第三章 5 死の階段

 扉を入るとすぐに小ぢんまりとした謁見の間があり、そのわきから急な螺旋階段が上階へと延びていた。

 古い石積みの階段で窓はなく、スピリチュアルの眼でもほんの数段上の空間すら見通せないほど暗い。

 ユングリットが手燭をかかげて先に登り、壁龕のロウソクにひとつひとつ火を灯していってくれた。


 それぞれの壁龕には、ユングリットが選んだものらしい物語の挿し絵や小さな風景画が飾られていて、そのゆっくりとした道行きを退屈させなかった。

 ロッシュは壁に沿う手すりを指で軽くなぞりながら、ユングリットの後ろにつづいた。


「手すりだけがずいぶん新しいが……。そうか、ボルフィン公は足がご不自由なのでしたね。そういえば、書斎でも、上段の本を取るのが大変そうで、わたしが代わりに架けバシゴを登ったのでしたよ」

「ええ。わたくしもよく登らされましたわ。わたくしがだれより臆病なのを知っているくせに、『どうしてもすぐ調べたいことがあるんだよ』と。夢中になると駄々っ子みたいに聞き分けがなくなる父でした」


「信じられませんね。そのようなボルフィン公をご存知なのは、あなただけでしょう」

 すると、暗い階段の上からホホホと明るく笑う声がした。

 ブランカでユングリットの笑顔を見たという記憶はまったくない。

 彼女の冷たい美貌に眼を奪われた者は数知れないが、どんなに長く見とれていたとしても、きっとそのような経験をすることはなかっただろう。

 しかし、笑い声だけは聞けたものの、ロッシュにもその貴重な笑顔を見ることはかなわなかった。


「うん――?」

 ロッシュは足を止めた。

 長い階段の途中の踊り場だった。いちおうふき取られてはいるが、液体が流れた黒い痕跡が石の床面に残っている。

「もしや、ここは……」


「ええ。父が倒れていた場所ですわ」

 ユングリットの声がたちまちしぼむように細くなった。

 ここに連れて来るのを渋るようだったのは、生々しい死の現場を見るのがつらかったからにちがいない。


「では、ザールトへ出陣しようとして――」

「わたくしは、ガラフォールからヴァンスたちがもどるのを待つようにと、何度もお止めしたのです。でも、父は、『このような場合だからこそ、貴族のわたしが先頭に立たねばならない』と申しまして」


「亡くなられていたときのご様子は?」

「出発の時刻が迫っていたので、気になって迎えにきたのです。すると、重くていかめしい胴や鎖かたびら、手甲やすね当てまでつけた完全武装の姿で事切れておりました。階段の途中にカブトと槍が投げ出されたように落ちていましたから、きっとカブトを小脇に抱え、もう一方の手に持った槍にすがって降りようとしたのでしょう。ふだんならかならず手すりにつかまって、一歩一歩慎重に足を運ぶのですが……」


「ふむ……」

 ロッシュは、踊り場から階段の上方へと、ゆっくり視線を上げていった。

 螺旋状に曲がる階段は、ここからでは最上段まで見通すことはできない。

「手燭を貸してください」

 ユングリットから手燭を受け取ってまず血のこびりついた足元の石板を調べ、それから一段一段慎重に検分していった。

 硬いものがぶつかって踏段の端が欠けているところや、何かがこすれた跡がいくつも見つかった。

 まだユングリットが灯していなかった壁龕のロウソクにも火を入れながら登り、ようやく居間のある最上階へと達した。


「これだけの高さの急勾配を重い具足をつけたまま墜落しては助からないでしょう」

 ロッシュは階段の上に立ってあらためて下方を見下ろした。

「ええ。父はつねづね『貴族は貴族らしくあらねばならん。それがスピリチュアルの帝国を支える第一の役目だ』と申しておりました。援軍を待つことも、指揮を他人にまかせることもいさぎよしとしなかったのは、いかにも父らしかったと……」

 やっとそこまで言うと、それが限界だったらしく、ユングリットは悄然として居間に入っていき、円卓の椅子に力なく腰を下ろした。


 このように悲しみにくれているときでさえ、彼女はちゃんと背筋を伸ばして端然とした姿勢を崩さなかった。

 泣いているにちがいなかったが、こちらに背を向けてそれを見せまいとしている。

 気丈に振るまうその姿が、かえって痛々しいものに感じられた。

〝女は大切な人を失ったときの喪服姿がいちばん魅力的なものだ〟などと下卑た口調で言う者がいる。

 カナリエルの葬送を見送るマザー・ミランディアも美しかったが、彼女はだれよりも毅然としていて近寄りがたささえ感じさせたものだった。

 やはり、今のユングリットほど、その言葉が文字どおりの意味で似つかわしい女性は思いつけない。


 ロッシュは、予想どおり天井まで届く書架を埋めつくしている無数の書籍を見上げ、迷ったあげく手近なものをてきとうに一冊手に取った。

 しかし、眼はいっこうに文字を追うことができず、意味もなくめくられるページ越しにユングリットの後ろ姿にどうしても引きつけられていってしまう。


 ロッシュは、だれよりも冷静なはずの自分が、かつて経験がないほど動揺し、迷っていることを痛感した。

 ユングリットをなぐさめるには、悲しみにまさる新たな喜びをあたえてやるしかないことはわかっている。

 たとえそれが一時的なものであるとしても、ユングリットだってそれ以上を望めないことはわかってくれるだろう。

 なのに……

(はたして、彼女をさらに苦悩させてしまうようなことが言えるだろうか?)


 すると、ユングリットが手の甲で眼をぬぐい、スッと立ち上がった。

「わたくしったら、ようやくロッシュさまが来てくださったというのに、何のおかまいもしなくて。お茶はこちらに運ばせることにしますわ。どうぞ、お好きな本をお好きなだけお持ちになって、円卓でおくつろぎくださいませ」

 無理やり自分の気持ちを引き立てるように言いながら、ユングリットは呼び鈴を鳴らそうと入口のほうへ足早に向かった。


 そのとき、ロッシュの手がとっさに伸び、その行く手をふさいだ。

 ユングリットは足をもつれさせ、華奢な身体がロッシュの腕の中に倒れ込んできた。

「いいえ。だれも呼ぶ必要はありません」

「えっ――」

 ユングリットがロッシュの顔を見上げ、ハッと眼を大きく見開いた。

 それは〝煙るような眼ざし〟とはちがい、涙に濡れて生々しくきらめく二つの瞳だった。


「ユングリット。大切な話があるのです」

「そ、それは……?」

 あえぐように問うユングリットの身体から力がどんどん失われていき、ロッシュは完全に女を両腕で抱き寄せる格好になった。

 彼女の希望と不安が内心で激しくせめぎ合っているせいだとは、容易に想像がつく。

 おそらくだれにも触れられたことのない、形のいい唇が、誘いかけるように半開きになって眼前に迫り、ロッシュはためらった。


(これは、ユングリットが期待している言葉ではないだろうが……)

 そう思ったものの、口にするとしたら、彼女が期待する言葉と同様に今しかなかった。

「よく聞くのです、レディ・ユングリット。この塔は殺人現場です。お父上ボルフィン公は、何者かによって殺害されたのです――」

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純真なマチウ4[覚醒篇] 松枝蔵人 @kurohdomatsugae

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