1(2)0日目 恐怖の夕方




 職場についた時にはもうあの本のことは頭になかった。

 再会を願っていたことさえ忘れて、七日間の連休やっほい! とウキウキで退勤した私を待っていたのは、恐怖だった。


 間違いなくごみ捨て場の塀の上へ置いたあの妖艶な本。

 それが何故か私のロッカーの中にあった。


「ナニコレ……」


 存在感たっぷりに私のショルダーバッグの上に鎮座する本を見下ろして、私は茫然と呟く。


 何で? どうして?

 もしかして、ごみ捨て場の出来事を見ていた人がいた? ────いや、近所に同じ職場の人は住んでないし。

 じゃあ誰かの悪戯か。でもロッカーの鍵は各個人で管理しているから、貸さない限り開けられることはないし、貸すこともない。

 当然だけど、私は持ち込んでないし。


「どうしたの?」


 ロッカーを開けたまま微動だにしない私に共に退勤したミヤさんが声を掛けて来た。

 無言でロッカーの中を指さす私に、ミヤさんは首を傾げながら覗き込む。


「あれ、その本なに? なんかすっごいデザインだね」

「うん……知らない間に……置いてあって……」

「え、何それ気持ちわるっ!」


 ずばっと言い捨てたミヤさんは思い切り顔を顰めていた。


「捨てたほうがいいよそんなの。もし悪戯だったら、何か盗聴器とか仕込まれてるかもしれないし!」

「ですよね……」

「でも誰がやったんだろう。店長に相談しとく?」

「──あっ、いえ。そこまでは……」


 私はぶんぶんと手を振って遠慮する。

 だって実はこの本ごみ捨て場にあった物なんです、なんて言えないし。

 拾って来たんでしょって思われたら嫌だもん。

 遠慮する私に大ごとにしたくないんだと思ったのか、ミヤさんは相談を強いるようなことも言わず『そっか』と呟いた。


「わかった。でももしこういうのが続くようならちゃんと相談しようね? その時は私もついていくからさ」

「ミヤさん、ありがとうございます」


 つくづく、ミヤさんっていい人だなぁと思う。

 流石スタッフ一の頼れるお姉さんだ。趣味も幅広いし、オタクネタにも付き合ってくれるし。皆の信頼を集めるのも納得だ。おまけに美人だし、さぞ旦那さんは幸せなことだろう。

 しかもミヤさん、触るのも嫌だろうからって私の代わりに本を捨てておくよと預かってくれた。ミヤさん、本当にいい人だぁ……。

 よかったら車で送って行こうかと言うミヤさんのお申し出を断りつつ、私は気持ち晴れやかに職場を出たのだった。




 ────ところがどっこい。事件はコンビニで起きた。


 美味しそうな肉まんの香りに誘われて向かったレジの前。

 肉まん一つくださいとお願いして、店員さんがスチーマーの中から取り出しに行っている間に財布を出そうとしてバッグを開けたら。


「……ど、して……」


 財布を取り出そうとした状態のままフリーズする私。

 その間に店員さんはレジまで戻って来てて、お金を出さない私を不審そうに見つめる。


「お客様?」

「────あっ、あっ、ごめなさ、やっぱやめ。さい、さいふ、わすれ、わすれて肉まんごめんなさい!」

「えっ!? あ、お客様!?」


 極めて冷静・・・・・に『お財布を忘れたのでごめんなさい』と告げて、私はスタスタと足早にコンビニを出る。

 手はバッグの中に突っ込んだまましっかりとアレを掴んで。

 そして出たと同時に、お店の前に設置されたごみ箱の中に掴んでいた物を突っ込んだ。私物|(じゃないけど)を捨ててごめんなさい!


「……ありえない……」


 有り得ない、有り得ない。

 そう何度もつぶやきながら駅までの道のりを進む私の心臓は尋常じゃないくらいバクバクしていた。

 そうなるのも無理はない。

 何故なら、さっきごみ箱に突っ込んだのはあの本だったからだ。

 ギラギラと妖艶な存在感を放ちながら、私のバッグの中に潜んでたんだよ。ミヤさんが捨ててくれた筈なのに!


 本当に本当に気味が悪い。

 おかげで愛しの肉まんを食べる気も失せてしまった。うう、お腹空いた……。


(ちょっと温かいものでも飲んで落ち着こう)


 ちょうどそこに自動販売機があった。缶コーヒーが美味しいメーカーさんのだ。

 陳列された商品を見ると、右下の方に少しだけどホット飲料が用意されていた。

 私はカフェオレを買おうと思って、再びショルダーバッグに手を掛ける。

 するとあの本が『やあ、コンニチワ』。


「ぅえええっ!?」


 もう恐ろしくて、変な声出た。

 ここまでくればこの本に対する印象は最悪。

 もう気持ち悪くて仕方がなくて──私は無言でそれを引っ掴み、空き缶専用と書かれたゴミ箱に突っ込んだ。空き缶以外を捨ててごめんなさい!


 一体、私の身に何が起こっているのだろう。

 超常現象?

 怪奇現象?

 本に付き纏われるとか聞いたことないんだけど!


 半ばパニックになりながら、私は駅へと走った。

 久しぶりの全力疾走に息を切らしながら辿り着いた私を待ち受けていたのは、次なる恐怖。

 次は改札の前でだった。

悲鳴が出そうなのを必死に堪えて駅のトイレに投げ入れた。人がいなくてよかった。


 二度あることは三度ある?

 三度目の正直?


 とにかくもう訳が分からないまま乗り込んだ電車の中。

 運良く空いていた座席に腰を落ち着けて、どうかもうついてこないでと思うばかり。


 だけどもう諦めたのか、その後は本の姿を見かけなかった。


 そっとバッグを覗いてみた電車の中でも。

ドキドキしながらICカードを取り出した改札前でも。

 鍵を取り出したアパートの前でも。


(恐怖からの解放! ヒャッハー!!)


 解放感から私は叫びだしそうになった。

 そして調子に乗って、少し道を戻ってコンビニでお酒を買う余裕さえ出来た。


 お風呂入って、一杯飲んで、それでポテチをつまみに飲みながら今夜は夜な夜な録り溜めを消化しようと考える。

 単純な私はそれだけでテンションが上がり、ルンルン気分で帰宅する。

 もう大丈夫って、私はすっかり安心してしまっていた。


 ────恐怖現象は人を極限まで追い詰めるものなのにね。


 ヤツは先回りしていたんだ、私の部屋に。



「な、なんであるのぉ!?」


 ご機嫌で帰宅した私が玄関を開けた瞬間、落ちてきたモノ。

 Gだと思って腰を抜かした私の前にあの本が転がっていた。

 まだ電気も点けていない薄暗い中では、本がギラギラと妖艶に光って見える。

 ていうか普通でないオーラを纏っているようにも見えなくない。

 まるでTHE闇のアイテムですって感じ。


 …………え、待って。


「もしかして、呪いの本……?」


 そうだとしたらこの不思議現象にも説明がいく。いやいって欲しくないんだけど。

 だってもし本当にそうなら、私はこの本に『取り憑かれている』ことになるよね?



「そんなのイヤァァ!」


 私は叫んだ。

 本を掴み大きく振りかぶって……モトコ選手、夕陽に向かって投げましたぁ!

 割と近い所でガシャーンって聞こえたような気がするけど、ごめんなさいそれこころじゃない!


 だって私……気ままに一人暮らししてるけど、ホラーとかそういうの大の苦手なんだよぉおお!

 ホラゲ実況だってコメント付きな上に昼間じゃないと見れないし、映画なんて絶対無理! テレビの恐怖体験特集だって見てやらないんだからぁ!!

 それくらい駄目なのにこんなホラーな現象が私自身に起きたらもう一人暮らしできなくなっちゃうじゃん……!


 どうかもうこれ以上ついてこないでと、私はガクブル震える足でなんとか部屋へと上がる

 まるで生まれたばかりの子鹿のよう。震え過ぎて靴を脱ぐのも時間が掛かった。


 ドアを締めると途端に真っ暗になった部屋が怖い。

 しかし電気を点けるまで安心できないのも事実。

 ああ、早く淡い蛍光灯の光に包まれてホッとしたい。

 そんな思いで私は壁を探るようにスイッチを押した。


「…………ん?」


 電気は点いたけど、スイッチじゃないものを押した気がする。


 おそるおそる私は手の方を見た。


 白い壁紙。

 手の下からはみ出る紫色。

 さあっと引いていく血の気。



 ────お分かりいただけただろうか?



 ぶん投げた筈のあの本が。


 今。


 そこにあるのを…………。



「イヤァアアアアアア!!!!」



 人生史上最も悲鳴らしい声が私の口から飛び出した。

 さぞ近所迷惑なことだろう。

 もしかしたら警察を呼ばれちゃうかもしれない。

 でもそんなこと気にしていられない。


 だって、こんな恐怖に見舞われて私が正気を保ってなんかいられるワケがないでしょ!


「何で私に付き纏うのぉおおお!? 明日から休みなのにぃいいい!! 楽しいお休みの始まりにさせてよ楽しい気持ちを返してよおぉおお!!」


 私はその場に頭を抱えて蹲り、膝の中で叫んだ。


 やめて! 私のSAN値はもうゼロよ!


 こうなった私は恐怖に屈するしかなかった。

 それがふわふわと宙に浮いていることに気づきもせず、膝を揃え床に三つ指ついて額を床に打ちつける。


 つまり、土下座です。

 日本人ならではの技を見せる時が来たようだ。

 私は必死に叫んだ。



「お願いだからもうついてこないでくださいぃいい! 何でもしますからぁあ!!」



 静かな部屋にシィィィンと響く私の声。

 その直後。



『────あら、今何でもするって言ったわね?』



 色っぽい声が響いた。

 ゾクリと鳥肌が立つくらい妖艶な。


(え……?)


 更なる恐怖の予感にそっと顔を上げてみれば、そこでようやく本が浮いている事に気付いた。

 ────は? と、茫然と見上げていると本がパカッと開いた。それから風に吹かれたようにパラパラとページが捲られる。


 白い紙に浮かび上がる見慣れない赤色の文字。

 ずらずらと書き連ねられたその文字がカッと光った瞬間、紫色の煙がぶわああっと溢れ出てきた。


「ぎゃあナニコレ!?」


 視界一面あっという間に紫煙に覆われた。

 ワインレッドの光が、ライブ演出にあるようなレーザーライトみたく四方八方へと伸ばされる。

 それが私の目にも直撃しようとするもんだから、つい目がァァッてやるとこだった。それどころじゃないわ、私の馬鹿。


 紫煙の向こうでバサリと何かが羽ばたく。

 煙をスクリーンに、妖艶な光と蛍光灯で映し出されたシルエットは────え? 天使?


「あぁん、もう……。ホント、窮屈だったわぁ」


 スクリーンの向こうから再び色っぽい声が聞こえてくる。

 天使が腰あたりまで伸びた長い髪を掻き上げると、さらりと翻った髪で紫煙がふわりと払われた。

 徐々に天使の全貌が明らかになっていく。


 本の表紙と同じ紫色の髪。

 二次元の世界からやってきたのかと思うほど、中性的で美しく整った顔立ち。

 サファイアブルーの瞳が優美に微笑み、ぽかーんと口を開けて間抜け面を晒す私を写した。


 それから、細いけど逞しさのある胸板に程よく引き締まった腰回りが見えて。


 ────なすびがあった。



「ハァイ、子猫ちゃん。アタシを解放してくれてありがと。感謝するわ」


 翼が大きくはためいて、紫煙は全て払われる。

 私の目の前に現れたのは、黒い翼を持った天使オネエだった。

 しかも全裸の。


「な、なす……」


 清らかな私にはちょっと刺激が強過ぎた。

 突然襲い掛かった恐怖現象、そして最後の衝撃。


 もう限界だと私の頭の中がなすびで埋め尽くされた瞬間、私の意識はぷつりと途切れた。

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