さくらくるころ
うめ屋
*
港街はるまちでは、朝は海からやってくる。
星々のたゆたう青い夜が明け、水平線に金のひかりの波が走ると、街はもう、きらめく朝焼けの中にある。
港から下町、居留地、坂につらなる家々のいらか屋根を照らしだし、やがて冷たい北風が吹きおろす
わたしはその曙光がおとずれる前に
十月のあけがたは、すでにひいやりと底冷えがする。ふるえながら素足に
まずはしゃこしゃことお米をといで、
母や手伝いのばあやさんが子どものころは、こんなべんりなものはなかった。
それがいつしか、瓦斯台と流しのついた洋風の台所に変わっていった。ばあやさんなどは、腰をかがめなくてよいのがありがたい、とつねづね語る。
わたしはほうほうと沸くかまどを傍目に、さといもの煮ころがしを仕度した。
皮を洗って剥き、水気をとって、
ごはんが炊けたら、半分は塩じゃけとごまをさっくり混ぜて、残りは白ごはんのまま、おむすびにする。しゃけおむすびは桜いろ、白おむすびはしその葉を巻いて
くつくつと、さといもの甘辛いにおいがし始めた。ふっくら、とろみがついたら火を止めて、よく味をなじませる。空いた
菜箸でくるくるとかたちを整えていたところで、背中から歌うように覗きこまれた。
「お精が出るわね、はるこさん?」
「――ひゃっ、」
肩をすくめてふりむけば、母がうふふと笑っている。わたしは胸を撫でおろした。
「かあさん、……おはようございます」
「おはようございます。よいにおいね、このまま朝ごはんにできそうだわ」
「……でも、これ、」
「わかってるわよ。これぜんぶ、
母はくすくすと、少女のように両の手をうしろで組む。わたしは女学校の同級生にでもからかわれた気になって、頬を熱くしながら口ごもった。
すると母は人さし指をくちびるに当て、つくだ煮などを保管している調味棚から、
「おとうさんには内緒よ?」
父の晩酌にとってある、牛肉のしぐれ煮だ。おべんとうに入れておあげなさい、ということらしい。
わたしはおどろき、上目づかいに母を見た。
「……いいの?」
「いいの。だってこれから陽介さん、たいへんでしょう」
母はやさしく笑い、窓の外へまなざしをやった。
坂の上方にあるうちからは、この街の港までいちめんに見下ろせる。ほんのりと明けそめた波止場や沖を、早くも大小の船たちがゆきかっていた。
わたしはその景色を眺め、目を伏せぎみにほほえんだ。
「うん。……かあさん、ありがとう」
*
日がのぼった坂道を、わたしは息せききって駆けおりる。
こういうときは、女学校の制服が
すれちがう近所のおばさまや勤めのおにいさんが、おや
坂の途中にある桜並木が、透きとおったやまぶきや楓のいろに染まっている。べっこう、紅石、あるいは黄玉を削りだしてこしらえた細工のよう。その枝々のあいまから、青く澄んだ天がのぞく。
秋。やがて凍りつく冬の寒さがくる前に、船はわたり鳥のごとく南へ向かう。
ふ頭に、おおきな商船が泊まっている。その周りにつどい、離れ、にぎわしくさえずる船員や家族たち。そして白の学生帽と詰襟の、わかい学生さんの群れ。
海員学校の生徒たちだ。海をまなび、船をまなび、いずれ世界じゅうの大海を御する船長さんや技士になる。彼らは帽子をうばい合い、ふざけ、肩を組みながらわあわあと笑っていた。
その群れからひとり外れて、坂を仰ぐおとこのこがいる。細身の、けれども健やかなからだつき。温和なおとがいや肩のつくり。学生帽のひさしの下で、まばゆげに目を細めて。
わたしは走りつづけるままに、彼の名を呼んだ。
「陽介さん!」
彼が気づき、なごやかにくちびるを緩める。駆け寄るわたしに、陽介さんもまた駆け寄ってきてくれた。
「はるこさん、きてくれたの」
「だっ、……てあなたも――」
それを期待したから、坂を見ていたのではないの、と拗ねたことを言いたくなる。
だけれどもわたしは息が切れてしまって、べんとう箱たちを守るようにかがんで喘いだ。陽介さんが背をさすってくれる。向こうのほうで、学生さんたちが口笛を吹いて手足を鳴らした。
陽介さんはちらりとそれを見、みずからの背でわたしをかばうように隠してくれる。
「はるこさん、歩ける?」
「……はい」
息を吸って、ふたりで視線の気にならないところへ歩く。
波がきらめき、どこかで海猫の声がした。陽介さんが、わたしの通学かばんを持ってくれながらのんびりと言う。
「ごめんね、悪い連中ではないんだけれど」
「ええ、へいきです。押しかけたわたしが悪いのだもの」
「そんなことはないよ」
陽介さんは立ちどまり、わたしをふりかえって笑顔になった。
「つけてくれたの、それ」
その口ぶりがあまりにも甘やかなので、わたしはぱっと恥ずかしくなってうつむいてしまう。
わたしは左右にわけた髪をみつあみにして、毛先のところでやわらかな
陽介さんはうれしげにそれを眺め、指でつつく。肩に陽介さんの手が触れる。わたしはいっきに熱くなって、思わずべんとう袋と水筒を突きだした。
「これ! ――わたしはこれを、渡しにきたの」
「おれに?」
「あなた以外に、誰がいるの」
指がおののき、かわいげのないことを口走ってしまう。けれども陽介さんは目もとを下げて、ありがとう、と
「おべんとう?」
「そうです。……わたしがつくったので、不格好だと思うけれど」
「ううん、たいせつにいただくよ。あいつらに盗られないようにしないと、」
陽介さんは愉快そうだ。わたしはその横顔を見つめ、きゅう、と胸をうずかせた。
*
陽介さんをはじめて見たのも、この横顔だった。
一年ほど前、わたしの家よりさらに坂の上のお
前の土地で海員学校の生徒だった陽介さんは、はるまちでも同系列の学校へ編入することになった。
そうして、坂の下の学校に通いはじめたのだ。
その途中には、かならずわたしの家の前も通りすぎることになる。わたしは朝の庭の水やりをしていて、生け垣の隙間から、見慣れぬおとこのこを目にとめた。陽介さんはゆったりと自転車を漕ぎ、顎をあげて口笛を吹いていた。
そういうことが幾度かつづき、おとこのこもわたしに気づいた。最初は会釈、つぎに挨拶、やがて名を明かし合い、話をするようになった。
陽介さんは、
おかあさまは、陽介さんが幼いころに亡くなっている。それだから、おとうさまは陽介さんをいっしょに連れていらしたのだ。けれども陽介さんのおとうさまはお忙しく、陽介さんは、ほとんどお女中さんとふたりでお
そうした事情を知ったわたしは、うちの夕餉に陽介さんたちをお招きした。
父も母も、ふたりをこころよく迎えてくれた。陽介さんのおとうさまにもなりゆきをお知らせして、まこと恐れ入ります、とお礼のことばをいただいている。一度わが家にもお越しくださり、父には
陽介さんも、じきにいまの学校へ馴染んでいった。持ち前のおおらかさで、こちらの気風をすんなりと呑みこんでいったようだ。
そうして今年。
卒業まであと半年というところで、陽介さんは旅立ちをしようとしている。海員学校の実習として、六か月間の長い航海に出てゆくのだ。それが終われば、海技士――国にみとめられた船舶職員としての資格を得られるのだった。
*
ぼう、とこだまする汽笛が鳴る。
商船のおおきな横腹が、重たいくじらのようにふ頭から離れはじめた。船員や学生さんたち、それを見送る家族たち。秋風にこもごもの声が散ってゆく。船の影を追いかけるひともいる。
わたしはかばんを抱えこんで、奥歯を噛んだ。にらみつけるようにして、海上の陽介さんを見あげていた。
陽介さんは帽子を脱ぐ。潮風がその短髪をかすかにそよがせ、彼をまるごと、遠くさらってゆこうとする。陽介さんは帽子をふって、笑みながらくちびるを動かした。
『――さ、く、ら、の、こ、ろ、に』
さくらのころに、かえってきて、きみのてをとるよ。
陽介さんは、そう言ったように見えた。
わたしは目をしばたたかせ、それからきッと頷いて、おおきく片手をふってみせた。陽介さんも頷き、いつまでも帽子の手をふっている。
ぼう、ともういちど汽笛が鳴った。
だんだんに、船は岸を去ってゆく。海はすずしい秋のいろ。やがて銀の波が立つ、さびしい冬の前のいろ。
けれども、ここははるまち。
明るい春の名を冠された、とことわの港街だ。
ならばいずれ桜は咲くと、わたしはつよく目もとを拭った。
さくらくるころ うめ屋 @takeharu811
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