(4)君もいけるよ。だからほら。

 結果的に、その子は流されることも溺れることもなく、こちらまで泳いで来た。僕のいる突堤の手前で少し曲がって、砂浜の方に向かっていく。

 波打ち際の浅瀬まで来たところで、その子はようやくクロールを止めて立ち上がった。防水性らしい腕時計をちらと確認してから、波の来ないところまで上がったその子は倒れ込むように大の字になって寝転がり、息を整え始めた。


 僕はその芸当に素直な感動を覚えた。

 すごい、という、これまた小学生みたいな――だけど今度はとても強靭な感想。

 あんな遠いところからちゃんと泳げるなんて、絶対僕にはできない。


「すごいっすね」

 柄にもなくその子に声を掛けたのは、そういう純粋な心境だったから。

 その子は全身で息をしながらもゴーグルを外して、「――君、ずっとこっち見てたよね?」と笑った。

「ばれてました?」

「そりゃわかるよー」

 彼女は上体を起こした。「君以外に誰もいないし、あんなとこでぼけっとしてる人も普段いないから」

 間近で見ると、大きな瞳がきらきらと輝いていて、笑顔がよく似合う綺麗な子だと思った。

「水泳部なんですか?」

 スク水と違うことだけはわかる競技用の本格的な水着と、今彼女が成し遂げた行為を見て、僕は単純すぎるかもしれない疑問を尋ねた。

「うーん、水泳とはちょっと違うな。トライアスロンやってんのよ」

「はあ、トライアスロン……珍しいっすね」

 泳いで走って自転車を漕いで、という苦行のような競技なのは知っている。

 うちの学校にそんな部活はないし、やっている人を見たこともなかったので、色違いのポケモンを見つけたような気持ちだった。

「確かに珍しいかもね。ここらでもあたしぐらいしかやってないから」

「部活じゃないんですか?」

「個人、個人」

「はー、よくやりますねぇ」

 純粋に、何が楽しいんですか? と聞きたい衝動に駆られたが、さすがに煽りのようで失礼だと思いとどまった。


「僕はあんまり泳ぐの得意じゃないんですよね。だからあんな遠くからここまで泳いで来れるってすごくびっくりして。すげぇこの人、って感動してたんですよ」

「そう? 大げさじゃない?」

 何だこの人、と言わんばかりの笑みでその子は微笑んだ。「見た目ほど距離もないし、別に誰だってすぐできるようになるよ」

「僕はできる気がしないです」

「行ける、行ける。泳ぐ向きさえしっかりしてれば、流されることもないし」

 その子は軽やかにそう言って、立ち上がって波打ち際に歩いて行った。

 まさか今からまた泳ぐのかな、と少し期待したが、背中にべったりついた砂を落とすためのちょっとした行水をして、またこちらに戻って来た。今日はもう店じまいですよ、と言わんばかりに。


「いつもこんなことしてるんですか?」

「まぁ、そろそろ大会が近いから、1日何セットかはね」

「そんなに頑張るなんて、プロを目指してるとか?」

「いや、全然。でも、大会前はそれぐらいしないと。せっかくの夏休みだし」

 その子は浜辺の隅に置いていたかばんからサンダルとバスタオルを取り出して、びしょびしょの髪と身体を拭き始めた。


 衝動的に伝えたかったことは伝えられた。これ以上付きまとうのも変だと思い、僕はここらで引き上げることにした。

「それじゃあ、大会頑張ってくださいね。陰ながら応援してます」

「――君、旅行にでも来たの?」

 長い黒髪をタオルでわしゃわしゃしながら、その子は僕に訊いた。


 その時になって初めて僕がいることに気づいたかのような、少し親しみを含んだ声に聞こえた。

 背を向けかけたのを一時中断して、僕はもう一度振り返った。

「旅行というか、帰省です。じいちゃんちがそこなんですよ」

「そうなんだ。じゃあ、もうすぐ帰っちゃうんだね。本当の家はどこ?」

「今住んでるのは大阪の方です。たぶんこっちにいるのは1週間ぐらいっすね」

「大阪かぁ、いいなぁ……。この辺はほんと何もないから退屈でしょ」

 田舎の人が言う、お決まりの文句。

「そうですか? 僕は大阪よりもこっちにいる方が、何となく落ち着きますよ」

「都会の人だからそういう風に感じるのかもね」

 そういうものなのかな、と思った。海があって山もある、のどかなところなのに。


「ねぇ、あたしはよくここで泳いでいるから、また会ったら話そ」

 そういって、その子はにかっと笑った。

 ただの社交辞令なのかどうか僕にはわからないけれど、嬉しい誘いだった。もう少し話してみたいと思ったから。

「名前、なんて言うんです? 高校生ですよね?」と訊いてみた。

「オオタヨーコ。今は高2」とその子は答えて、「君は?」と付け加えた。

 高校2年生。じゃあ同い年だ。

「青木海斗です。僕も高2なんですよ」と僕は答えた。

「なんだ、タメか。じゃあその変な敬語止めなよ」

 からかうようにオオタさんは笑った。「青木くんだっけ、あたしのことは“ヨーコ”で呼び捨てでいいから」

「じゃあ、僕のことも呼び捨てでいいよ」

「わかった。じゃあね、海斗」

 今度こそ僕は手を振って、あの急階段を上り始めた。


 母さんや誰かに「こんなことがあった」なんて言うことはないだろう。今のはそういう時間だったように、僕には思えた。



 ◆

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