03
僕たちの制服が半袖から長袖に軒並み変わった十月の初め。一週間後に控えた中間テストに向けて、休み時間にも勉強する生徒が増えてきた。
かくいう僕も友人と一緒に数学の教科書を眺めながら、いまいちピンと来ない平方根について、ああでもないこうでもないと議論を交わしていた。
「なぁ、こんなルートの計算とか、大人になって役に立つんかな。今すっげぇ無駄な時間を過ごしてる気がするわ」
「まぁ……」
「何にせよ、高校受験を乗り越えなきゃ大人にもなれねぇのか。あーあ、どうも回り道してるような感じがするよな」
「うーん」
くだを巻く友人に生返事をする。目にする全ての計算式が何一つ解を結ばずに、するりと頭を抜けていく。
僕は僕で、今、呑気に勉強なんかしている場合じゃないように思えた。
なぜなら中間テストが始まる頃には、高橋さんは『任務』に就いてしまうんだから。
前の席には、相変わらずの猫背。今読んでいるのが教科書なのかミステリー小説なのか、僕の位置からでは確認することができない。
僕たちはみんな、これから中学を卒業して高校に入り、いずれは大人になる。
当たり前に進んでいく時間のその先に、だけど高橋さんはいない。
掴みきれないわだかまりが、上手く有理化できないまま、胸の奥でもやもやと揺蕩っていた。
「そうだ、お前も『適合者』にしてもらったらいいんじゃね?」
「えっ?」
友人の出し抜けな言葉で、心臓が跳ねる。こいつはいったい何を言い出すのか。
「そしたら勉強とかしなくても稼げるし。お前の親父、特定危険物質対策室にいるんだろ? だったらさ――」
瞬間、かぁっと頭に血が上った。
「おい、ふざけんなよ! 言っていいことと悪いことがあるぞ!」
クラスメイトたちが一斉に視線を投げてくる。ざわついていた教室が、しんと静まり返った。
「な、何だよ……冗談だよ」
友人は引き攣った笑みを浮かべながら、自分の席へと戻っていく。
空気を窺うような囁き声がちらほらと戻る頃、チャイムが鳴って先生が前のドアから入ってきた。そして何事もなかったかのように授業が始まる。
さっきの、間違いなく高橋さんに聞かれてしまった。
僕の父さんが、例の対策室勤めだということを。
沸騰した血が一気に冷えて、体温までもが下がった気がした。
目の前にある丸まった背中の、微動だにしないセーラー襟の白い直線からは、やっぱり何も読み解くことができなかった。
その日から、帰り道で高橋さんを見かけなくなった。
最初は放課後に図書室でも行っているのかと思ったけど、それが二日、三日と続いて、避けられているんだと理解した。
せっかく前後ろの席なのだから、さらっと挨拶くらいすれば良いのかもしれない。
だけどいざと思うタイミングに限って、言葉が喉の奥に引っかかってしまう。自分の意気地のなさをこれほど悔やんだことはない。
例えば僕が、どんな女子とでも気安く喋れるキャラだったら。
例えば僕が、先生から伝言を依頼された学級委員長だったら。
例えば僕が、彼女がよく行く図書室のカウンター係だったら。
そんな「高橋さんと自然に喋れるポジションの自分」という愚にもつかない妄想をあれこれしては、時間だけが虚しく流れていった。
同時に、苛立ちが募り始める。なぜ高橋さんは僕を避けるのか。
自分の人生を変えた特定危険物質対策室を恨んでいるのだろうか。僕が、そこに勤務するスタッフの息子だから?
だとしたら、どうにも釈然としない。それは僕のせいじゃないのに。
父さんに関することで、罪悪感のようなものが全くないわけじゃなかった。だけどその正体が何なのか、この時点ではよく分からずにいた。
そうこうするうちに、タイムリミットまで残り二日になった。
クラスで回っていた寄せ書きの色紙が、僕の手元にやってくる。
『任務、頑張ってください』
『向こうに行っても元気でね』
『テストがないのはちょっとうらやましい(笑)』
色とりどりのペンで綴られた、級友たちのメッセージ。高橋さんが単に遠くへ行くだけだと思い込んでいるがゆえの、激励の数々。
心が塞いでくる。本当にそうだったら、どれだけ良いんだろう。
残されたわずかなスペースに、いったい何を書くべきなのか。高橋さんは僕の言葉なんて欲しくないかもしれないけど。
迷いに迷った挙句、僕が選んだのは――とてもシンプルな一文だった。
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