第2話 イミテーション

 不慮の事故で選手生命を断たれたあとも、深夜にリンクを利用して、なんとか元に戻ろうと練習を続けた。オーナーは、営業時間後に限り、いつでも快くぼくに貸してくれる。ひとりの時間を心行くまで滑った。



 今日こそは跳べる、きっと今日こそは……。

 


 淡い期待を胸に幾度となく挑戦してきたが、いつも派手に転んで終わった。現実は厳しく非情だ。

 アリーナ席に座り、膝に肘を乗せてうなだれると、首にかけた指輪が目に入った。選手生命が絶たれたと告げた日に突き返されたそれ。所詮しょせん彼女はそういう女だった。


 想いを寄せてくれる人はたくさんいた。それなのにぼくは、恋人をアクセサリーとして所有したがっていた人を選んだ。スケートばかりやっていたから、人を見る目が育っていなかったに違いない。

 それが解っていてなお、ぼくは指輪を捨てられなかった。

 完全復帰したら帰ってくるかもしれない。無駄だと知りつつも、彼女への気持ちは消せなかった。

 リハビリの途中くじけそうになったら、突き返された指輪を見て、自分を奮い立たせた。

 おかげで、医者や理学療法士が予想した以上に短期間で、普通に歩けるようになった。


 激しい想いは人を強くする。あのとき彼女にフラれてなかったら、逆にぼくはまだ松葉杖の世話になっていただろう。

 でもこれ以上の快復は無理そうだ。



 ――いい加減、そんな指輪は捨ててしまえよ。どういうつもりで手放さないのか知らないが、いつまでも過去を引きずっていてもしかたがない。怪我をしたおまえに気遣いひとつしないで姿を消した女だぞ。


 ――彼女が帰ってくるかもしれない? 都合のいい言葉だな。そんな甘い考えは、指輪とともに捨てちまえ。



 今日に限ってオーナーは厳しいことを口にした。虫の居所が悪かったのかもしれないが、人に八つ当たりすることないだろう。

 そんなことを考えながら、ぼくは大きくため息をついた後で、背もたれに体を預けた。


「もう滑らないのかい?」


 不意に話しかけられ、飛び上がらんばかりに驚いた。弾かれるように椅子から立ち上がり、声のしたほうをふりかえる。

 いつのまに入ってきたのだろう。ぼくの座っていたシートのすぐ後ろに、二十歳前後の青年が座っていた。

 鼻筋の通った端正な顔立ちの人物で、薄いブラウンの瞳と意志の強そうな口元がぼくの印象に残った。やや細めのあごと肩幅が、線の細さを表している。ストレートの長い髪を一つに束ねている姿はミュージシャンを連想させた。ぼくが知らないだけで、公演で来日中のアーティストかもしれない。

 そういう目で見ると、服装もヴィジュアル系バンドというのか? それを連想させるような黒で統一されている。


 大げさに驚いたことを悟られぬよう、ぼくは小さなため息をつき、目を伏せた。

「滑らないんじゃなくて、滑れないのさ」


 まただ。

 ぼくの抱える痛みを知らない人たちは、無意識のうちに残酷な質問をする。彼が悪いのではないが、初対面にも関わらず、触れられたくない部分をあまりにもストレートに指摘された。知らず知らず口調が厳しくなった。

「それよりどうやってここに入ったんだ? 閉館時間はとっくに過ぎてる。関係者以外立ち入り禁止なのに、守衛は何をしてるんだ」

 これでは防犯にならない。明日にでもオーナーにこのことを伝え、守衛を交代させるように提案しよう。


「どんな優秀な守衛がいても、ぼくには関係ない。ここに来たかったからきた、それだけ」

 一瞬彼の目が獣のように光ったような気がした。驚いて二度見したときは、もう光はなかった。照明の関係でそう見えたようだ。


「ぼくはここ一週間、きみが滑るところを見ていた。それまでは来ることがなかったのに、急に姿を見せて、何かから逃れるように滑り続けていた。倒れても倒れても立ちあがって、そしてまた倒れる。それでも氷上から降りようとしなかった。なのに今日は途中ででてきた。代表選手に選ばれなかったことが原因とは思えなかったから、つい声をかけてしまったんだが……」

 彼の目がぼくの胸を飾る指輪を捕えた。

「今わかったよ。これに原因があるようだね」

 ぼくは思わず右手でリングを握りしめた。


「女性物の指輪。ダイアモンドをあしらったところを見ると、エンゲージリングってところかな。選手生命を断たれたと同時に逃げられた彼女と、久しぶりに再会した。そんなところか」

 鋭い指摘にぼくは返す言葉を失う。

「いや、すまない。立ち入ったことを言ってしまったね」

「自覚してんなら、さっさと帰っちまいな。閉館時間はとっくに過ぎて、関係者以外はお断りなんだよ」

「それは残念だ。きみが許してくれるなら、もう少し見ていたかったんだが」

「今さら何言っても遅い」

 彼は残念そうに微笑むと、出口に向かって二、三歩進んだ。と、不意に立ち止まり、またぼくをふりかえった。


「ぼくは……きみの滑りが好きだったんだ。力強さと繊細さを同時に表現できるきみは、世界の舞台で頂点に立てる人物だと思っていたから……」

「過去の話さ」

 好きだったと言われても、ぼくにできることは何もない。滑りを見せてあげることもできないし、「応援ありがとうございます、がんばってリハビリを続けます」などと優等生な受け答えはもっとできない。


 でも……。


 ぼくはだれもいないリンクを見つめた。あの広いスペースを所狭しと舞い踊っていたぼく。人々の喝采かっさいは、今でも耳に残っている。

 もしもまたあの頃のように滑れたら、彼女も帰ってくるだろうか。

 二度と戻らない、輝いていた時間だって解っているのに、ぼくはまだあきらめられない。


「そう、なんだね」

「え? 何が?」

「昔と同じように滑りたいというなら……きみがそれを望むなら……もしかしたらかなえられるかもしれない」

 ぼくは息をのみ、彼を見返す。

「そんなことが可能なのか?」


 彼はしばらくぼくを見つめていたが、やがて視線を外し、かぶりを振った。

「いや……やはりやめておこう。それをするには、代償が大きすぎる。そんなものをきみに背負わせるわけにはいかない」

 思わず口から出た言葉を後悔するように、彼は背を向けた。

「ちょっと待って。今の話は……」

「ただの戯言ざれごとだよ。忘れてくれ。それよりすまなかったね、練習の邪魔をして」


 練習場を出た彼を追いかけて、ぼくは廊下まで走った。日常の軽い運動ならできるだけに、ジャンプできないことがかえってつらい。

「今の話、詳しく……」

 今しがた出たばかりなのに、廊下にはだれの姿もなかった。念のためロッカールームやトイレも確認してみたが、人っ子一人いない。


 あの青年は、もう一度滑りたいというぼくの願望が作り出した幻だったのだろうか。



   ☆   ☆   ☆



 結局そのあとのぼくは、どうしてもそれ以上滑る気にはなれなかった。

 突然現れた人物は、何が目的でぼくの前に姿を見せたのだろう。静かに見ているだけなら、追い出すこともなかった。


 ロッカーで着替えを済ませたぼくは、オーナーのいる事務所に顔を出した。

「どうだい? 少しは勘が取り戻せたか」

 ゆっくりとかぶりを振る。オーナーは気の毒気な表情を一瞬浮かべ、それをごまかすように「コーヒー飲むか?」といた。軽くうなずくと、オーナーはコーヒーメーカーのセットを始める。


 事務所に香ばしい香りが広がり、ぼくはしばしの間、悔しくて悲しい気持ちを忘れた。

「ほら。ミルクと砂糖はセルフサービスだぞ」

 オーナーがそれらのおいてある場所を視線で教えてくれた。

 運動した後は、甘いコーヒーがおいしい。ぼくはカップに砂糖を注ぎ、そばにあった椅子に座る。一口飲んだ後で、手にしたカップをテーブルに置こうとして、そこにあるスポーツ新聞に気がついた。

 記事を見るでもなく追いかけたそのとき――。


 手の中のカップが床に滑り落ち、大きな音を立ててくだけた。


「なんだって? 彼女と、あいつが?」

「あっ」

 オーナーは慌てて新聞を隠そうとしたが、遅すぎた。ぼくは見出しの文字をしっかりと読んだ。

 そこに書かれていたのは、元カノとライバルの交際宣言だ。


 心臓が、ドクンと大きく鼓動し、息が浅くなる。

 ぼくが選手生命を絶たれ、オリンピックの夢が破れたとき、すぐにいなくなった彼女。怪我をして沈んでいるぼくに見向きもせず、黙って指輪をおいたまま、サヨナラの一言も言わずにぼくを捨てた。

 でもいつかは帰ってきてくれることを信じて、ぼくは指輪をネックレスにして身に着けていた。復活はすべて彼女のため。アクセサリーの男でもいい。もう一度、ダイアモンドの輝きを取り戻したい。

 彼女への想いを原動力に戦ってきたつもりだった。



 でも彼女は、新しいアクセサリーを手に入れた。



 ライバルは、オリンピックへの切符と彼女の両方を手にした。

 愛情ではなく、他人に自慢でき、うらやましがられるような人物を選ぶ女だけど……それでもぼくはまだ、心のどこかで彼女が帰ってくる日を待っていた。

 今のぼくはただのガラス玉。傷だらけで、砕けてしまったイミテーションにすぎない。



「見てしまったんだな……。すまない、うっかりして捨てておくのを忘れてた」

 オーナーは、申し訳なさそうに頭を下げる。あなたには落ち度はない。

 さっきあんな意味深なことを言ったのは、この記事を読んだからですね。ぼくの心をおもんぱかってくれたのに、あの時は気がつかなかった。

「コーヒー、ごちそうさまでした。遅くなったので、もう帰ります」

「送っていくよ。あと十分ほどで閉めるから……」

「いえ、いいです……」


 一人になりたいのです……。


 ぼくがかぶりを振ってこたえると、オーナーは「彼女のことはこれを機会に忘れるんだよ」と声をかけてくれた。温もりと思いやりに満ちた声なのに、ぼくの心を支配する吹雪を消すことはできなかった。

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