(7)小島にて。並ぶ肩。

 ボードに両手でしがみつき、胴体をべったり預け、両足でばしゃばしゃ懸命に水を叩く僕よりも、クロールで進むヨーコは段違いに速い。濃緑の水面を青魚みたいに進んでいく。

 僕の方は、少し波にあおられただけで水掻きが空回りし、ボードがあらぬ方向を向いてしまう。水深がわからない水域を進む恐怖もあって、ボードから落ちないよう波間で必死でバランスを取ったりもする。

 競争だと言ったヨーコは、僕が離されそうになるとペースを緩めてくれる思いやりを見せてくれたが、それでも追いつけない。両足に必死でムチを打つけれど、反抗的なロバみたいにどんどん鈍重になっていく。だからって、動きを止めてしまえば僕は一生陸に戻れない。


 そうして一緒に泳いでいると、陸から眺めていた時には気づかなかった彼女の技術もわかって来た。それは真っ直ぐ泳いでいくということ。潮の流れは大してないと彼女は言っていたけれど、それでもプールや池とは全然違う。少しでもぼんやりすると、ヨーコが全然違う方を向いていたり、いつの間にか離れたところを泳いでいたりする。

 でも、それはヨーコが勝手に進路を変えたのではなくて、僕が潮流のせいでずれていたことに気づいたりした。



 15分ぐらいはかかって、僕はようやく小島に着いた。ボディボードがあったとは言え、沖に流されることもなく、巨大な魚に肉をついばまれることもなく。

「ちゃんと来れたじゃん」

 先に着いていたヨーコが僕の方に歩いてきて、僕を見下ろしながら尋ねた。「でも、あのボードでバタ足するのはたぶん非効率だよ」

「うん、途中で僕もそう思った。全然進まなかったもん」

「……どうだった?」

 彼女も少し息が切れているけれど、僕よりは随分余裕があるように見える。

 僕はと言えば、比較的表面のなだらかな大きめの岩に仰向けに寝転がって、くたびれた手足をだらんと休めている。

「……毎日やってんの、こんなこと」

 驚きや感心という気持ちが周回オーバーしてしまって、どちらかと言うと呆れに近い気分に変わっていた。「トライアスロンって、この後にまだ走ったり自転車漕いだりするんでしょ?」

「レギュレーションにもよるけど、スタンダードなやつならこの距離を1.5往復ぐらいした後にバイク、それからランだね」

「人間じゃないな……」

 本心からの言葉だった。

「海斗もちゃんとスーツ来たら? そのボディボードでバタ足するよりはラクだと思うよ」

「泳がせる前に教えてよ、それ……」



 なかなか息が整わない僕の隣、話し声が届く程度の少し離れたところにヨーコが座った。

 青空、緑色の海。少し弱まったとは言え、まだカンカン照りの日差しの下で、僕とヨーコは肩を並べた。

 視界の左手には僕らが泳いで来た砂浜と、小高い堤防の上を行き来する車が見えている。

 僕らはあそこから来たんだな、とじんわりと思った。しんどかったけど、たかだか15分少しで来れたと思えば、何だか達成感が湧いて来るような。



「なんでトライアスロンなんてやろうと思ったの。こんなきついこと」

 今なら訊いても失礼じゃない気がしたので、尋ねた。

「なんで、って言われても」

 ヨーコは困ったように頭を掻いた。「あんまり考えたことないなー。周りで誰もやってないから、じゃあ自分がやったらおもしろいかなって。大会出ても案外行けるのがわかったしね。あとは、単純に運動するのが好きだったとか」

「へぇ、そんなもんなんだ……」

 肩透かしと言ってはなんだけど、少し意外だった。これほどしんどいことを自発的に続けているのに、理由らしい理由がないなんて。


――と、「あ、」と思い出したようにヨーコは言った。

「これ、誰からも“やらされてる”ことじゃないの。それが一番大きい理由かもね」

「習い事とか、勉強みたいな感じじゃない、ってこと?」

「そうそう」

 ヨーコは楽しそうに笑った。「だって、別にやる必要ないんだよ、こんなこと。あたしだって他に趣味あるし、遊びたいこともあるし、休みの日に泳いだり走ったりするのしんどいし。でも、あたし自身がサボっちゃったら、本当に誰も、一切やらないんだよね。『まぁ、それなら』って思ってしまうの」


 それも動機としては些細なことかも知れない。

 でも、今ヨーコが言ったことは、「全国大会を目指す」なんて意識の高い意気込みよりも、ずっと理解できる気がした。

 自分がやらなきゃ誰がやる――そう思えることが自分を突き動かす。

 僕でもすごく想像がしやすくて、腑に落ちた感覚がある。


「……うまく言えないけど、ヨーコは自分にしかできないことというか、自分だからできることを、ちゃんと見つけてるんだね」

 少し疲れが取れてきたので、僕は身体を起こして三角座りに移行した。「僕さ、さっきは『わからないことが怖い』って言ったけど、それは海だけじゃないんだ。進路のことだって何にも思い浮かばないんだよね。何となく予備校行って勉強はしているけど、それやって何になりたいのかなんて全然見えないんだ」

「そんなの、あたしもだよ」

 ヨーコは苦笑いした。「トライアスロンこれだって、ただの現実逃避だって言われてしまえばそれまでだし。将来アスリートになりたいかって、そこまでの気持ちもないしさ」

「でも、ヨーコは自分がやりたいこと、続けたいことを、はっきり持ててるじゃん」

「そうかな……誰も強制しないことをやってるってことは、誰も望んでない余計なことをやってるってことでもあるから」


 太陽に雲がかかったみたいに、ヨーコの顔が曇った。

 何をそんなにネガティブに思う事情があるのだろう、僕にはわからなかった。


「……『余計なこと』なんて言い出したら、何だってそうだよ」

 僕は少しだけ反論したい。

 その相手は、ヨーコじゃない。ヨーコにそう言わせてしまう、何かに対してだ。

「勉強だって、予備校だって、部活だって、遊びだって。何だって、その人にとっては重要かも知れないし、そうじゃないかも知れない。余計かどうかを決めるのは、親や周りじゃなくて、自分自身がどう感じているかの話なんじゃない?」

「うん、あたしも、そうだと思うんだけどね」

 ヨーコは僕の方を向いた。「でも、やりたいことだけやってちゃだめだって怒られる。勉強もせずにこんなことしてるのだって、親はあまりいい顔してないんだ。あたしも、これでいいのかわかんないし」

「……でも、ヨーコの場合は自分がやりたいって思って、それを実際に続けているんだから、それは『余計なこと』なんかじゃないと思う。それを『余計』なんて言っちゃったら――君自身がそう思ってしまうのは、あんまりでしょ。ヨーコがそうなら、行きたい大学もわからないのにだらだら課題解いてるだけの僕なんかカスだよ。ずっと立派じゃんか、誰でもできることじゃないよ」

 勢い任せに僕はそう言い切った。

 断言だった。否定・反論する奴がいるならどうぞやってみろ、恥じることなんかないぞ。それぐらいに、僕にとっては正々堂々と発言できることだったから。

 最後にアシストするつもりで付け加えた。


「だから、僕は君のことがすごいと思うんだ」


 ヨーコは恥ずかしそうに笑った。

「そこまで言ってくれて、ありがとう。そんな風に言われたのは初めてかも」

 ほんの少し、ヨーコは目尻をこするような仕草を見せた。「でもさ、昨日も言ったけど、慣れれば誰でもできるんだよ、泳いだり走ったりするぐらいのことなんて。そんな『すごい』『すごい』って言われるほどでもない、単に楽しいからあたしはやってるだけ。海斗も、一度泳いでみて、どうだった?」

「そりゃ、まだ怖いよ」

 僕は正直に答えた。「自力で泳げたわけじゃないし。それに、泳いでみたら思っていたよりもさらに難しいことだってわかったから」

「でも、やってみてわかったことはあるでしょ? それをひとつずつ積み重ねていけば、不安はなくなる。怖くない、できるって“確信”を少しずつ集めていければいいんだよ」


 確信。

 偶然にも、ヨーコはそう言った。そして、立ち上がった。


「さっきと同じ感じで、もう一度向こうまで戻るよ」

「もう一度か。疲れるなぁ……」

「できるよ、大丈夫」

 僕を励ますようにヨーコは言った。「1週間で帰っちゃうんでしょ? でも、それだけあれば、君も泳げる。泳げなくても、恐怖は克服できる。そうなるはずだから、試してみようよ」



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