マシュマロ入りココアをもういちど

夏野けい/笹原千波

ふたたびあなたにあえたなら

 ペンネームで名乗ったとたん、エイナさんはつややかな眼球を転げ落とさんばかりに目を見ひらいた。マスカラを丁寧にのせた睫毛が優雅に宙をかいた。

 エイナさんの書く小説と同じくらい、端正な人だった。


「無用心なんですよ、あなたのツイッター」

「よもや未成年にそんなことを言われるなんてね」


 あたしの挑発的な発言でようやく落ちつきを取りもどして、首をすくめた。

 ショッキングピンクのマフラーと毛玉ひとつない雪白せっぱくのコートは、仕事帰りとは思えないほど洒落ていた。あたしは制服なんて着ていなかった。文字のつらなりから相手をおしはかっていたのは、エイナさんだって同じだろう。あたしは学園物ばかり書いていた。ほかの世界を知らなかったから。

 大きくも小さくもない、東京の郊外の駅。街はクリスマスを心待ちにしていて、きらめく電飾を冷たい雨がにじませていた。


「こんな時間に。家出のつもりですか」

「泊めてください」

「わたしに誘拐の罪を着せる気?」

「今夜だけです。親にも言いません」

「親御さんは心配なさるでしょう。悪いこと言いません、帰るべきです」


 エイナさんの傘は青と白、持ち手は淡い空色の皮張り調だった。そこに添えられた長い指に、ふれた。電車から出たばかりの手は温かかった。


「つめたっ……ちょっと!」

「身体が冷えてしまいました。ねぇ、保護してくださいよ」


 エイナさんはため息をついた。


「わかりました。本宅はダメだけど隠れ家に連れていってあげましょう。ただし、飲み物一杯ぶんだけ。よろしい?」


 是非はなかった。本当のところ、あたしは学校や家が関係しない場所で羽を休めたいだけだった。泊まりたいなんて、たぶん大げさだった。

 エイナさんは姓だけを名乗った。永田ながた。永遠の永に、田んぼ。エイナのエイは、ここから。

 あたしは、と言おうとすると止められた。余計なことは教えないでくださいね、と。かわりにあたしをペンネームで呼んだ。


魚子いおこさんは、まだ若いんですから。守れるものは大事にしてください。さらけだすのはいつだって出来ますよ」

 駅前の商店街からわきに入る小道に、エイナさんの言う隠れ家があった。ベージュの塗り壁のカフェだった。金色の電飾が、ささやかに玄関まわりを彩っていた。


 飴色の木と漆喰のやさしげな内装があたしたちを迎えた。クリスマスソングのピアノアレンジがさらさらと流れていた。

 エイナさんはココアを頼んだ。問われたので、同じものをと言った。

「マシュマロは、お嫌いですか。トッピングにはおすすめですけれど」

「好きです」

「では、お願いしましょうか。お代はわたしが払います。子どもから取るほど困ってませんから」

 払うつもりだったのに気付いてか、冗談めかして釘をさした。


 店員を呼ぶ手の、白いこと、指の長いこと、ローズクォーツの色のネイルをしていることが、スローモーションのようにあたしの記憶に刻まれている。


「さて、頼んでしまったからには時間は有限ですね。なにを、お話ししましょうか」

「なにも考えてなかったんです」

 逃げたかっただけで。

「いきぐるしいのでしょうね」

 微笑とともに目を伏せて、エイナさんは言った。息とも、生き、とも取れるニュアンスで。

「信じなくてかまいませんけれど、わたしにもそういう頃はありました」

「エイナさんくらい綺麗で聡明なひと、あたしみたいなのと重ねて考えるのは無理ですよ」

「……大人にね、なりなさいって言われていたんです」


 湯気のたつ、ぽってりとした形のカップがふたつ、テーブルに運ばれた。かすかに灰色を帯びたピンクと薄いグリーン。あたしの前にグリーン。

 小粒のマシュマロが雪原のように浮いていた。ココア色はふちに覗くのみだった。

 スプーンを手にしたエイナさんは、躊躇いなくカップにさした。あたしもそれに倣った。マシュマロはじゅわりとまわりから溶けはじめていた。


「寛容になれとか、精神的な意味ではないんですよ。これは母にもらった言葉でしてね。お守り代わりにしていました。もうわたしには必要ないから、魚子さんにさしあげます」

 カップを抱くてのひらがじんじんと熱かった。そっと持ち上げて口もとに運ぶと、とろりと濃いココアの香りがした。マシュマロの甘くふんわりとした匂いがそこにヴェールをかける。


「大人になるとね、今あなたが思うより世界は広くなるの。自由にもなれるの。だから大人になったら、あなたはもっと楽になれる」

「それ、本当でしたか?」

「本当。だから魚子さんもきっと」


 カップに口をつける。酔いそうなほどカカオが強く、それでいてミルクの優しさが全てを包む。マシュマロのストレートな甘さと泡をはらむ軽さ。


「大人になって、胸を張って対等に、また会いましょう? どうかそれまで生き延びて。私も、頑張りますから」


 エイナさんのカップは空になっていた。それでも、ちびちびとしか飲まないあたしを待っていてくれた。最後には常温になったココアが喉を落ちた。



 しばらく、あたしの好物はマシュマロ入りのココアだった。エイナさんと一緒だったときには敵わないけれど、短くも幸福な、非日常の思い出を呼び起こすには十分だった。


 あたしは順当に太り、潤沢な糖分に支えられてか、大学は第一志望に受かった。


 新しい生活に心はずませた四月、エイナさんは姿を消した。

 SNSのアカウントも、小説サイトの作者ページも消えた。あたしと交わしたあらゆるやりとりも、作品たちも。


 前触れといえば、あった。

 更新の頻度は減って、たわいない投稿は皆無になっていた。声をかけてみればよかった。悩みがあるなら聞きたかった。

 もう手がかりすら残っていない。簡単に言えば絶望だった。あたしの苦しいときにあって温かに手を差し伸べてくれた人を、あたしは見失った。


 あたしはココアが飲めなくなった。

 大学の授業やサークルにいそしむうち、脂肪は大幅に減った。友達も一応、できた。でもそれがなんだというのだろう。あたしが大人になりたかった理由は消えてしまったのだ。



 あたしはハタチを迎えた。毎年変わらず巡りくるクリスマスだけど、西洋風のキラキラに満ちた街に振袖なんて似合わない。なんだってクリスマスイブに前撮りをせねばならんのか。

 撮影が終わって、親族が集まる食事会へ行かなくてはいけない。いかにも気づまりだった。おまけに、両親は迷子になったおじいちゃんを探しに行っている。振袖に拘束された娘を駅に置きざってまで。


 線路をまたぐように作られた改札外のデッキで、ずっと電車が行き交うのを見ていた。十二月も下旬となれば風は冷たく、やわやわのフェザーショールは意味をなさない。腹回りに詰め込まれた綿やらタオルやらのお陰で芯まで冷えるということはないけれど。

 左手に握ったスマートフォンは氷のように冷たい。両親からの連絡はなかなか来ない。

 風がときに、電車の走る音よりも強く鼓膜を叩いた。やっと大人になれました。お会いしましょう。何度シミュレーションしたかわからない言葉は、もはやどこにも届かない。


 小説は、やめなかった。あたしがここで書き続けるかぎり、この名前でいるかぎり、エイナさんはあたしを見つけることができる。


 静かに、絶え間なく物語を綴った。華々しい活躍には無縁だったけれど、読んでくれる人も常にまわりには居た。陽の当たる場所に行けたら、エイナさんもあたしに連絡を取ろうとしてくれるだろうか。

 あたしの世界はあの頃よりも広い。だけど、いちばん求めていたはずのものは手に入らなかった。


 意味もなく投稿サイトを再読み込みする。クリスマスイブの浮かれた空気と寒さは人間の文化的活動を妨げるのだろうか。今日は作者も読者もあまり動きがない。新作を出したばかりでもないのに、そうそう反応が来るわけもない。冷たい指を動かしてみるだけのことだった。


 通知が光っていた。


 触れた。予感はあった。だからあたしは震えずにいられなかった。

「エイナさんがあなたをフォローしました」

 胸の底から熱が吹き出す。首筋を、頬を血が駆け巡る。あたしがざくろであったなら、深紅の宝石のような粒を吐き出してはじけ飛んでいただろう。


 エイナさんの作者ページには短い近況が書き込まれていた。コメント欄は開放されている。

 長く、創作ができていなかったこと。挨拶もなく消えたことへのおわび、また新しく作品や交流関係をつくっていきたいこと。


 あたしは言葉を必死にかき集める。綴るのは、あの頃よりうまくなったはずだったのに、どうやってコンタクトを取ればいいのか全然わからなかった。声が聴きたい。エイナさんの選ぶ端正な言葉たちを浴びたい。ココアを飲みたい。もちろん、マシュマロをたっぷり入れて。

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