(8)にわか雨。島のうら。
幸い祖父の腫瘍は危ないものではなかったようで、明日の午後には検査入院を終えてこちらに帰って来ると決まった。
したがって、当初の予定通り、僕も明日は帰って来た祖父を囲んで一夜過ごして、滞在7日目にあたる明後日には大阪の家へ戻ることになった。
いつものお昼下がり、浜で待ち合わせたヨーコにそれを伝えると、「良かったね!」と喜んでくれた。
それから、「泳ぐのは今日で最後、ってことだね」とも。
「この夏はそうだけど、また来年の夏はこっちに来るよ」
「じゃあ次はその時だね。来たらまた連絡してよ」
と言っても、来年の夏は受験の直前だ。こうして遊ぶ暇はないんだろうな、という気持ちは口にしないようにした。
◆
クロールで前を進んでいくヨーコを確認しながら、僕は相変わらずボディボードに乗ってそれを追いかけた。
ボードに乗って行く前提であれば、ヨーコに「島まで行くよ」と言われてもあまり躊躇わずついて行けるぐらいには、僕も慣れつつあった。
1日最低1回は小島まで行って帰って来るのをもう5日も繰り返している。繰り返し泳いだルートの潮の流れも、ボードで楽に進むコツも掴めて来ていた。
そうして、僕は今回も無事小島まで辿り着いた。初めて泳いで渡った時に比べれば、息もそこまで上がらず体力にも余裕がある。
「すぐに戻る?」とヨーコに尋ねようとした時、それまで晴れていた空が急に曇り始めて、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「雨降って来たね」とヨーコが呟いた。
あっと言う間に雨足は強まった。
遠くの方で雷のような音が聞こえ始めると、ヨーコはそそくさと海から上がって「止むまで待とう」と言った。「雷が落ちるかも知れないし、風が出て潮の流れが変わるといけないから」
海のことならヨーコの方がよく知っているに決まっている。僕もすぐに水からあがって、ヨーコの背中について行った。
ごつごつとした石と砂利だらけで、なるべく滑らかな石の上を選んで歩いていくが、空き缶や木っ端も多くて怪我しそうだった。
「これ、どこに行こうとしてる?」
ヨーコに尋ねると、「裏に回れば、いいところがあるよ」と彼女は答えた。
5分ぐらいかけて島の反対側に来たところ、切り立った崖の根元に、お茶碗状にくり抜いたみたいに岩礁が窪んでいるところがあった。力士が10人ぐらい一緒に浸かれそうなぐらいの大きさの水たまり。
「実は秘密の場所なんだよ」とヨーコは言った。
「なんで?」と訊くと、「誰も来ないし、向こうの方よりも綺麗だから」と彼女は答えた。
不思議なことに、島の裏手に広がる海は、なるほど少し見かけが違っていた。
対岸の半島まではかなり近く、たぶん100mかそこらしか離れていない。波はほとんどなく、池のように穏やかな浅瀬が続いているようで、水もいくらか青く見えた。もう少し日差しがあれば、水が透き通って見えるかも知れない。
「確かにいいところだね」と僕は言って、その窪みの淵の岩肌に腰を下ろした。ヨーコもそうした。
強くなるにわか雨に全身を叩かれながら、「海のこと、前より怖くはなくなってきたよ」と僕はヨーコに言った。「ヨーコの言う通り、泳いでみたら色んなことがわかってきたから」
「泳いだって言っても、君はボードだけどね?」
ヨーコは僕をからかった。返す言葉がない。どうせビート盤に捕まってプールを泳いだ子ども同然だ。
「まだサメが怖い?」
「いいや、それはさすがに」
僕は苦笑した。実際に自分で何度も泳いでみて無事だったのだから、そんな心配はどうやったってもうリアリティと居場所を失くしつつあった。
「この5日間、どうもありがとう、ヨーコ」と僕は告げた。
前後の脈絡から言えば、唐突かも知れないが、ラストシーンの舞台としてはおあつらえ向きのスポットだ。お礼を言うなら今だと思った。「あんまり勉強は進まなかったけど、それより大切な体験ができた気がする」
「そう? あたしは特に何にもしてないけど」
「いやいや、励ましてくれたからだよ。僕でもこんな遠いところまで泳いで渡れるんだな、やってみれば何とかなるもんだなって思ってさ。わからないのが怖いなら、少しずつやってみて積み重ねていくしかないって、そう言ってくれたことが身をもってわかったよ」
「……いや、でも君、ボードだけどね?」
「そう、ボードだけどバタ足で……ってやかましいわ!」
「あはは、大阪人みたいなツッコミ」
「実際に大阪人だわ!」
ヨーコはけらけら笑ったので、僕も同じように笑った。
「……あたしの方こそ、ありがとう」
笑い終わった頃に、ヨーコは和やかな瞳を僕に向けた。「正直、最近こんなことはもう止めた方がいいのかなって思いかけてたんだ。もし海斗と会ってなかったら、来週からは海に来なかったかも」
「え、そうだったの?」
唐突な白状に割と驚いた。何も知らない僕が見た時、そこまで悩んでいる風には全然見えなかったから。「“やらされてる”わけじゃないから続けられる、って言ってたのに」
「前も言ったけど、毎日こんなことしてるの、親から反対されてたんだ」
「でもさ、それは別にヨーコ次第で……」
「うん、海斗の言うことも、ごもっともだと思う。そう言ってくれて、勇気が出たのもそう。……でもね、親の言っていることの方が正しいのかなって、あたし自身が薄々気づいちゃったんだよね」
どういうこと、と尋ねると、ヨーコは膝を抱えて、つま先をぼんやり眺めながら力なく言った。
「だって、トライアスロンが好きだから、大会が近いからって、勉強そっちのけでひとりで泳いだり走ったりしてるんだもん。かと言って、あたしも根っこのところで自信や覚悟がないから、『プロのアスリートになりたいわけじゃないよ』とか、『ただ趣味でやってるだけ』とか、そういうコスい予防線を張ったりしてさ……。頑張っているテイなだけで、実はすごく『なんとなく』で生きてるんだなって。――そりゃ、親も一言言いたくなるよね」
自嘲気味にヨーコはそう言うけれど、僕にはすごくレベルの高い悩みのようにも思えてしまう。
普通の人なら誰だってそうじゃないのだろうか。不確定な将来に怯えて小ずるい言い訳を用意するのも、頑張っている風に装いながら実は手を抜いているのも。
「それでも、僕には『なんとなく』でトライアスロンなんかやれないと思うけどなぁ」
「海斗はやっぱりそう思うんだね。……でもね、あの日海斗が『すごい! すごい!』ってあたしに言って来たでしょ? あたしにとっては現実逃避でしかないことなのに、この人にとってはそういう風に感じるんだ、ってちょっと衝撃だったの。しかも、あれだけ海が怖いとか泳げないとか言っていたのに、今週ずっとあたしに付いてきてくれて。はっとさせられたというか、気を引き締めなきゃ失礼だ、って思えたんだ」
ヨーコは再び笑った。霧が晴れたみたいに、屈託のないえくぼに、きらきらの大きな瞳。
「――あたし、もっと真剣にやってみる。海斗と会ってそう思えたんだ。だから、ありがとう」
僕の方こそ、何もしていないのに。
それでも、迷惑だと思われていないかなと不安だった僕にとっても、胸を撫でおろしたくなる言葉だった。
◆
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