第45話 大寒 前編

 朝のニュースで、寒空の下気象情報を伝えるキャスターが『この冬最強の寒波が列島を覆っています』と震えながら言っているのを観て、今日くらいは大学に行かなくても情状酌量の余地はあるのではないか、とそんなことを考えてしまった。

 窓から見える低く垂れ込めた鈍色の雲は、生まれ育った信州の地元で嫌になるほど目にした雪雲と瓜ふたつで、いつ降り出すのか、結衣は文字通り寒々とした思いだった。


 それでも結局は部屋を出て、こうして大学に来ているのだから世話はない。本心の赴くままに生きていては規律も何もあったものではないとも思う。自己と他者との間に横たわる関係性に惑わされるのが現代社会なのかもしれない、とも。

 三年生の後期もいよいよ佳境を迎えていた。午前中の授業ではことごとくレポート課題のテーマや筆記試験の出題範囲が発表され、そのどの教室でも、己の不勉強を素直に認めたのか、はたまた少しでも講師の心象をよくしようという戦略か、質問をする生徒が後を絶たず、教室は新学期もかくやという賑やかさだった。

「来週テストか、やれやれだな」隣に座る圭は苦々しい表情をしていた。これまでであれば、テスト前になるとサークルやゼミの先輩から同じ授業の過去問が手に入るもので、それをやれば単位は簡単に取得できたのだが、最近のゴタゴタ、どちらかといえば研究不正に端を発した教育改革の一環として、テストの形式は毎年変えるように通達があったようで、この授業の講師も「去年とは問題を変えます」と宣言したばかりだった。


「この授業ちょっと不安」

 後期の科目の中で、この『二十一世紀の社会学』という授業だけはどうも内容が頭に入ってこなかった。資本主義社会の勃興と繁栄を振り返りながら、最近の保護主義的、自国第一主義的な考え方の広がりの中で、格差ばかりが拡大する現代社会をどう生き、どう成長させていくのか、そういうことを議論していく授業だったのだが、まさにその〝今〟を生きている自分たちにとって、それはあまりにも遠く広すぎる世界のような気がしていた。

 結衣たちは、結局自分たちのコミュニティーで起きる出来事の対処で精一杯なのだ。圭との不和、佳奈子の闘病、そして二週間後の会議。議題はそれこそ山のようにあって、ヨーロッパに押し寄せる難民のことやアメリカ社会を覆う排他的な雰囲気は、その山に視界を奪われて窺い知ることはできなかった。

 授業は授業と割り切るくらいでないといけないのだろう。


「あとでノート見る? 一応、俺はこういうの得意だから」

「自慢ですか」

 こうして圭と自然に会話ができるようになったことで多少なりとも山は低くなったが、今は、あの時の真弓の困った顔をどうにかしたい、という思いが目の前に立ちはだかっていた。

「そろそろ行こう。待たせたら悪いし」

 圭は結衣の嫌味を馬耳東風とばかりに脇に置き、バッグに教科書やノートをしまうと静かに立ち上がった。見上げる結衣も頷き、身支度を整える。やることはたくさんある。今日のことを佳奈子に相談したら、「気合入ってるのね、期待してるわ」とだけ言われた。学業を盾に会議自体をうやむやにするという結衣の思惑は外れた。身近な問題を整理する時間が、今は何より大切だった。


 授業を終えて講義棟を出た結衣を真冬の冷気が襲う。吐き出す息がたちまち白く濁り、強い風に流されていく。体感気温は氷点下かもしれない。さすがは今年最強の寒波だ。

「それにしても、佳奈子さんも無茶な人だな」

 圭がぼそりと言う。揶揄するような口ぶりだったがその顔は笑っていた。状況の外にいる圭にとっては、それに巻き込まれた結衣や真弓の心情を慮るよりも外野で見る気安さの方が優っているのだろう。

「今に始まったことじゃないけどさ」

「結衣も、真弓ちゃんの分まで考えるなんて大概無茶だよ」圭は笑い、呆れたと語外ににじませた。圭に改めて指摘されると弱い。そのくらいは自分でもよくわかっていた。


「勢いで言っちゃったんだもん」

「この貸しは大きいな」

「圭くんは別に何もしないでしょ」

「お目付役だよ」結衣の言葉を受け流し、圭は涼しい顔だった。「それに、一般の人の意見も大切だよ。作る人と食べる人は別なんだから」

「そうだけどさ」結衣は反駁を半ば引っ込めて、マフラーに首を埋めた。結衣は見透かされた思いがした。今日の段取りをつけたのは圭だったが、圭に相談したのも、こうなることを期待していたからだ。

 小さなことかもしれないが、今の結衣にとっては、誰かに頼るということが以前よりも躊躇なくできるようになっていた。ひとりで考えるのは難しくても、みんなでやればきっとうまくいく。もちろん自分の意見を持って取り組むし丸投げなんてしないけれど、誰かと協力することでより良いものができるのならば、自分の力に固執する必要なんてないのだ。

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