第48話 立春 後編

 店にはすでに圭と果帆がいて、窓際のテーブルで向かい合って座っていた。店を飾る観葉植物に外の光が反射していた。

「ごめん、遅くなって」

 春菜に軽く挨拶したあと、圭の隣に座った。

「三時間くらい待ったかな」圭が時計を覗きながら言った。

「すっかり冷めちゃったよ」果帆は空になったカップを覗き込んで、とぼけた声を出した。

「勝手に集まっておいてよく言うよ」


 カフェを出てスマートフォンを覗いた結衣は、そこで初めて二人がこの場所にいることを知った。昼過ぎからこれ見よがしにパスタの写真をアップロードし、早く来いと囃し立てる恋人と友人の姿に半ば呆れながら、これでも早足で来たんだから、と抗弁を返す。

「結衣ちゃん、コーヒーでいい? おふたりさんにはおかわりを持っていくね」

 カウンターから春菜が声をかけてきた。結衣は通る声で返事をした。春菜はすぐにお湯を沸かし、コーヒーの準備を始めた。不意に立ち上がるコーヒーの香りが微かに漂い出したカフェの空気は、結衣の不安も恐怖も全て包み込んでしまうような優しさに満ちていた。


「今日だっけ、会議って」

「うん。また佳奈子さんが何か考えていそうで」

「ただじゃ起きない感じだもんね、佳奈子さんって」

 銘々が抱く佳奈子のイメージはおおよそ共通している。油断がなく、隙がなく、そして取りつく島もない。

「誠さんにお株を奪われちゃいけない、そんな風に考える人なのかな」

「そうじゃないだろうけど。これを機に、誠さんの店とコラボとか、そういうことを考えてる、絶対」


 考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなっていた。学園祭ほどの規模ではないにしても、逆に今回は数日では終わらないだろう。メニューの統合だけでなく、二つの店の間の垣根を取り外すような何かを考えているに違いなかった。

「そういうことか」

 圭がうんうんと頷く。

「楽しそうじゃん」果帆はその天真爛漫さを大いに発揮し、身を乗り出した。

「結衣はさ、また学園祭の時みたいになるのが怖いんだろ」

 圭から言われると、それは途端に現実味を帯びてくる。その通りだと結衣は内心大きく頷いた。自分自身、まだその時の傷が完全に癒えたわけではない。あの時と同じように、圭とまた距離が開くようなことになったらどうしよう、と結衣はそればかり考えていた。


「それなら大丈夫」

 後ろから唐突に声をかけられ、結衣はとっさに振り向いた。春菜がトレーにカップを携え、コーヒーを運んできた。したり顔で微笑む春菜は、静かにカップをテーブルに置き、空の容器を下げていった。

「大丈夫って、大変だったんですよ」結衣はちらりと圭の顔を見て、声を潜めた。

「あの時とは違うから安心して」

 春菜はそれだけ言うと、またカウンターに戻ってしまった。何が違うというのだろう。状況はまるであの時と同じだ。結衣の知らないところで何かが始まり、流れに抗うことができず、ただ翻弄されるだけの自分。そこで得られたものなどほとんどなく、失う恐怖に怯える時間が待っているだけのような気がしていた。


 結衣は小さく息を吐いて、手元のカップを引き寄せた。なみなみと注がれたコーヒーがキラキラと輝いて見えた。そこにうっすらと映る自分の顔が見えた。戸惑いを隠しきれない表情で自分を見返すもうひとりの自分。そこで結衣は、その後ろに誰かがいることに気づいた。圭の顔が浮かび、隣に果帆の笑顔が並んだ。さらに後方には、春菜がいて、真弓がいて、修平がいて、誠がいて、そして佳奈子がいた。

 佳奈子を中心にして、自分たちの姿を幻視した結衣は、確かに違うかもしれない、と思い直した。もちろん、あの時も、結衣の周りにはたくさんの人がいた。それでも、結衣はその時の不安をちゃんと話すことができなかった。話さなければわからないのに、身勝手に誰かを責めて、状況を人の所為にしていた。でもそれは違う。そう気づかせてくれたのが、ほかならぬ周りの人たちだった。誰かを頼り、誰かを信じ、そして自分の気持ちを伝えること。たったそれだけのことで、みんな自分の味方になってくれるというのに、結衣はいつもそれを忘れてしまう。


 カップを取り、コーヒーを飲んだ。酸味の効いた春菜のコーヒーを飲んでいると、無性に佳奈子のコーヒーも飲みたくなってくる。《カフェ・ラ・ルーチェ》が恋しくなる。もどかしさと気恥ずかしさが同時に結衣を急き立てる。圭の掌が結衣の頭をぽんぽんと叩いた。「みんなでやればいいさ」

「そうだね」

 果帆も頷いた。曖昧な「みんな」という言葉が、これほど心強いとは思わなかった。

 春菜の店を出て、《カフェ・ラ・ルーチェ》へ戻った。連れ立って店まで来た圭と果帆を先にドアへ向かわせ、結衣は立ち止まって深呼吸をした。

 ドアに嵌め込まれた曇りガラスに自分の上半身が映る。自分があるべき場所に立ったことを確認し、今日の仕事を頭に思い描く。夜になり、誠が店に来て、会議が始まる。一通りメニューの説明をして、試食をした頃に、佳奈子がコラボの構想をとうとうと話し出す。結衣はその計画に驚きながら、さっき誠から託された紙袋を取り出す。薄切りのバゲットが入ったそれが何を意味するのか、結衣にもまだわからない。けれど、きっと誠は佳奈子の意表をつく何かを企んでいるのだ。企画にもきっと勢いが増す。どうせやるなら、みんなでやればいい。圭の言ったように、誠も修平もみんな巻き込んで、一気呵成に攻め込むのも悪くないだろう。


 毎日、こうしてドアの前でイメージトレーニングをして、今までそれ通りになった試しはなかった。それでも、結衣の中に芽生えたその決意は、寒風にも負けない温かさを伴って結衣を内側から鼓舞してくれる。

 結衣はドアノブに手をかけて、短く息を吸った。そうだ。今日はきっと違う。


 今日は立春。春の始まる日なのだ。

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二十四節気 長谷川ルイ @ruihasegawa

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