参・血の契りに縛られて

 手のひらに「呪」と書かれたおどろおどろしい文字を前に、見弦矢はようやく軽薄な表情を引き締めた。もっともらしく唸っている。

「成る程……」

 笹本は先を行き、錆びた鉄扉のノブを回した。そこが彼女の居住地のようで、扉を開けてすぐに一間があった。狭い空間に家具は少なく、卓袱台ちゃぶだいと布団。短い箪笥たんすの上にはラジオがある。電灯はなく、蝋燭ろうそくの明かりで生活しているらしい。

「狭いところで申し訳ありませんが、ここなら以外来ないので、お話するにはちょうどいいでしょう」

 笹本はしゃがれた声を引きつらせながら言った。

「彼、というのは?」

 見弦矢が訊く。すると、笹本は鼻で笑った。

勿論もちろんですよ」

 その言葉に、見弦矢は「あぁ」と押し黙った。なんと答えたらいいか分からず、得意の笑顔もすっかり引っ込めた。

 一方、稲子は鉄扉を開け放したままにしておき、見弦矢に続かず玄関口で佇む。彼女と見弦矢だけが卓袱台を囲み、座りこむ。

 おもむろに笹本が言った。

「レンゴクのまじない、は手順が細かいのです。だから複雑であり、強力――まずはかいこが吐いたまゆの繊維をり合わせて繋いだ糸を使います。そして、この生糸に結ばれたい相手の血を滲ませます。自分のものも同じように。そうして、血に染めたら左手の小指に巻きつけるのです」

 彼女は淡々と説明し、糸を巻くような仕草をした。そのしなやかな所作は、やはり元女優とも言える淑やかで可憐な美しさがあった。しかし、彼女の左手小指は短く、シワが目立つ。

「そのまじないを行い、来島が契を破ったから殺したってわけ?」

 ようやく稲子が口を挟んだ。汚物を見るような目で笹本に問う。

「そうです」

「馬鹿馬鹿しい」

「私は真剣に願ったのよ。哲志さんは、それはそれは見目麗しく、聡明な方でした。そのうち銀幕デビューだって囁かれていたほどです。しがない劇場の看板俳優ではなく、有名になることを約束されていた」

「その未来を断ち切ったのはあんたなんだろう?」

 すかさず冷たく言えば、笹本は息を飲んだ。ゆるゆると目を伏せる。

「えぇ、そうです。私はあの人がどこか遠くに行ってしまうのも、誰かの目に留まるのも、そして私を捨ててしまうかもしれない未来も、全部全部許せなかった。だから、呪いで……」

 呪いで縛り付けた。

 がんじがらめに。

 そうすれば、彼は離れない。

「血の契りは、とても濃厚で効き目が抜群だそうです。彼に頭を下げて血をもらい、私のも混ぜて、そうして出来上がったのが『レンゴクの糸』。でも、彼は約束を果たそうとはしなかった。私を捨てると言った。だから、私は小指を切り落としたんです」

「するとどうなったんですか?」

 見弦矢が小声で訊く。

 これに、笹本は天井を仰いでたっぷりと間を空けた。

「………」

「笹本さん?」

「………」

 やがて、笹本の首がガクンと下へ落ちる。

「糸を結んだ小指を切ると、相手の首が落ちるそうです」

 彼女は淀みなく滑らかに、しかし感情的に声を荒げ、見弦矢の前に身を乗り出した。

「私は、あの人のために誓ったのよ。愛を永遠にするために。彼だって、私が一緒にいることを望んでいた。だから、まじないを使ったの。愛を本物にするため、彼への誠意を見せつけるため……そうね、脅しのつもりだった。そしたら、彼は……あぁぁぁ」

 卓袱台の脚が揺れた。笹本の体重できしんでいるわけではない。怯えるような震えは増していき、見弦矢は思わず立ち上がった。辺りを見回すと、部屋全体が揺れ動いている。

 蝋燭の炎が空気に触れ、消えた。完全な闇に陥る。

 その時、耳をつんざくような女の悲鳴が上がった。身体中の気管を引っ掻くような金切り声。思わず呼吸を忘れた。

 しかし、見弦矢は手探りで壁を探り当てた。うるさい空間に声を張り上げる。

「稲子さん! 大丈夫ですか!」

「大丈夫よ。あんたこそ、大丈夫なの?」

 真っ暗で何も見えないどこかからか、稲子の冷めた声が掻い潜ってくる。

 声と同時に桜色の煙がふわりと漂った。それを捉え、見弦矢は視線を一つに絞る。壁伝いに行けば、稲子の手が伸びてきた。彼女の左腕には桜の花弁と枝が巻き付いている。響く不協和音の中で、見弦矢はいくらかの安堵を覚えた。

「稲子さん、何がどうなってるんですか?」

「さぁね。彼女の迫真の演技に囚われたんじゃない?」

 あっけらかんとした口ぶり。彼女の目には真実がえている。

 暗転した空間に浮かぶのは、血に塗れた「愛憎」――稲子は背後を振り返った。

 ごとん……ごとん……

 砂袋を落とすような音がする。音が一段ずつ降りてくる。

 見弦矢にも聞こえた。彼も振り返り、すぐに鼻を押さえた。

 突き抜ける異臭は腐っている。せ返るような鉄のニオイ。いくら鉄に囲まれているからとは言え、ここまで深く濃いものじゃなかったはずだ。

 ごとん……ズズズ……

 最後の一段を降りた直後、音が変わった。筆を引きずるようだが、軽くはない。重く重く、ヘドロでも塗りたくるようなじっとりと耳障りな音が心臓の中を不快に掻き回す。

 そこまで来ている。確実に。

「あら、哲志さん。今日もいらしてくれたのね」

 よく通る豊かな女の声が嬉しそうに言った。

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