第3話 契約

 ぼくは駅まで歩いた。

 陸橋に上り、ホームに入っては出ていく電車を見送る。

 街の明かりは途切れることなくかなたまで続く。あの中でひときわ光り輝くはずだったぼくは、もうそこに居場所を見つけられない。


 ネックレスにしていた指輪を外し、手のひらに載せる。彼女の顔が重なった。

 もうどうなってもいい。ぼくの希望はすべて砕け散った。あの時のちょっとした事故がなければ、運命の歯車が狂うこともなかったのに。

 スケートのできないぼくは、翼の折れた鳥だ。もう二度と大空を羽ばたけないのなら、生きる価値などどこにもない。


 羽ばたけないなら――。


 ここから身を投げたら、楽になるだろうか。


 きらめく街明かり。足元を走る電車。

 折れた翼は、天使になって初めてよみがえる。

 ここから旅立つことで、ぼくの雄姿は永遠のものとなる。雄々しく広げた翼。リンクの上を華麗に舞うぼくのことだけを覚えていて。

 傷つき、二度と立ち上がれない、氷上をみじめに転がる姿ではなく。



 人は命を絶つことで、その瞬間を永遠のものとする。


 ぼくはただ、元気なころの姿を記憶にとどめていてほしいだけだ。


 陸橋の手すりに手をかけ、ぼくは目を閉じた。


 氷上を華麗に舞い、人々の喝さいを浴びる姿を脳裏に浮かべ、


 一歩踏み出す、


 折れた翼は、羽ばたいて、


 くれる、だろう、か……。



 ――昔と同じように滑りたいというなら……きみがそれを望むなら……もしかしたらかなえられるかもしれない。



 突然、スケートリンクで出会った青年の言葉が耳によみがえり、ぼくの動きを止めた。

 本当にそんなことができるのか。医者にも「無理だ」と言われた完全復帰なのに。

 でも――ほんのわずかでも可能性があるなら、ぼくはそれにかけたい。

 死を選ぶのは、そのあとでも遅くはない。


「もう一度、前のように滑れるなら、悪魔と契約したってかまわない!」

 ぼくの叫びは、真下を通る電車の音にかき消された。



「悪魔との契約より、重い代償だ。一度渡ったら、戻りたくとも戻れない。それでもいいか?」



 ふりかえると、陸橋の向こう側にさっきの青年が立っていた。

 黒いコートに身を包んだ彼。夜の中で瞳だけが赤く光る。

 やはり彼は、ぼくだけに見える死に神なのだ。

 死ぬ前に最後の願いをかなえてくれるというのなら、それを受け入れよう。もう一度スケートリンクを舞えるのなら、喜んで悪魔と契約しよう。

 

 何も残せないまま、生きていたくはない。



「それでもいい。ぼくは、もう一度滑りたい」



 リンクを舞い踊る健康な肉体、それさえ取り返せたら、すべてが元通りになる。


「わかった。その代り、未来永劫、呪われの身となる。それでもいいか? 闇の中で、生きることも死ぬこともできない。それでも、こちらの世界に来る覚悟はあるか?」

「滑れないぼくは、翼をもがれた鳥と同じだ。これ以上の呪いなんてない。手にしたものは、すでになくしてしまった。今のぼくに失うものなんて、なにもないさ」



 ぼくの答えを聞くと、死に神はそばに歩み寄った。

 そしてぼくのネックウォーマーを外し、首筋をあらわにした。夜風に体温が奪われ、背筋がぞっとした。

 ぐっという唸り声が耳元に届く。次の瞬間、死に神はぼくののど元に食らいついた。鋭い痛みが全身を貫き、悲鳴を上げそうになる。だが死に神の手がぼくの口をおおい、声を出せない。

 やがて痛みは消え、穏やかな温もりが広がる。全身がしびれるような快楽に、その瞬間までぼくの心を支配していたすべての絶望は消えた。


 ひざの力が抜けて、ぼくは死に神に体を預けた。

 少しずつ意識が遠のく。

 ふと口の中に何か生暖かい液体が流し込まれた。それが血だということは、なんとなく理解できた。それがだれのもので、なぜ飲まされているのか、そのときのぼくには解らなかった。


 目の前が暗転し、ぼくは闇にちた。



 死に神との契約は、これで、完了した。



   ☆   ☆   ☆



「ここまで快復するとは、本当に奇跡はあるんだな」

 事故に遭う前と同じ、いやそれ以上に完璧で安定した演技だ。オーナーはそう言ってぼくの滑りを称賛する。

「おまえが出場していたら、日本も金メダルが取れたのに。本当に残念だよ」

 ぼくは何も言わず、微笑みを返した。


 ライバルはオリンピックという舞台で思うように力を発揮できず、ミスの連続で入賞を逃した。無残な結果しか残せなかったためか、彼女とは別れたらしく、破局報道が流れてきた。

 やはり彼女はそういう女だ。価値がなくなったら、すぐに捨てる。あのときぼくは彼女の本性に気づいていたのに、戻ってきてほしいと思っていた。世間知らずのうぶな男だった自分は、もう遠い昔のように感じる。

 栄光も恋人も失って、ライバルは今頃は打ちひしがれているところだろう。会いに行って元気づけてやりたいが、今のぼくにはそれができない。


「それにしても、あれだけ激しく滑ったのに、息ひとつ乱さないとはね。滑りだけでなく、体力まで怪物並みになったようだな。この数か月、どこで何をしていたんだ」

「いろいろとありましたからね。それ以上は聞かないでください」

「すまない。そういう約束だったな。でも本当にもったいない。選手としてカムバックしないとは。どこかプロの契約でもしたのか、いや、これも聞いてはいけないことかな」

 オーナーはぼくの変わりように興味津々だが、真相は話したところで信じてもらえない。そのほうがいい。もし信じてしまうような人物なら、ぼくはオーナーを手にかけなくてはいけなくなる。ぼくたちの存在は、人間たちに知られてはいけないのだから。


 ロッカーに戻って着替えを済ませ、ぼくは外に出た。今日も星がきれいにまたたいている。青空を見ることができなくなってから、星空をながめるのが習慣になった。

 冬の星座はいつのまにか姿を消し、春の星座が夜空を彩っている。ぼくの身に起きた不幸をよそに、季節は確実に移ろっていく。


 荷物を片手に地下鉄の駅まで向かおうとすると、不意に名前を呼ばれた。

 懐かしい、甘い声。

 だが今のぼくには、何の魅力もない。


「久しぶりね、また滑りはじめたって人伝ひとづてに聞いたけど、本当だったのね」

 元カノだ。ぼくにあんな仕打ちをしておいて、まだ清楚せいそなふりをするとは。仮面の下の素顔に気づいていないと思っているのか?

 彼女の性格だから、ぼくがそれとなく流したうわさを聞きつけて、いつかは姿を見せるだろうと思っていた。だがこんなに早いとはね。


「もし、あなたが嫌じゃなかったら、今からお食事でもどう? 前みたいにいろいろ話せたらって思うの」

「ぼくと? あいつとつきあっているのに、いいのかい?」

 神妙な顔でぼくは答える。真の姿を見せるのはまだ早い。

「つきあってなんかいない。あたしが好きなのは、昔も今も、あなただけよ」


 信じてくれと大きな目がじっと見つめる。奥に隠されたみにくい素顔が、瞳を透けてにじみ出しているよ。

 だがぼくは気づいているそぶりを見せないで、以前のようにうぶな好青年を演じる。


「そうなんだね。うれしいよ、その言葉が聞けて」

 手を差し伸べると、彼女はためらうことなくぼくのふところに飛び込んだ。

 この時を待っていた。最初で最後の復讐だ。こみ上げる笑いを必死で抑える。

 悪魔と契約したぼくは、それに忠実に従い、行動する。

 にえは多いほどいい。

 タイミングよく通りかかったタクシーを拾い、ぼくは彼女を連れて乗り込んだ。



   ☆   ☆   ☆



 数日後、ある女子アナが自宅で死んでいるのが発見された。死因は失血死。遺体からは血が抜き取られていたのに、部屋には一滴の血痕が残っていなかった。

 どこか別の場所で殺害されたとみて、警察は数日前からの彼女の足取りを追っている。


 鑑識の者たちは、遺体の有様を見て、まず目を疑った。

 彼女の首は斧のようなもので切断され、リビングにあるテーブルの上に供えるように置かれていた。口には大蒜にんにくが詰められ、また胴体の周りには大蒜の花がまかれていた。そして心臓には木の杭が打ち込まれていた。


 それは奇しくも、吸血鬼映画に出てくる吸血鬼の殺害方法を模倣している。儀式めいた現場の有様に捜査員はみなそのことに気づき、陰に異常者の存在を感じ取った。

 だが犯人の手掛かりは何一つ残されてなく、猟奇殺人は迷宮入りとなった。



 時を同じくして、かのフィギュアスケート選手は、リンクに姿を見せなくなった。


 今日まで彼の姿を見た者は、だれ一人いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷上のスターダスト 須賀マサキ @ryokuma00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ