第46話 大寒 後編
「お疲れ様です」
ドアを開けるとそこは別世界だった。極寒の冬からうららかな春へと季節をまたぐように、《café the Isle of Wight》に入った結衣と圭は、揃ってカウンターにいた誠に声をかけた。
「いらっしゃい」
誠はパリッとした白いシャツにダークグレーのエプロンをつけ、普段と変わらない、気安い笑顔を結衣たちに向けた。
「今日はすいません。営業中なのに結衣が無茶を言って」圭から自分の名前が出て結衣は恥ずかしくなった。まるでいたずらをした子供を諭すような言い方をする圭にじっとりとした視線を向ける。
「いいや、そんなことないさ。いい勉強になった」誠はそんな様子の二人を見ながら笑顔を崩さない。これが大人の余裕というやつだろうか。「早速だけど、試食してみる?」
「もうできてるんですか?」
「二週間もあれば。っていうのは嘘だけど、結衣ちゃんともうひとりの娘の意見も参考にさせてもらって、もともと考えていたやつと合わせて……。いい機会だったから形にしてみたっていうのが本当かな」
佳奈子から『新規メニュー決定会合』開催の宣言を受け、真弓が涙顔を浮かべたその数日後、佳奈子の了解を得てから圭を通じて誠に連絡をとっていた。それからちょうど二週間、今日は中間報告的な場だと思っていたのに、その短期間にスイーツメニューを完成させたという。コートとマフラーを手近な椅子にかけ、誠の手招きでカウンターに入った結衣と圭の目に、四枚の皿が飛び込んできた。
「左から、クリームブリュレ、シフォンケーキ、ティラティス、最後にワッフルパンケーキ。シフォンケーキにはマンゴーソース、ワッフルパンケーキには 二種類のベリーソースを合わせてる」
色合いも質感も違うスイーツが四皿並ぶというのは、壮観という以外なかった。
「これ全部、誠さんが?」
「ワッフルパンケーキは結衣ちゃんの意見を取り入れてね。ソースの組み合わせなんかも結衣ちゃんと話し合って決めたんだ」
「すごいじゃん」
「なんとなく考えただだけどね」パンケーキの生地をワッフルみたいにしたらふわふわで美味しいんじゃないか、そんな思いつきを誠に伝えただけだ。「シフォンケーキのマンゴーソースは真弓ちゃんのアイディアだし」
自分で作ったものでないにしても、こうしてその思いつきが形になるというのは感慨深い。頭の中にしかなかったものが目の前に現れる。これだけは、大学で勉強するだけでは得られない感覚だった。
「誠さん。これ」
不意に圭が誠の名前を呼んだ。誠の視線は右から二番目の皿を指しているようで、確かに、それは結衣も気になっていたものだった。
「ティラティスって、これティラミスじゃないんですか?」
白い皿に盛り付けられたのは、容器から大ぶりのさじで取り出したと思われる、確かにティラミスにしか見えない代物だった。ココアパウダーのかかった弾力のあるクリームと甘い蜜を吸ったスポンジがいかにも美味しそうだった。
「ティラミスのクリームってマスカルポーネ・チーズが入ってるんだけど、これはその代わりに豆乳を使ってるんだ。最近はこっちも人気があるんだよ」
豆乳を入れるとどんな味になるのか、結衣は思わず想像してしまう。
「美味しそう」結衣は思わず呟いた。
「じゃあ、これからいってみようか」
誠は結衣と圭にスプーンを渡した。結衣が恐る恐るティラティスをすくい上げる。まっすぐ口に入れると、すぐにティラミス同様、鼻に抜けるような匂いと甘いスポンジの食感が口腔いっぱいに広がった。
「あんまり豆乳って感じがしませんね。チーズと豆乳って似てるからかな」
圭の感想に結衣も同意見だった。チーズの味わいと豆乳のコクは通じるところがあるのかもしれない。チーズらしいクセがない分、口当たりは滑らかで心地よかった。
「佳奈子さん、きっと驚きます」
「気合いれすぎたかな」誠が照れ笑いを浮かべた。「これは作るのちょっと難しいから、会議の前の日にここで一緒に作ってみようか」
「そうですね。もしできたら、それでお願いします」
誠にここまでしてもらって、自分だけ何もしないわけにはいかない。考えただけではやはりだめなのだ。実際に手を動かし、自分のものにして初めてわかることもある。それに実物が目の前にあったほうが説得力も増すというものだ。
「他の三つも食べてみて」
誠はそう言ってナイフとフォークの入ったトレーを二人に差し出した。結衣は自分の考えたワッフルパンケーキの皿に改めて視線を向けた。ナイフを突き立て、ソースを絡めて口に運んだ。弾力のあるパンケーキに作られた凹凸がソースとよく絡み、一様でない厚みが歯ざわりにアクセントを与えていた。
「これも美味しいじゃん」
圭もワッフルパンケーキを口にして、結衣に笑顔を向けた。これならきっと大丈夫。結衣は内心に微笑んだ。真弓にもいい報告ができそうだ。
結衣はふと気配を感じ、窓の外を見た。はらりと雪が舞っていた。厳冬を象徴するような氷の粒は、しかしこの場所までは入ってこない。雪が降るほどの寒さであっても、この場所はかくも暖かく、穏やかな空気に包まれていた。
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