし、食べないものもたくさんある。文字とか、精製された塩化ナトリウムとか、純水とか。
八千代さんは人間を食べない。
そういうことに、なっている。
いくらでも悪いことに使えるからと、八千代さんを株分けしてもらったときに先輩に言われた。
当の先輩はというと、八千代さんの親株を「悪用」して失踪した。
先輩の姿を写したものはほぼ全てがなかったことにされてしまって、今では顔もおぼろげだ。
特別な容姿のひとではなかった。黒い髪を短く整えて、一定の長さ以上には決して伸ばそうとはしなかった。一重瞼で、右の額に小さな火傷痕があった。
ひとつひとつの要素は覚えているのに、顔を思い浮かべようとすると、失敗した福笑いのように頭の中でパーツがばらけて戻らない。
あの日、先輩の痕跡が消えた部屋で、夕陽によって化け物のような形に引き延ばされたカーテンの影だけが、妙にはっきりと焼きついている。
異方に渡った、あるいは渡ろうとして死亡した、というのが捜査の結論だったと記憶している。混乱していたせいか、当時のことはあまりよく思い出せない。
先輩は優秀なひとだった。
裏返った期待は苛烈な形になって、先輩の唯一の部下だった僕に向いた。
最終的に僕の手元に残ったのは八千代さんと、大学院を中退したという事実と、在学中に取得した異方神取扱免許と──あとは、もうひとつだけ。
八千代さんの食事音を聞き流しながら、唯一無音の七番目のフレームを手に取る。
ここに八千代さんはいない。表示されているのは、明らかに失敗作の奇妙な一枚だ。
手前に映っている肌色と黒のブレブレの塊は僕だ。ピントは部屋の奥に合っていて、よくみると僕のシルエットからはみ出るように、先輩の左耳と側頭部が写っている。
僕の人生で最初の、そして恐らく最後の自撮りである。
先輩の卒業にかこつけて、二人で温泉旅行に行ったときのものだ。直前まで渋っていた先輩が、好物を前についに
当然、犯行の直後にシャッター音でバレた。あまりに酷い出来に、先輩が怒るより先に笑い出したのを覚えている。
データの消し忘れに気づいたのは、先輩がいなくなった後だった。絶対に忘れてやるものかと、面影を必死で探して、出てきたのはこれだけだった。
僕は他の人間よりはずっと先輩と親密で、先輩も僕の前ではたまに笑顔を見せていた、はずだ。それなのに何も残されなかったという事実が、楽しかった日々の何もかもが妄想だったんじゃないかと僕を糾弾してやまない。
今ではもう、記憶の中でさえ、僕は先輩の表情を辿ることができない。
『ウサミ、おかわり』
三番目のフレームの八千代さんには動画作業を振らなかったせいか、他より早く食事が終わった。少し物足りなかったらしく、画面の中でリズミカルに身体を揺らしている。
追加の食事を探そうとタブレットに触れた瞬間、東さんから受け取った問題の動画の存在を思い出して、僕は手を止めた。
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