八千代さんは味にうるさい

千鳥すいほ

01_八千代さんは人間を食べない

 前世で犯したいかなる罪が巡り巡ったのか、性的に無関係な人類のハメ撮りを見せられている。

 物理的にウェットな映像が流れ続けるタブレット越し、閑散とした平日の喫茶店の風景があまりにもミスマッチだった。


 誰か教えてくれ。この仕打ちはなんなんだ。少なくとも今日の僕は、公序良俗に反するところのない善良な市民だったはずなのに。


 朝起きて顔を洗い、昨日の仕事の出来をチェックして業務連絡を送り、朝食に納豆ご飯を食べ、八千代さんに挨拶をして打ち合わせに向かった。職業が多少珍しくとも真っ当な社会人である。朝と呼べる時間に起きてご飯を食べた時点で人間的に完成しているといっても過言ではない。


 かつて同居していた先輩にこの勇姿を見せる機会があったとしたら、「お前まで真人間面をするというのか。おお、この裏切り者め」と大いにたたえられたことだろう。


 しかし、肝心の打ち合わせの席でこれである。全国チェーンの喫茶店内、午前の日差しに柔らかく照らされた角席で、死んだ目の僕とスーツの女性が向かい合っている。

 至って平静な様子の彼女、あずまさんとは仕事で一年ほどの付き合いになる。プライベートでの接触は一切ない。滑らかな頬の右側には、動画の中の当事者と同じ位置に黒子があった。


「モノは相談なんですが」


 事態のきっかけは、仕事の打ち合わせの終わり、東さんが口にした一言だった。


宇佐美うさみさんに個人的なお仕事の依頼は可能ですか?」

「構いませんよ。対象はなんですか?」

「この動画なんですが──」


 穏やかな社会性ポーカーフェイスからこんな豪速球を繰り出してくるとは夢にも思わず、僕の平常心は敗走した。動画の盛り上がりと反比例して、僕の体感温度はガンガン下がっていく。

 僕は意図せずとんだセクハラを働いてしまったのではないか? とはいえ動画を見せる見せないの判断は東さんの手元にあったわけで、でも仕事の依頼にあたって見せざるを得なかった以上やはり僕が加害者でいやしかし!?


「すみません。もしかしてこういうの苦手でしたか?」


 震える僕を見かねたのか、東さんが気まずそうに眉を下げた。


「仕事の画像がどんなでも冷静でいらっしゃるので、現物を見せた方が話が早いかと思ってしまって」

「そりゃあ人間以外ならどうなっていても平気ですけど」

「人間はダメですか」

「人間かつ当事者が目の前にいるのはちょっと格が違うというか」


 むしろなぜ本人が平然としているのか。

 手に負えそうにない事態を前に帰りたいメーターが振り切れるのを感じながら、僕はなけなしの社会的礼容をかき集めた。


「警察に行った方がいいのでは? その、脅迫とか、そういうことですよね?」


 言葉を選びきれずに中途半端な表現をした僕に、東さんは苦笑した。


「なるほど、誤解させてしまいましたね。それ自体は同意の上で撮ったものです」

「え?」

「私、撮らせるのが趣味でして」


 実は猫飼ってるんですよ、みたいなノリで言われても。


「念のためお聞きしますが、それは東さん本人のご趣味という理解でよろしいですか? 強要されたものではなく?」

「はい。私自身のリビドー・ドリブンな趣味です」

「ホ、ホァ……」


 未知の世界すぎて変な声が出た。


「これを撮った彼は二代目なんです。若気の至りというか、最初のパートナーが物分かりのいい可愛い男だったので油断したというか」


 ああ逃がすんじゃなかった、という切実かつ不穏な呟きは聞かなかったことにした。

 問題の彼とは人間性の不一致により一瞬で別れたらしい。それが学生時代の話で、前触れもなく復縁を迫られたのが二週間前。恋人期間中に撮影したたった一本の動画をチラつかせてきたのが三日前だという。


「後生大事に持ってるもんだなと感心してしまいました」

「やはり警察に行った方がいいと思うのですが」

「受けていただけなければそうしますけど」


 持ち上げられたコーヒーカップが、東さんの口許を隠した。


「彼、意外と物持ちがいいみたいなので。どこに複製されたかわからないデータでも、宇佐美さんなら確実に全部消せますよね。これも何かのご縁かな、と」


 茶化した雰囲気を器用に引っ込めて、東さんは金額を提示してみせた。

 東さんから普段受けている仕事よりもだいぶ色がついている。急を要する内容であることを差し引いても、十分な単価には違いなかった。


 いきなり件の動画を見せられたのには驚いたが、これだけの対価を貰えるなら仕事自体はやぶさかではない。この世ならざる常軌を逸した姿の生物に比べれば、成人済み人類の合意下の性行為など恐るるに足りない。


 だが、それ以前の問題として、僕の仕事は八千代さんの力がなければ成立しないのだ。


「お受けしたいのは山々なんですが、彼女、基本的に人間は食べないので……」


 僕の小声の返答に、東さんは唖然としたようだった。


「好き嫌いがあるんですか? 彼女に?」

「むしろ食べないものの方が多くて」


 知らないのも当然だろう。

 僕の仕事は、簡単に言えば、画像から”写っていてはいけないもの”だけを消す仕事だ。そういう生き物は基本的に八千代さんの好物だから、今まで業務上の支障が出たことはなかった。


「先輩……ええと、前の管理者から、人間は食べさせないようにと、特に言い含められています」

「無理に食べさせると暴れるとか?」

「そういうわけではないのですが」


 八千代さんは何しろ気まぐれで、一度イヤと言ったら頑として食べない。数日前まで好物だったものを拒否されることもあれば、その逆も稀にある。食事の用意が間に合わず何株か死なせてしまったこともあり、年単位の試行錯誤を経た今でも栽培が完全に安定しているとは言いがたい。

 僕の必死の言い訳は、むしろ東さんに期待を持たせてしまったらしかった。


「でしたら、試すだけ試していただいても構いませんか?」


 嘘でもいいから「絶対に食べません」と言わなかった僕が悪い。

 体感三秒で押し切られて、僕は結局、東さんの依頼を受けることになってしまった。


 試すだけで三割、成功報酬で全額。

 八千代さんのご機嫌を伺うだけなら一瞬のことだから、仕事としては破格も破格、ではあるのだが。


 職場に戻る東さんのすらりとした背中を見送って、僕はぐったりと椅子に頽れた。


 この状況、どうしたらいいんだ。

 天を仰いで問うてみても、答えるべき人はとうにこの世にいなかった。

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