第44話 小寒 後編

「美味しい。いつものに比べると少し軽いけど、ちゃんと奥行きもあるし、酸味もはっきりしてる。よく見つけたじゃない」

「私の舌に狂いはないでしょ」

 佳奈子が自信満々に答えた。結衣もほっと胸を撫で下ろす。

「いいわね。うちも負けていられないわ」

「うかうかしてると大変よ。それは私もだけど。あとは、新しいデザートを考えなきゃいけないのよ」ふふふ、と佳奈子が笑う。言葉を切って笑顔になった佳奈子の視線が素早くこちらに回ってきて、結衣は嫌な予感がした。「この子たちが」


 この子たち、佳奈子の指すそこに自分は入っていないと考えるほど結衣も馬鹿ではなかった。それは当然真弓もであって、二人揃って「え……」と口を開くと、そのまま塞がらなくなった。

「言ってなかったけど、来月の最初の土曜日に、今年初めての『新規メニュー決定会合』を開くから、その時までに、二人とも最低二つはデザートを考えてきてね」


 佳奈子はまるで「明日は晴れるといいわね」くらいの軽いセリフを話すように、なめらかに宣言した。聞くたびにむずむずと耳朶を打つその会議の名称を聞いたのも久しぶりだったが、それは結衣と真弓にとってはまさに寝耳に水だった。

「あと一ヶ月しかないじゃないですか!」近くの壁にかかったカレンダーを見ながら真弓が悲鳴にも似た声を上げた。

「二つって、そんなの……」


 いくらカフェで働いているからといって、そう新しいアイディアが浮かぶものではない。ましてや自分たちはただのアルバイトだ。客から注文を取ったりコーヒーを運んだり会計をするのが主な仕事であって、何かを創造するのは本来の役割ではないはずなのだ。会議の場も、自分たちはどちらかといえば佳奈子や修平の考えたメニューに意見を言う方が多く、メニューのアイディアにしても「こんなのが食べたいな」くらいのものだった。

 そんなに都合よく食べたいスイーツが転がっているはずもない。それに、そうして考えたものの大半はすでに佳奈子によって却下されているのだ。


「大丈夫。完全に新しいものでなくても、今流行ってるものでもいいと思うし」

 佳奈子は簡単に言う。ここまできたら、もう佳奈子の考えを覆すのは難しい。カフェを再開したいと主張した時とは違う。積極的に何かをしたい、と言うのは勇気がいるが、消極的に何かをしたくない、と言うのは恥ずかしい。この時点で、すでに佳奈子の術中にはまっていたのかもしれない。自分の性格などお見通し、ということか——。結局、結衣も真弓も積極的に消極的なことは言えず、なし崩し的にデザート二品の創作が決まってしまった。


 その日の仕事は、申し訳ないと思うほど手がつかなかった。もちろん注文には応えたし会計は間違いなくこなしたが、心がここにない状態が続いた。それは真弓も同じようで、ふとした時に佳奈子とのやり取りを思い出したのかため息をつく真弓のことが気になっていた。

「変なことになっちゃったね」

 真弓が休憩に入ったタイミングで、結衣も従業員控え室に入った。真弓はスマートフォンに注がれた視線を上げた。結衣を見て、その目がみるみる涙ぐんでいく。


「結衣さん、二つなんて無理ですよ」

 真弓が結衣の胸元に飛び込んできた。座ったままだとさらにちんまりとした真弓の頭をぽんぽんと叩く。

「どうしようか」

 佳奈子を懐柔できなかった以上やるしかないのだが、気合と根性でどうにかなるものでもない。

「後期はテスト一発の授業が多くて、勉強しないとダメなんです」

 佳奈子が指定した日程はまさにテスト期間終盤で、自分も真弓も、勉強に集中していたい時期とデザートを考える時間がぴったりと重なってしまった。

「真弓ちゃん、単位ヤバいの?」

「そうじゃないですけど、どうせならフル単でいきたいじゃないですか。来年は三年だし、少しは楽になるだろうし」


 年間の単位取得には上限があって、文学部の場合、二年生と三年生は四十単位だ。前期に二十、後期に二十。そして卒業には百二十四単位が必要で、多少は取りこぼしてもいいが、できれば履修した科目の単位はフルに取っておきたい、そう考えるのは普通の学生なら当然だ。単位は落としたくない。可と不可の間には誰にも越えられない大きな渓谷があるのだ。

「だよね」

 真弓を励ます一方で、自分も考えなければいけない。単位については真弓と立場は変わらない。学業に支障をきたさず、それでデザートを創作する時間も作らなければいけない。結衣にできることは限られていた。考えたところで、結論は初めから出ていたようなものだ。


「とりあえず、デザートのことは私に任せて」

「でも、それじゃあ結衣さんが」真弓が目を潤ませて心配そうな声を出す。

「大丈夫。あてがあるから」

 せっかくデザートを考えるのだから、それはちゃんとやりたい。でも勉強もしたい。学生は存外忙しく、それがまた楽しくもある。外はいよいよ寒くなってきたが、結衣の胸は熱い炎が滾り、体を内側から温めていた。

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