四・戀獄の糸

 あなたさえいなければ、私が愛を知ることはなかったでしょう。他人ひとを愛せることなど知り得なかったでしょう。どんなに欲深で醜い生き物か気づくこともなかったでしょう。

 あなたが私のために死んでくれるというのなら、私はどんな姿のあなたでも受け入れられる。

 二人だけの世界で生きていくの――




「彼を手放して」

 稲子は左目を光らせ、鋭く言い放った。

 真っ暗な空間には、老婆のような女が男の首を抱いている。血の気のない真っ白な顔にかつての栄光はない。

「今すぐに。でないと、あんたまで

 一歩、近づけば女は後ずさった。

「戻る? どこに? もう引き返せないわ」

「まだ間に合う。あんただって、分かっているんだろう? もう帰ってくることはない。今見ているものは虚実と妄想よ。それも分かっているはず」

 稲子の声に、女は逡巡した。腕に抱く男の顔を愛おしそうに見つめ、涙を落とす。そして、震えながらゆっくりと彼の首を稲子に向けた。

 顔を上げれば、醜かった老婆のような顔がみるみるうちに若返っていくようで、稲子は思わず目を見張った。横では見弦矢も息を飲む。

 稲子の前に差し出された首に生気はない。しかし、うつろに濁った白い目玉がぎょろりと動いた。口元には笑みを浮かべている。腐乱した唇をひくつかせ、男の首は何かを訴えていた。しかし、音にはならず、誰にも読み取ることはできない。

 笹本の手が首から離れる。その瞬間、稲子の左目から桜の花弁が涙のように落ちていった。左手からしゅるりと枝が伸び、男の首を包み込む。ぐるぐるとがんじがらめに巻き付き、飲み込んでいく。稲子の目に宿る桜の怪異は、やがて愛の呪いを食らい尽くした。

「この因縁、断ち切りましょう――」

 ぽつりと小さく呟く稲子は、笹本の小指に触れた。欠けた指は赤黒い。しかし、絡みついた枝が離れれば、ほっそりと繊細な小指が現れた。



 ***



 愛に溺れた男女は、目先の純愛に囚われ、全てを正当化した。

 糸で縛ったのは、どちらだったのだろう。もしかすると、来島は望んで死んだのかもしれない。糸の継ぎ目は断ち切らねば分からない。


 笹本はそれから、気絶したように眠り落ちてしまった。彼女は助けを求めていたが、愛に縛られていた。助けてほしいのに助けてほしくない。そんな相反した気持ちを抱え、真実を見失っていたのだろう。

 そんなことを思い返しながら、稲子は静かにため息を吐いた。

 劇場を出ると、外はすっかり宵の口であり、漆黒とグレーが混ざり合う空。

「――稲子さん」

 背後から見弦矢の声がする。振り返ると、彼は柔和な笑みを浮かべていた。しかし、その表情はすぐに強ばる。

「稲子さん!」

 いきなり肩をつかまれ、彼の吐く息が近くなった。稲子は眉をひそめて彼を睨む。

「左目、怪我をしてます」

「え?」

 言われるまで気が付かなかった。こちらの落ち着きとは裏腹に、見弦矢は珍しく慌てふためいている。稲子は左目をこすり、指に滲んだ真っ赤な鮮血を鬱陶しげに見た。

 すると、見弦矢はポケットからハンカチを出し、彼女の目に押し当てた。

「ちょっと!」

「病院に行きましょう。あまり無茶をしないでください」

「いや、ねぇ、見弦矢」

「稲子さんが強いってことは分かってます。でも、怪我をするくらいならやめてください」

「見弦矢ってば」

 頬をぐいっとつまむと、見弦矢の口はピタリと止まった。

「あのね、これは生まれつきなのよ。無茶したわけじゃなくて、まぁ……」

 なんだか言いづらい。無茶をしたのは確かだった。愛憎にまみれた呪いを相手にするのは得意ではなく、体力も消耗してしまう。稲子はそれを悟られまいと俯いた。

「とにかく、一件落着したのだし、夕飯くらいは奢ってちょうだいよ」

「え?」

 見弦矢はなおも不安そうに様子を窺っている。しかし、彼のハンカチのおかげで左目から流れる血は拭えた。それを見せると、彼はほろりと安堵する。

「驚かせないでくださいよ」

「勝手に驚いたのはそっちよ。あーあ、お腹すいた」

 うまく誤魔化せたようで安心する。奔放に腕を振りながら前を歩くと、見弦矢がふいに彼女の指を掴んだ。

「次は無茶しないでくださいね」

「だから、」

「約束してください。でなきゃ、夕飯はお預けです」

「だからしてないって! あぁ、もう!」

 振りほどこうとするも、彼の手は強い。稲子は不機嫌あらわに見弦矢を睨んだ。

「じゃあ、指切りでもする? アタシのこと、あんたが縛ってみればいい」

 少し、声音を低めて言ってみる。左の小指を立てて、稲子は挑発的な目を向けた。

 見弦矢は思わず劇場を振り返る。それから、ゆるゆると肩を下ろし、稲子と向かい合って苦笑した。

「約束を破ったら、首が落ちるなんてことはありませんよね?」

「さて、どうだか」

 二人は小指を絡ませ、不敵に笑った。



〈霜夜の章、了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

昭和呪術師 神林稲子の霊媒旅行記〜戀獄呪いの巻〜 小谷杏子 @kyoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説