1(3)0日目 忘れられない夜



 恐ろしい夢を見た気がする。

 視界一面を紫色に覆われて、何とも言い難い形状のモンスターが追いかけてくるの。

 『ビーナス! ビーナス!』って鳴きながら。

 私も恐怖に泣きながら逃げて、やがて行き止まりに追い詰められてしまう。


 モンスターが迫る。

 私、恐怖にガクブル。


 すると突然モンスターの頭に亀裂が入った。

 ピキピキと卵の殻のように割れて、ぱかーんと。


 そして中から現れたのは、それはそれは大きなな────。



「イヤァアアアアアアッ!」


 そこで目が覚めた。

 がばりと起き上がった私の身体は汗でびっしょり。

 まったく、何て夢なの……。


「アナタ大丈夫? 大きな声あげて、怖い夢でも見たの?」

「うん……ちょっとね……。なんかすごい夢を見て」


 隣から気遣わしげな声が掛けられる。

 私は特に何も考えず返事をするけど、その数秒後違和感に気付いた。


「……あれ?」


 いつの間にか私はベッドの上にいた。

 しかもご丁寧に布団まで掛けて。

 帰ってきてからの記憶が曖昧だ。

 なんかとんでもない夢を見たことは覚えてるんだけど。


 帰ってきてからどれくらい経ったんだろう?


 ────ていうか私って一人暮らしだったよね!?

 何さっきの声。聞いたことあるようなないような、優しげなおねえさんボイスだったけどめちゃくちゃ近いところから聞こえなかった?


 額からダラダラと汗が流れ落ちる。

 嫌な予感と共に隣で何かが動く気配がする。

 よく見れば布団は明らかに私一人分ではない膨らみ方をしていた。


 錆び付いたロボットのようにギギギとぎこちない動作で横を見る。

 きらきらと美しいサファイアブルーの瞳と目が合った。


「ウフフッ、やっとお目覚めかしら?」


 妖艶な紫髪を目にした瞬間、記憶が一気に蘇った。

 変な本と出会って、変な本に追いかけられて、挙げ句変な現象が起きたかと思ったら変な天使がなす……って、嫌なモノ思い出しちゃった……!


「何でいるのー!?」


 私はベッドから飛び降りて壁に張り付いた。背中からぴったりと。

 そんな私の反応にその人オネエさんは唇を尖らせて『あら、つれないわね』と漏らしながら起き上がる。いつの間にかニットワンピースなんて着てるんだけど……はて? 見覚えがあるような。

 それに登場したときにはためいていた黒い翼はどこかにしまっているのか見えなかった。

 髪をかきあげながら脚を組む仕草が実に優雅です。


「気を失ったアナタをアタシがベッドに運んであげたのよぉ? 感謝しなさいよね、もう」

「あ、それはどうもすいません……」


 言われて素直に『かたじけない』と頭を下げる私。

 ────いや、私謝る必要ないよね?

 元はといえば私が気絶したのはこの人のせいだ。


(ああっ!? ていうか待って!)


 私はもっと大事なことに気付いてしまった。


「そそそそそそそそれ! 何で着てるのぉおお!?」

「ああ、コレ? ちょうど良さそうだったから着ちゃった、ウフフ」


 着ちゃった、じゃないし語尾にハートマークをつけるな!

 私はがっくりと項垂れて床に手をついた。


 彼女(と言っていいのか)が着ているのは、私が買ってから大事にしまっておいた物だった。

 好きなゲームがカジュアルブランドとコラボして、その時販売されたのが現在彼(と言っていいのか)の着ているニットワンピースなんだ。

 綺麗な臙脂えんじ色で、ゲームの舞台となる学校の制服をモチーフにしたデザインなんだよ!!


(買ったはいいけど、着こなせそうにないから大事にしまっておいたのに……!)


 私はダンッと拳を床に叩きつける。階下の人、床ドンごめんなさい。


「何でアンタが先に着こなしちゃってるのよぉおおお!!」

「フフフ、似合うでしょ?」


 ええ、すっごくお似合いですお客様。

 まるでアナタ様のためにあつらえたかのようです、むきーっ!


 本当に悔しいくらい似合ってるんだよね、これが。

 まずその御御足。脚線美。女の私から見てもとても羨ましいくらい綺麗だ。

 さすがにストッキングとかは履いてないみたいだけど、その肌は陶器のように白く滑らかそうに見える。

 何歳かは知らないけどこれが美魔女っていうのか。いや美オネっていうのか。あれ? 天使じゃなかったっけ?


 とにかくもう、本当に────。


「アンタ一体何なのよぉおお!!」


 全てはその一言に凝縮された。






 驚くことにあれから時間はそれほど経っていなかった。

 いつも帰宅するのが十九時くらいなんだけど、私が気を失っていたのは二時間ほどのことだったみたい。

 落ち着くために淹れたお茶を飲んで、私はほっと息をつく。まだ日付が変わってなくてよかった。

 相変わらず脚線美を魅せるかのように脚を組んで座るオネエさまも、私が持って来たお茶を飲んで『何これ渋いわね』と顔を顰めていた。ええ、緑茶ですから。


 オネエさま改めマルスと名乗ったその人は、なんと天使は天使でも堕天使らしい。

 言われてみれば、翼は黒いし、頭に輪っかもないし、何より仕草や見た目が天使っぽくないから納得した。


 さて、そんな堕天使さんが何故本の中から現れたのか?

 答えは簡単、封じられていたからだった。


 どうして? と問うと『これには深ぁぁぁぁいワケがあるのよぉ~』とオネエさま──いえ、マルスは語り始めた。


「アタシね、人間が大好きなのよぉ。こっそり下界に行って人間観察しちゃうほどにね、ウフッ」


 下界というのは私たち人間たちが住む地上のことで、許可なく下界に行ってはだめなんだそうな。

 干渉し過ぎて下界の秩序を乱さないようにするためだとかなんとかで、下界に行く許可を与えられるのは上級天使だけのところをまだ中級だったマルスは上から眺めるだけでは我慢できなかったらしい。


「この世界の生き物で、人間が一番欲に忠実じゃない? 眠たくなったら寝て、お腹が空いたら食べて、人恋しくなったら人と触れ合って。想像力も逞しくて物事の発想力も素晴らしいし、好きなものにとことん情熱を注ぐ。そんな人間が可愛くてぇ」


 それでついには毎日のように下界へ下りるようになっていた、と。

 そこで彼は運命の出会いをしたのだと言う。

 もしかして、天使と人間の禁断ラブ的な……!? と漫画的展開についつい期待に胸を膨らませる。


「そ、それで……?」


 ついついマルスの語りに夢中になっていた私は、半ば身を乗り出すようにして先を促した。

 ところが告げられたものはとても予想外のものだった。


「ストリーム★ハリケーンズ、って知ってるかしら?」

「は? ストハリ? ……知ってるけど」


 それはこの国に住む者なら誰でも知っているであろう、日本一有名なアイドルグループの名前だった。

 デビューしてまだ五年だけど、CDを出せば毎回ランキング一位だし、どこの放送局にも一本は必ずメインレギュラーの番組を持ってる。

 それに各メンバーもそれぞれドラマや映画そしてCMに引っ張りだこなくらい、とても人気のあるアイドルだ。


 そのアイドルたちが一体何だと言うのだろう?

 するとマルスがほぅ……と息を吐いた。

 なんか、桃色っぽいやつ。ちょっとほっぺたが紅いのは気のせいかな。


「アタシ、追っかけしてたのよお」

「は? 追っかけ?」

「リーダーがすっごく好みでねぇ。だからアタシ、ファンに混じってこっそりライブにも見に行ってたワケ。ほら、天使アタシの力を持ってすれば、忍び込むのもちょちょいのちょいじゃない?」

「……いや、知らないけど」


 ちょちょいのちょいと言われてもね……。まあ天使(元)だから何かしら人にはない力を持ってるってことなんだろうけど。

 しかし、段々怪しくなってきた話に早くも聞かなければよかったと思う私がいる。もう帰っていいかな……あ、ここ自分ちだった。

 そんな自分ツッコミを脳内で繰り返していたとき、私はふとあることを思い出した。


「……あれ? でもそういえばストハリのリーダーってさ、最近スキャンダルなかったっけ?」


 私の言葉に、マルスはピタリと動きを止めた。

 うちの職場にもストハリ大好きな子がいて、毎日のように話題にしてたからよく覚えてる。しかもちょうど先月のことだったし。


「確か、以前ドラマで共演した女優さんと電撃──」

「──そう! そうなのよぉぉお! リーダー、結婚しちゃったのよおおおおお!」


 しかも、できちゃったってやつ。

 おめでたい話だけどマルスは相当ショックだったのかオイオイと泣き始めてしまった。


「うちそんな壁厚くないから!! お、落ち着いて!?」


 泣いちゃう気持ちは分かるけど、私は大いに焦った。

 ただでさえマルスが現れてから騒ぎっぱなしなのに、これ以上は流石に近所迷惑になってしまう。

 号泣するマルスに慌ててティッシュを差し出せば、彼はそれを三枚くらい引き抜いて鼻元に当てる。


「アタシ、もぉぉお悲しくて悲しくてぇええ……! ズズーッ!」

「ああもう、ほら泣かないで! ティッシュ何枚も使っていいから!!」

「ありがどぉおお……ズゥーッ! リーダーのファンなら応援しなきゃ、お祝いしてあげなきゃいけないのにぃい、アタシ、アタシ……ッ、ズビーッ!」


 鼻をかむのか、喋るのか、泣くのか。マルスは忙しそうにしている。

 頼むからどれかひとつにして欲しい。私はとにかくマルスを宥めようとした。


「アタシ、嫉妬の炎に身を焦がされてぇぇ……」

「うん、わかる。わかるよ? だからちょっと落ちつ」

「────うっかり堕ちちゃったのよねぇ」

「…………」

「それで天使長サマにとうとうバレて、罰を受けたってワケ。はぁ、ホント大変な目に遭ったわぁ。……まあでも、運よくアナタが拾ってくれて良かったわ」


 そう言ってマルスは最後にもう一度ずびーっと鼻をかんで、ごみ箱にぽいっと投げ捨てた。しかも散々騒いでおいて、ああすっきりしたなんて言う。

 何その爽快な顔。すっかり余裕が戻ってて、切り替えの早さに私は思わず感心しかけた。

 ────いやいやいやいや!


「何が深いワケよ、アンタの自業自得じゃんか! 聞いて損した!!」

「うるさいわね! 天使だって嫉妬くらいするのよ! ……まっ、その代償で堕天使になっちゃったんだけど、ウフフッ」

「アラヤダこの人反省してないわ!」


 口調が移ってしまった。罰で閉じ込められたとか言う割に、けろっとしているマルスからは反省の色が全く見られないんだけど。ねぇ、この人本当に天使だったの?

 ていうか運命の出会いとか言うから天使的ピュアラブストーリーを期待したのに、飛び出て来たのはアイドルを追っかけしてた話とか本当もう何それ。何なのそれ。本当に天使だったの?


(ていうか私、振り回されてない?)


 オネエさまのペースにすっかり嵌められている気がする。

 どっと疲れが押し寄せてきて、私は額を抱えた。


「……とにかく事情は分かったから。封印は解けたんだし、私のとこにいる必要もうないよね? そしたらもう帰っ──」

「はぁ? 何言ってるのよ。アナタ言ったじゃない、何でもするって」


 あとはオネエを帰らせてようやく一息つける、と思いきや。

 そうはいかないらしい。


「……って、はぁ!? 何それ! 私そんなこと言ってない!」

「あらぁ、ちゃぁんと言ってたわよぉ? 自分の胸に手を当てて思い出してごらんなさいな」

「言ってない! 絶対言ってな……」


 言葉の途中でハッと思い出してしまった。

 ぎゅるぎゅると巻き戻される映像のように蘇った記憶。


 恐怖に屈した私は何をした? ──土下座した。

 土下座した私は一体何を叫んだ?


『お願いだからもうついてこないでくださいぃいい! 何でもしますからぁあ!!』


 言ってる。めちゃめちゃ言ってる! 何でもするって言っちゃってる!!

 青ざめる私に、マルスはくすくすと妖艶に笑う。


「ウフフッ、思い出したかしらぁ?」

「…………いやでも、あれは怖くてたまらなかったからで」

「でも言ったわよね? 何でもするって」

「…………いや、何でもしますとは言ったけど、何でもするとは」

「言ったわよねぇぇえ?」

「……はい、言いました」


 虚しい抵抗だった。

 冷や汗をダラダラと流しながら私はその場に正座する。

 マルスは満足げな微笑みを浮かべて私を見下ろしていた。脚を組み替える動作がやっぱり優雅に見える。


「アナタ、モトコと言ったかしら?」

「……はい、古之屋モトコと申します」

「恋人はいるの?」

「……いえ、いません」


 まるで尋問のようだと思いながら、私はマルスの問いかけに正直に答える。

 すると私の回答にマルスは意外そうに目を見開いた。


「あら、そうなの。……フフッ、じゃあちょうどいいわね」

「……ちょうどいい?」


 引っ掛かりを覚えた私は首を傾げた。

 ちょうどいいってどういうことだろう。

 言質を取られた以上この人からは逃れられる気がしないし、一体何をさせる気だと内心ヒヤヒヤドキドキさせられっぱなしだ。

 もういっそのこと、ひとおもいにやってくれ……! なんて思い始めたところで、マルスはこんなことを言い放った。


「アナタ、アタシのために彼氏作りなさい」


 ────は? と思った。

 彼氏ってあれ? 恋人ってこと? この私に?

 彼氏いない歴=年齢のオタクな私に恋人を作れと申されましたか? この堕天使オネエさまは。

「…………いやいやいやいやいや! 何でそうなるの!?」

「アタシが天使に戻るためよ、協力なさい」

「意味が分からないんだけど!」


 ────ていうかそもそも堕天使って天使に戻れるものなの!?

 マルスがやれやれと息を吐く。


「天使と言えば恋のキューピッドでしょ? 堕天使のアタシが天力てんりょくを取り戻すには一番それが手っ取り早いのよ」

「知らないし天力って何!?」

「下界の言葉で言うならMPマジックポイントのことよ」

「なんでそんなこと知ってるの!?」


 さすが人間大好きオネエさんだね!

 とりあえずマルスの話はこうだった。


 うっかり堕ちちゃったがために今マルスが持っている天力は穢れてしまっているんだとか。当然それだと天使になんか戻れない。

 だけどその穢れを取り払い、純粋な天力を取り戻せば堕天使から天使に戻れるのらしい。ただし、初めて堕ちてしまった場合に限りだけど。

 そしてその方法に有効なのが恋のキューピッドになること。

 恋を成就させれば膨大な量の天力が授かれる。それはもう、あっという間に天使に戻れちゃうくらいの。


 ……何その救済措置。聞いたことないし。

 うっかりそう呟いたら『天使にだって色々あるのよ』と言われました。


「でも何で私なの!? ……そりゃ、確かに何でもするとは言ったけど、別に私じゃなくてもいいじゃん!」


 そうそう! 誰か片思いの人を探して、恋愛成就のお手伝いをするとかさ。それでもいいじゃん。

 そう言うとマルスはクスクス笑いながらベッドから立ち上がった。結構身長があるから、立って見下ろされると威圧感がすごい。

 ぱさりと長い髪をかき上げて、マルスは私の傍までやって来た。

 身を屈めて真正面から私の顔を覗き込んでくる。美貌が間近に迫ってドキッとした。


「────ねぇ、モトコ。アタシにしたこと、覚えてるかしら?」

「……え?」


 ナニソレ、と呟こうとしたけどマルスの美貌に飲まれて言葉に出来なかった。

 一つ思い出したことがあったから。

 例の本のことだ。魔導書みたいなデザインで、私を追い掛けて来て、中からマルスが現れたあの。

 気づけばあの本はなくなっていた。───マルスと入れ替わるようにして。

 思い至った答えに私は恐る恐る問い掛けた。


「……もしかして、あの本はマルス自身だったの……?」

「フフッ。割れた窓ガラスならアタシが代わりに直しておいたから、感謝しなさいよね」


 あ、これ完全に詰んだわ。と思った。

 これ絶対私がしたこと恨んでますね、間違いなく。

 マルスはずっと妖艶な微笑みを絶やさないでいるけど、逆にそれが恐ろしい。

 美しい微笑みを前に私は『アハハ……』と力無く笑った。マルスも『ウフフ』と笑った。


「ねぇモトコ……」


 ほんの少しトーンを下げたマルスの声に、ぞくりと鳥肌が立つ。

 一番最初に聞いたような、ぞくぞくするほどの色香を纏ったマルスの声。

 ここで私は改めて彼が本当に堕天使であることを実感した。


 だってこんな色気、天使なんかじゃあり得ないでしょ。


「誰かが触れてようやくアタシの存在は認識されるの。でも、最初にアタシに触れた人が所有する意思・・・・・・を見せるか、または敬服してくれない・・・・・・・・とアタシずっと本のままだったのよねぇ」

「────っ、私の後をついてきたのって、もしかして……!?」

「ウフフッ、脅かす必要はなかったんだけどね。反応が可愛くってつい」

「つい、じゃ……!」


 ぴとっと、マルスの指が私の口を塞いだ。

 優美なサファイアブルーの眼差しはもう笑っていなかった。マルスの口元だけが妖しく笑っていた。


「アナタがアタシを手に取った瞬間にもう運命は決まっていたのよ。観念なさい、モトコ」


 そう、観念。

 観念するしか出来ない。

 私の詰みはあの本マルスに出会った時点で決まっていたんだ。

 それに私はもう彼に屈服・・してしまっているのだから。


「ウフフッ、安心して? モトコのためにすっごく素敵な恋を運んであげちゃうから」


 トドメと言わんばかりにウィンクを投げられた。

 長い睫毛をふぁさっと瞬かせて。


 私はがっくりと項垂れた。

 推しのためにとった連休終了のお知らせです。

 古之屋モトコ先生の次回作にご期待下さい。我が推しよ、さようなら……。


「さあ、明日から早速行動開始よ! ウフフッ、たのしみね!」


 私の推しグッズに溢れた部屋でキャピキャピとはしゃぐ堕天使のマルス。

 その傍らで、膝と手のひらを床についたポーズのまま動けないオタクな私。


 今日は一生忘れられない夜になりそうです……。

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