氷上のスターダスト
須賀マサキ
第1話 絶望
氷の上にぼくは降りる。スケートリンクには、ほかにだれもいない。
凛とした空気に支配された場所は、一年を通して冬を保つ。四季の訪れには縁のない、季節すら氷漬けにされた空間だ。
ぼくの心のように。
あれからどれだけの時間が流れただろう。
——いつでも好きなときにきて、好きなだけ滑っていいんだぞ。
オーナーはそう笑いかけてくれた。だがぼくは微笑み返せない。
——そうか、人目が気になるよな。ならば、夜、みんなが帰ったあとでもいいんだぞ。リンクが恋しくなったら、いつでも来てくれ。
その言葉がずっと頭から離れなかった。でもここに来るまでには、それなりの時間が必要だった。
☆ ☆ ☆
慎重に氷の上を歩き、体を傾け、ゆっくりと滑る。頭で考えるより先に、足がリンクを蹴った。徐々にスピードがついてくる。
大丈夫だ、恐れることはない。
しんと静まり返った競技場に、ブレードが氷を切る音だけが響く。
頭の中に曲がよみがえる。あの日まで毎日、数え切れないくらい聞いていた。今でも細かい部分までしっかりと覚えている。
流れる曲にあわせ、ぼくは氷上を舞った。ターン、腕をのばすと遅く、身体を小さくすると回転速度が速くなる。世界がぼくの周りでクルクルと回る。
今度こそいける。恐れることなどない。すべては取り越し苦労だった。
見ていろ。今ここでそれを証明して見せる。
ぼくは加速して勢いをつけた。ジャンプ、一回転、着地、ジャンプ、一回転。
まだだ。この後が本番。
これが成功したら、ぼくを見限ったやつらはどんな顔をするだろう?
曲が盛り上がるところで、ぼくはリンクを跳んだ。
空中での四回転。
体がしっかりと覚えている。
ぼくはまだ、氷の上を華麗に、力強く踊れる。
永遠にも似た
「あっ」
右の足首が衝撃を受け止めきれず、ぼくは氷上に無残に崩れる。そのままの勢いでリンクの上を倒れたまま滑り、壁にぶつかってようやく止まった。
よろよろと立ちあがり、ぼくはリンクを出て観客席に入った。
今日も失敗に終わった。あのころのように華麗に舞うことは、もうできない。
頬を切る風を感じて滑る
ぼくは身体を投げ出すようにして、椅子に座った。どすんという重い音が響く。これが今のぼく。重力を味方にして、自由に舞うこともできない。オリンピックのメダル候補といわれ、周りから絶賛された人物の末路だ。
——残念ですが、もう元のようには……。
悔しいけど、医者の言ったことは正しかった。
☆ ☆ ☆
フィギュアスケート。それはかつてぼくが打ち込んでいた競技だ。
幼いころから数々の大会で入賞し、中学を卒業するころにはぼくの名を知らない人はいないくらいの有名人になっていた。
全国大会でも優勝し、世界大会にも出場した。まだ高校生だったので優勝こそできなかったが、将来のオリンピック選手、メダル候補選手とささやかれるようになったのはこのころからだ。
大学ではスポーツ推薦で入学し、勉強の傍らスケートに力を注いだ。
あとはオリンピックだけだ。代表選手として選抜されるのは間違いない。
世間の注目を最大級に浴びていたそのとき、不幸は突然やってきた——。
あれほどうるさかった
いつものように練習を終えたぼくは、学生寮まで自転車を走らせていた。交差点の信号が青に変わり、ペダルをこぎ始めた直後、左側に強い衝撃を受けた。
——えっ?
急ブレーキの甲高い音とだれかの悲鳴が、遠くで聞こえたような気がした。
不思議なことに後のことはよく覚えていない。後で知ったが、部分的な記憶の欠如というやつらしい。
次に気づいたときは、ベッドに横たわっていた。点滴の管で、そこが病院だと解った。
ぼくは帰宅途中で交通事故に遭った。右腕と右足首を複雑骨折し、緊急手術が施されたという。命に別状のある事故ではなかったが、一月ほどの入院を余儀なくされた。
普通の人なら、この程度で済んでよかったと
オリンピックの選考が迫っているのに、このままでは試合に出ることもできない。
試合に負けた結果の代表落ちなら、潔くその事実を受け止めることもできる。だがそうじゃない。運転手の不注意で棒に振るなんて、世の中理不尽だ。
ぼくの心は、悔しさと怒りなどという言葉では表現しきれないほどに荒れた。今までの努力は、この晴れ舞台で表彰台に立つためだったのに。
切符を手にする直前で、ぼくの運命は大きく変わった。
気が狂いそうな状況というのを、生まれて初めて体験した。
だがぼくに突き付けられた現実は、さらに厳しいものだった。
——リハビリすればなんとかなりませんか?
痛み止めの薬の影響で浅い眠りについていると、だれかの会話が聞こえた。
——彼は一番の有望株なんですよ。
ああ、あれはコーチの声だ。でもどうしてそんなに、悲しそうなんだ?
——選手として復活するのは無理なんですか?
選手として、復活できない? だれが?
意識がもうろうとして、その時は夢か現実か区別できなかった。
目を覚ましたとき、病室には赤い目をした母と、うなだれたコーチがいた。ぼくはすべてを悟った。
さわやかな秋が終わり、季節は冬に変わっていた。赤と緑を基調にしたイルミネーションが、街を華やかに彩る。
退院した後も、ぼくは毎日病院に通い、リハビリを続けていた。努力の甲斐があって、みるみるうちに普通に歩けるように快復し、ぼくの絶望は淡い期待に変わり始めていた。
だが時間は無情にも流れ、ぼくの快復を待たずして、今日の午後にオリンピックの代表選手が発表された。
ぼくの名前は当然なく、代わりに幼いころからのライバルが選ばれていた。
本当ならあの場にいたのはぼくだったのに。
インタビューしている女子アナは、ぼくの元カノだ。スポーツ担当の彼女は、テレビでは明るく天然キャラで通しているが、実際は頭の切れる才女だ。おっとりした仮面の下に、賢さを隠している。
久しぶりに見た元カノは以前にもまして輝いていて、ぼくは胸が苦しくなった。
ぼくと彼女がつきあい始めたのは、ニュース番組の取材がきっかけだった。仕事の後で食事に誘われ、そこで意気投合した。フィギュア以外のことをほとんど知らなかったぼくに、彼女は違う世界を教えてくれた。新鮮で楽しい時間は、ぼくの内面を成長させ、豊かな表現力につながった。
ぼくが事故に遭った直後、彼女は仕事の合間に毎日のようにやってきては、介護だといっていろいろと世話を焼いてくれた。
事故から一週間ほどたったころ、ぼくはフィギュアスケートの選手として復帰が難しいことを告げた。人生を共にする人に、大切な話をいつまでも隠してはおけなかった。
だがそれは間違いだった。
その話をしたとたん、それまでの献身的な態度が嘘のように、彼女はぷっつりと姿を見せなくなった。それだけでなく、携帯にも出なくなり、メルアドも変更して、こちらから連絡を取ることができなくなった。
ただの人になったぼくは、
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