(9)海陽より。僕らのハロー。

 雨は少しずつ弱まって来たが、風が吹いてきて、濡れた肌を空冷し始めた。

「少し冷えてきたね」

「じゃあ中に入ろ」

 ヨーコは下の岩礁の窪みを見遣った。「飛び込んだら気持ちいいよ」

 窪みの口の広さは直径4、5メートルぐらい。底まで透き通って見えるけれど、すり鉢状になった中央部の一番深いところは、僕でも足が届かないかも知れない。

 そうして水底を覗いている間に、ヨーコの方はすっと立ち上がってゴーグルを装着していた。そして、僕の二の腕を掴んだ。

「ほら、行くよ」

「え? 一緒に飛び込むの?」

 ヨーコは返事も確認もせず、腰を少し上げた僕の右手をぎゅっと掴んだかと思うと、「せーのっ」でタッと宙に跳んだ。

 一拍遅れた僕はゴーグルだけぎりぎり装着すると、なし崩しでそのまま水面に倒れ込むように突っ込んだ。



 どぼん、という音。水面を突き破った一瞬の感触。

 その後で、カーテンみたいに視界を覆い隠す泡。その泡たちが去って視界が回復した時、すぐ目の前に底が迫っていたが、ぎりぎりのところでぶつからずに済んだ。

 胎児みたいに丸まっていた僕の身体は、飛び込んだ時の勢いと浮力に従って、その底でくるりと半回転し、水面を見上げるような体勢になる。

 その瞬間、真っ青な水に、レーザーみたいに日差しが突き刺さった。晴れてきたんだ。

 水面の中央がぱあっとまっ白に染まって、僕は思わず眼を細めた。



 そこで、僕の右手の感触を思い出す。

 その先にいる、ヨーコを見たのはほんの一瞬。

 水中で気ままに漂う黒い髪の向こう、ゴーグル越しにヨーコの眼が笑っていたのは、たぶん見間違いじゃない。

 身体が浮かび始めるのを感じて、僕はもう一度水面の方へ視線を戻す。

 微粒の泡たちが、まるで息継ぎするように、楽しくてたまらないように、水面の光へと帰っていく。僕らの身体も同じ原理に従って、目の眩みそうな水面に近づいていく。僕らもそこへ帰っていくみたいに――。





 水面の光を突き破り、僕とヨーコは同時に酸素を吸い込んだ。

 前髪と顔面に貼りついた海水、それからゴーグルをぺっぺと払いのけて、「いきなり何すんだよ、焦ったじゃん」と僕は苦情を申し立てた。

「ごめんごめん」とヨーコは笑った。何にも悪いと感じていない笑顔だった。僕も、別に腹を立てたわけじゃないけれど。

「――晴れたね」

 ゴーグルを外しながらぽつりとヨーコが言った通り、にわか雨は止んでいて、太陽の光が降り注いでいる。


 数秒間ほど、2人でぷかぷか浮いていた。

 誰の視線もない無人島で。

 海から切り離された岩礁の窪みで。

 夕立上がりの夏の日差しの中で。

 たった2人で。


 ふと、右手を握りっぱなしだったのに気づいた。

 その拍子に、僕はくだらないことに気づいた。

「……オオタヨーコって、いい名前だね」

「何、いきなり?」

「頭文字を取ったら、“太陽”だったりする?」

 小学生みたいだと自分でも思った。頭をシバかれるかな、と思って彼女の方を見る。

 ヨーコは僕の頭をシバくことも、僕のボケみたいな言葉をシバくこともしなかった。

 笑い出す前のような、それとも笑い終わった後のような、そんな顔で僕の方を見つめた。



 それから何が起こったのかは、よく理解できない。

 ヨーコの唇がすっと僕の方に近づいて、僕の口らへんに触れて、すっと離れていった。

――もしかすると、動いたのはヨーコじゃなくて、僕の方だったかも知れない。あるいは、本当にただ何の他意もない、純粋に偶然の産物なのかも知れない。

 何しろ、お互い手をつないで水に浮かんでいるんだ、どちらが近づいたかなんてどうとでも言い繕える。



 とても自然なタイミングで、何だか不自然なことをしたような。

 いや、逆かも。とても不自然なタイミングだけど、何だか自然なことをしたような。



「――青木海斗だって、いい名前だよ」

 ヨーコは仕返しするように言った。「そんな素敵な名前で海が泳げないだなんて、どう考えても損だよ」

「……いや、泳いだじゃん?」

「ボディボードでね?」

「うん、ボ、ボディボードで……つか、このやり取りもう止めない?」

 くすくすと笑って、柔らかくヨーコは言った。

「帰っちゃうんだね。また会う日までさよならかぁ」

 日差しの降り注ぐ空を仰ぐ。「来年はどうしているんだろうね、あたしも海斗も」

「いよいよ受験だもんなぁ。……まぁでも、お互い納得だけはできるようにしよう」

「そうだね」



――僕の自惚れじゃなければ、その瞬間、僕らはお互いのことをわかり合えた気がした。

 誤解もなく、見栄もなく。

 海の広さと深みが怖くて、差し迫った将来のことも向き合うことに怯えていた僕。

 海を自在に泳げるけれど、その先に何があるのかを掴めていなかったヨーコ。

 僕とヨーコでは置かれたラインが少しばかり違っていたけれど、悩んでいたことは同じだった。



 僕もヨーコも、“確信”が欲しかったんだ。

 そして、僕はヨーコにその“確信”を与えてもらえた。

 ヨーコの方も、僕から何らかの“確信”を得たようだ。

 お互いに欲しかったものを、偶然かも知れないけれど、僕らはお互いに与え合うことができた。

 それが、『わかり合えた』と感じたことの説明になるのだと思う。



 ヨーコが僕のことをどう思っているかはわからない。

 でも、僕はこれからヨーコがどこの街に行って、どのように生きていたとしても、この果てしなく広い『海』のどこかにヨーコという人が存在するということを、信じることができると思う。

 僕にとっては、それ自体もひとつの“確信”だ。

 途方もない『海』、想像もつかない『海』。その中に埋もれて、潰されて、忘れてしまうことのない存在として。

 僕には、ヨーコと見たあの水面の輝きが心に焼きついている。


 風が出て来ない内に窪みから出た僕らは、晴れている内に元いたあの浜まで戻った。この海での、今年最後のひと泳ぎとして。



 ◆

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