04

 とうとう高橋さんが学校へ来る最後の日になった。

 さすがにこの日は声をかける生徒もちらほらいた。みんな、世界を救う『任務』を負ったクラスメイトに対して何かひとこと言いたいんだ。


 僕は一日ずっと上の空だった。

 今日が終わってしまったら。明日になってしまったら。

 いくら考えたところで、どうにもならないことくらい知ってはいた。でも、無力な僕には高橋さんの運命をひっそり嘆くことしかできなかった。


 帰りのホームルームで簡単なお別れ会が開かれ、あの寄せ書きと花束が手渡された。


「ありがとうございます。頑張ります」


 教壇に立った高橋さんが小さくそう言うと、教室は盛大な拍手に包まれた。

 起立、礼で、今日という日の学校での時間が終わる。

 みんなが帰り支度をする喧騒の中、僕は思い切って高橋さんの肩を叩いた。


「あの……一緒に帰ろう」


 襟にかかる黒髪が、かすかに揺れた。


 クラスメイトたちがいなくなるのを待ってから、二人揃って教室を後にする。昇降口を出る前に防護マスクをしっかり被る。

 柔らかな陽射しに照らされた道を、久しぶりに並んで歩く。

 頭の上には、気の遠くなるほど澄み渡った淡い青色。それを横切る真っ黒な『割れ目』が、空を二つに引き裂いている。


 僕も高橋さんも、どちらも無言だった。

 いよいよ最後というこの時に何を話すべきなのか見当も付かず、僕はすっかり途方に暮れていた。

 いつの間にか、たばこ屋の見える直線に差しかかっている。じりじりと迫る分岐点に、気ばかりが焦る。


 不意に、小さな声が耳に届く。


「あの」


 対して、僕の心臓はびっくりするほど大きく跳び上がった。


「あ……う、うん」

「あの……訊きたいことがあるの」

「……うん」


 鼓動が、瞬く間に足を早めていく。息が苦しい。静かに呼吸を繰り返しながら、続きを待つ。

 乾いた足音が耳につく。隣を歩く高橋さんの顔を見ることすらできずに、地面に伸びた自分の影の輪郭を視線でなぞり続ける。


 訊きたいことって何だろう。

 思えば、向こうから話題を振ってきたのは初めてかもしれない。頭の芯がぼうっと痺れている。


 どこかふわふわした気持ちはしかし、高橋さんが次に発した言葉によって木っ端微塵に砕かれた。


「知ってたんだよね? 『適合者』が……私が、どうなるのか」


 周囲の音が消え去って、時が止まった気がした。

 何も聞こえない。何も動かない。

 恐ろしいほど早鐘を打つ、自分の心臓以外には。


「知ってたから……声を、かけてくれたんだよね」


 違う、と。そう口を開きかけたところで、舌の根が凍り付いた。


 違わない。その通りだ。


 僕は父さんから『適合者』に選ばれた者の行く末を聞いていた。

 それなのに――だからこそ、わざわざ声をかけたんだ。


 たばこ屋の角に行き着き、高橋さんは歩みを止めた。


「一つ、お願いがあるの」


 華奢な手が、防護マスクをひと息に取り去る。黒髪がさらりと零れ出て、白い顔が露わになる。

 突風が吹き抜ける。長い前髪が煽られる。大きな瞳が縋るような揺らぎをたたえて、真正面から僕を射すくめる。


「代わってよ。私の代わりに、『適合者』になってよ」


 放たれた言葉は、さっきよりもずっとクリアに届く。

 咄嗟に何も返すことができなかった。いくつもの言い訳が浮かんでは消える。喉の奥がからからだ。マスクの中の酸素が足りない。ぱくぱくと、間抜けに口だけを動かす。


 やがて高橋さんは視線を逸らし、唇の端を歪めて、小さく笑った。


「嘘。冗談だよ」

「あ、あの……」

「大丈夫。大丈夫だから……ありがとう」


 その時、自分の心のひしゃげる音を聞いた気がした。


 高橋さんが防護マスクを被り直す。


「じゃあ、元気で」


 抑揚なくそう言うと、何の躊躇いもなく僕に背を向けた。

 遠ざかる足音。猫背の後ろ姿が小さくなる。

 止まっていた時間が動き始める。立ち尽くす僕を置き去りにして。

 どんどん離れていく僕と彼女の間を、『空のかけら』がきらきらと横切っていく。

 短い夢から醒めた僕は、堪らずそこから逃げ出した。



 僕はどこで間違えたのか。

 僕だけが知っていた彼女の秘密。そのことで、彼女に対して自分が特別な何かであるとでも勘違いしていたんだろうか。

 だから、何かしなくちゃと思ったんだろうか。


 いや、そうじゃない。

 そもそも僕は、自分が何もできないことを自覚していたはずだ。

 なぜなら僕はまだ子供で、父さんとの約束を破るなんて有り得なかった。『適合者』の『任務』の内容を知っていたところで、どうこうする力なんて何一つ持っていなかった。


 ――代わってよ。私の代わりに、『適合者』になってよ。


 そんなことは不可能だ。彼女だって、たぶん分かっていながら言ったんだ。

 だけど、仮に僕にも『適合者』の資格があったとしたら。彼女の身代わりになり得たんだとしたら。

 はたして、あの願いを聞き入れることができただろうか。

 ずきりと胸に痛みが走る。答えなど、考えるまでもない。


 ――もし、僕が力になれることがあったら、何でも言って。


 いったいどうして、あんな言葉をかけられたんだろう。

 自分は絶対的に安全な場所にいながら。


 あの色紙に書いた軽率なメッセージを思い出す。


 ――高橋さんのこと、忘れません。


 きっとその通りになるに違いなかった。



 ■



 二十年が経った。

 僕は平凡な大学を出て、平凡に就職し、平凡な大人になった。

 職場で知り合った女性と五年前に結婚し、子供が生まれ、マイホームも買った。平凡だが、幸せな日々だ。


 あれから、彼女の後にも何人かの『適合者』が選出されたらしい。

 その甲斐あって、十年前に空の『割れ目』は消滅した。世界は滅亡の危機から救われたんだ。もう出歩く時に防護マスクを被る必要もないし、汚染されていた環境も元に戻りつつある。

 人々はこの平和を当たり前のものとして享受している。みんな、あの亀裂のことなんてすっかり忘れてしまったみたいだ。


 守るべきものを得た今、時々考える。

 いつかまた何らかの脅威が迫ったとして、世界を救うには誰かの命を犠牲にする他ないと言われたら。

 僕は、自ら名乗り出ることができるだろうか。


 空を振り仰ぐ。途切れることのない、ひと続きの澄んだ青色の。

 そこに、あの日見た空が重なる。記憶の中の亀裂が、胸の痛みを呼び起こす。

 決して消えることのない傷が、未だにぱっくり口を開けている。


 最後に目にした彼女の震える瞳が、歪んだ唇が、ずっと脳裏に焼き付いていた。



—了—

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きっと誰のヒーローにもなれない 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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