第47話 立春 前編

 後期の試験が全て終わり、今日から春休みになった。とはいえ、大学というところはその始まりも終わりもはっきりとはしていない。特に終わりは、履修している科目によってだいぶ変わってくる。授業中に試験をするような授業は試験期間にテストがないため、一週間早く終わるのだ。昨日が最後だったのは結衣だけで、圭と果帆は水曜日から一足先に春休みに突入していた。

 ようやく勉強から解放され、春休み最初の週末を迎えた。本来ならばはしゃぐ心を存分に開放し、遊びに行くなり旅行に行くなりするものなのだろうが、結衣は朝から不安だった。佳奈子の定めた『新規メニュー決定会合』を今夜に控え、ランチ時を過ぎたカフェの穏やかな空気さえ嵐の前の静けさのように感じられ、結衣は気が気ではなかった。


 誠の力を借りて完成させたスイーツは、どれも美味しかった。昨日の夜、真弓を引き連れて《café the Isle of Wight》に向かった結衣は、誠からティラティスの作り方を教わり、試食もした。真弓はとにかく嬉しそうだった。真弓にとっては、自分のアイディアが形になったのは七夕以来で、その喜びはひとしおだろう。

「これがメニューになったらすごいですよね」

 はしゃぐ真弓の頭をポンポンと撫でながら、結衣の不安はどんどんと膨らんでいった。

 客が帰り、空になったカップをトレーに乗せていても、不意に訪れる焦燥が頭をもたげ、結衣はため息をついた。食器を腕に抱えてカウンターに近づく結衣は、からんと音を立てて開いた扉の影から覗く顔に、引きつった笑みを浮かべた。


「誠さん。どうしたんですか?」

 誠は慌てる結衣を尻目に、カウンターの奥にいた佳奈子に声をかけた。

「今日が会議だと聞いて、僕も見学させてもらおうかなって思って」

 誠の思いもよらぬ発言に、結衣は絶句した。固まった結衣を挟んで、佳奈子がひょっこりと顔を出し、誠に笑顔を向けた。

「あら。いいけど、いくら何でも早すぎよ。営業時間終わってからだし」

「誠さん誠さん」

 残念そうに唇を突き出す誠の裾を引っ張り、結衣は誠をテーブルに座らせた。向かいに座った結衣は、佳奈子の様子を気にしながら、「何で来ちゃったんですか?」と小声で詰問した。

「だって、せっかくだし。それに、佳奈子さんも俺が手伝ったこと知ってるんでしょ?」


「それはそうですけど、佳奈子さんがまた……」

「何か企んでるんじゃないかって?」

 言い淀む結衣に、誠が言葉を重ねた。

 結衣の中に芽生えた不安の種はまさにそれだった。これを機に、佳奈子はまた何かを始めようとしている。文化祭の時のように、このカフェでまた何かをしようとしている。そうでなければ、今回誠に手伝いを乞うことを許すとも思えなかった。

「そんなに考え込まなくても、おかしなことにはならないって」

 でも、と言葉を続けようとする結衣に笑いかけ、誠は立ち上がった。佳奈子の詰めるカウンター越しに「それじゃあ、夜にまた来ますよ」と声をかけると、うなだれる結衣にそっと近づいた。結衣の耳元で微かに何かが擦れる音がした。顔をあげた結衣の正面、テーブルの上に紙袋が置かれた。


「それ、預かっておいて。今日の秘密兵器」

 誠はそう言って、颯爽とカフェを出ていった。暗澹とした気持ちのまま、結衣は紙袋をちらりと覗いた。秘密兵器か。結衣はその中身を見て、確かにそうだと内心に呟いた。佳奈子も本気なら、誠も本気なのだ。結衣は、すでに動き始めた時間を元に戻す方法を考えてみたが、そんなものはあるはずもなく、再び大きなため息を吐き出すしかなかった。

「誠くんも、最近ちょっと変わったみたいね」

 結衣にとって嵐のようだった誠の訪問は、佳奈子も意外だったようだ。そうやって嬉しそうに微笑む佳奈子を見ていると、やはり、自分には到底敵わないと思う。伊達にこの場所で店を維持しているわけではない。隣のビルに入っていたラーメン屋が、いつのまにかおしゃれなバーに変わったのは今月に入ってからだ。

「あいつは、昔からああでしたよ。店を始めて少し大人しくしてただけで」


 カウンターでは、佳奈子の独り言に真面目に返答する修平の姿があった。修平は今日の会議にはオブザーバーとして参加することになっていた。佳奈子が結衣と真弓を指名してからというもの、修平は気ままに仕事をして、たまに結衣や真弓が会議のことを話していると、横からちょっかいを出してきた。

「昔からって、知り合いなんですか?」

 結衣はカウンターの向こう側に声を投げた。修平と誠が知り合いだったとは知らなかった。雰囲気が似ていると感じたことはあっても、これまで二人の接点など考えたこともない。

「高校の同級生だよ。その時はまさか、二人ともカフェで働くようになるとは思わなかった」

「先越されちゃったけどね」

 佳奈子が修平に意地悪な視線を送った。

「まあ、それもあって、最近はあんまり話してないですけど」


 図星を突かれた修平が口ごもる様子がおかしかった。修平にもそういう夢があるのだ。それはそれで興味深いと結衣は思った。

「結衣ちゃん、そろそろ休憩しておいて」

 佳奈子に促され、結衣は誠から預かった紙袋を持って一旦控え室に入り、バッグに袋をしまってからコートを羽織った。

 外は寒かった。朝来た時よりは若干気温も上がっているはずだが、真冬の東京はそれでも寒い。路地を抜け、春菜の《ハーベスト・ハート》に着く頃にはすっかり指先が冷たくなってしまった。

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