二章 契約の意味 3
3
夏競馬真っ盛りのこの季節。
例年通りであれば自分のような弱小騎手にも鞍が回ってくる掻き入れ時だ。
しかし年を跨ぐ毎に新人にパイを奪われ続け、遂に今年は騎乗馬が無くなった。
宮下が用意してくれた乗鞍はすべて消化してしまい、今週末はとうとう鞍無し。
にっちもさっちもいかず、事務所の大仲で一人憮然と朝食にカップラーメンを啜る。
週末に騎乗馬が居なくとも調教は月曜以外毎日あるので、連休など夢物語だ。
難儀な仕事だと、しみじみ思う。
せめてもの救いは、オベイロンが夏バテでへばってくれたことだ。ここ最近、彼の小言を聞かずに済んでいるのは助かった。今は香澄が調教に連れ出しており、いつになるかわからないデビューに備えて汗だくで扱かれていることだろう。
「あっつぅー……まだ朝なのに。お昼になったら溶けちゃうわこれ」
パタパタとシャツの隙間に風を繰り込みながら美琴がやってきた。
「いらっしゃい、美琴さん。何か飲みますか? 麦茶?」
「なんでも良い、なんでも。冷たいのね。えっ、朝からカップラ……男は良いわねぇ」
美琴が今日来た理由は、不肖、この町村優駿の取材だそうだ。
競馬で勝つとこんな風に注目されるのかと、若干の気恥ずかしさがある。
名誉欲なんてものは過去の話。ここ数年の潜伏期間の間にG1を勝ちたいだなんて思いから、一鞍でも良いから馬に乗せてください、という心境に様変わりしていたのだから。
大仲のソファーで向き合い、写真を数枚撮られ、世間話を交えながらのゆるりとした取材を受けた。
勝ち星を重ね始めた際、心境の変化や特別な工夫を尋ねられる。
そんなものは全部オベイロンに聞いて欲しいと思うものばかりで、明確に『コレ』と言えないのが辛い。何か適当な当たり障りのない、それらしい文言を連ねるしかないのだ。
どうせ真実を言ったところで嘘を吐いているとみなされるか、頭がおかしいと思われて終わりである。
「絶対何か秘密があると思うんだけどなぁ。競馬をずっと見てきたわけじゃないけど、町村くんのあからさま変化はちょっと異常よ」
「あはは……何なんですかね、ゾーンにでも入っちゃったんでしょうか」
冗談を交えつつ誤魔化すが、時折見せる美琴の記者としての鋭い洞察力に背筋が寒くなる。一般紙で政治を扱っていたらしいので、政治家の手練手管や嘘八百で鍛えられているのかもしれない。
「それはそうと、町村くん」
一通り取材を終えると、美琴は居住まいを正してこちらに向き直った。
「なんですか?」
「この前の話よ。あなたとのエージェント契約。あれ、引き受けようと思うの」
「ほ、ほんとうに?」
「ええ。先輩の須藤さんからね、地盤を引き継がせてもらったの。NRAにはもう申請したから。馬の方はまだ少しなんだけど、先生方から融通してもらえそうなの。だからあとは、町村くんが私で良ければって話になるんだけど」
「文句なんてありませんよ! ありがとうございます美琴さん」
これは行幸だった。ほとんど期待してなかった美琴の線から馬を回して貰える。
エージェント契約が成立すれば、馬探しで四苦八苦する必要もなくなるのだ。
「良かった。じゃあ契約成立ね」
「はい、よろしくお願いします」
差し出されたか白くて細い手を握り返すと、ちょっとした優越感に浸る。
エージェント契約というものに少し前まで憧れていたのだ。
その制度の是非については色々取りざたされているが、今の自分には合っている。
馬探しの手間が省けるのは大歓迎だった。
その流れで契約に関する書面をその場で認め、先方の確認や次回のレースについての細々した話し合いの場を設けた。
美琴はもう、ただのいち競馬雑誌の記者ではなく、ビジネスパートナーになった。
その間、調教に出ていた厩舎スタッフも戻ってきており、ガヤガヤと別室でミーティングが行われていた。調教スタンドでケイコの監督をしていた小野寺が帰ってくると、美琴が改めて挨拶に出向き、厩舎所属である町村の今後の騎乗依頼に関する取り決めを確認して、ダブルブッキング対策について簡単に話し合った。
「美琴さん、アイスありますよ」
「あ、欲しい欲しい! ありがとう香澄ちゃん」
契約に関する大まかな話合いが終わっても、美琴は厩舎スタッフたちに担当馬の話を聞きまわったりと忙しくしていたが、いつの間にか香澄との世間話にすり替わり、仕事そっちのけで笑い声が聞こえてくる。
町村はと言えば、美琴が用意してくれた馬の資料を端末で調べつつ、彼女たちが取り上げていた競走馬の話題に耳をそばだていた。
「それで王様コスのあの子は最近どうなの?」
言わずもがなオベイロンの話だろう。
「もう大変なんですよ。我儘で聞き分けなくって、自分の気が向いたときにしか動こうとしないから、調教の前が一番大変なんです。追ってる時もなんかこう、ズブい感じで、なんていうか……見た目通りで『俺は王様だぞ』って感じですね」
「あはは、知れば知るほど面白い馬だよね。彼の特集したらきっと人気出るわよ」
「それは良いんですけど、結果に繋がってくれないと困るんですよねぇ」
「中央デビューはまだなの?」
「いまの感じだとまだ先になりそうです。秋には出すと思いますけど」
なるほど、と美琴が聞き出したことを抜かりなく端末にメモしていく。
「それでなんだけど、騎手とかはまだなのかな? どうせだったら町村くんとかどう?」
唐突に名前を出されて肩が跳ね上がってしまう。
美琴としては、さっそくお抱えジョッキーの売り込みのつもりなのだろうが……。
ぎこちなく二人の方を窺うと、ジトっとした香澄の目が待ち受けていた。
「美琴さんはこいつを買いかぶりすぎなんですよ。エージェントにまでなってさ」
「だってこの頃の活躍は香澄ちゃんも知ってるでしょう? 近いうちに重賞にだって乗れると思うのよ、町村くん」
美琴が自分を買ってくれていることは知っている。
だがこんな風に褒められる流石に照れてしまう。
「な、なははは——そうですかね?」
「調子に乗んな」香澄が釘をさしてくる。
客観的に自分のやっていることはやはり常識外れにも見えるだろう。美琴なんかはそこを評価してくれて、エージェントまで引き受けてくれた節がある。
だが香澄から下される採点は常に辛口だ。もしかするとオベイロンの事がバレていて、その上で警告しているんじゃと思うほど見る目が厳しい。
「いやいや私はちょっと町村くんに期待しちゃうなぁ。オベイロンともいつもお喋りしてるでしょ? なんか物語の予感がしちゃうんだよね」
「あんた! あれ人前でもやってるわけ? 恥ずかしいからやめなよ」
飴と鞭がこうも立て続けに来られると、飴も鞭も投げつけられている気分だ。
「お前だって馬に話しかけたりするだろ」
「あんたのはマジでやばいから」
こんな小競り合いすら記者にとってはネタになるのか、端末にメモする美琴の手は止まらない。
「それで、町村くん。実際どうなの? 君は馬とお喋りできちゃうの?」
「いや、だからそれは——ただの愛情表現というか……」
あの傲慢で憎たらしいオベイロンに愛情表現だなんて!
心にもないことを言ってしまった。愛情を抱くどころかこっちは命を握られているんだ。あの馬はそんな可愛らしい生き物じゃない。こうやっていつまでも頭のおかしい奴扱いを受けるなら、オベイロンとのコンタクトの方法を考え直す必要があるのかもしれない。
毛色の異なる女二人からの追求はそれからしばらく続いた。
「それじゃあ町村くん、また連絡するわ」と帰り際の美琴だったが、一度外へ出て直ぐに戻ってきてしまった。
「なんか車来てるよ。お客さんじゃない?」
言われて窓から覗いてみれば、イタリアの高級車が厩舎に乗りつけていた。
車を持っていない町村でも、それが数千万は下らないものだとわかる。
しかも跳ね馬ではなく牛エンブレムの方だった。
こんな高級車を乗り回しているのは大抵が馬主だと思っていたのだが、降りてきたのは成金紛いの派手派手しい柄のTシャツにハーフパンツとサングラス。ここを観光リゾート地か何かと勘違いしているような出で立ちの若者だった。
「あれ……」
「嘘、もしかしてあれって柴崎浩平? どうしたのから——っていうか、やっぱあの辺のジョッキーってすごい車乗ってるのね」
はぇぇ、と感嘆する美琴の隣で、町村は複雑な心境だった。
上手く処理できない気持ちに蓋をしたままだからだ。
そして、それは恐らくお互いの胸中に渦巻いている。
明確に言葉にすることも無く、じりじりと身を焦がし合うような居心地の悪さ。
「ああ、先輩! どうもーお邪魔しますね」
「どうしたんだよ、突然」
無遠慮に事務所に上がってきた浩平は、へらへらと薄ら笑いを浮かべてサングラスを上げて頭に差した。
「ちょっと騎乗馬の件でお話がありましてね……」
「騎乗馬?」
馬など選び放題であろう柴崎浩平が、わざわざ中堅の小野寺厩舎の馬に乗るのだろうか。
そのことに違和感を感じていると、浩平は誰かを探すように事務所を見回し、首を伸ばした先の大仲で人影を見つけると「あ、いたいた香澄ちゃーん!」と声を上げて呼び立てた。
その呼び声に一瞥を向ける香澄だったが、一度視線をやっただけで手首の電子タトゥーを操作し、管理している馬の状態を書き込む作業に従事している。
「おーい! 香澄ちゃんってば、聞こえてるんでしょ? 香澄ちゃーん!」
この素っ気ない態度にも浩平は物怖じしない。
煩わしいくらい香澄の名を呼び続けていると、彼女は明らかに不機嫌な様子で「なにさ」と億劫そうに立ち上がった。
「やっと来てくれた。お昼まだなんじゃないかなって思ってさ。いや、それはついでね。今度、俺がニシノライラックの屋根になるじゃん? だからさ、『色々』知りたいんだよ。昼飯ついでに話聞きたいなーって」
「そんなの厩舎で直接ライラックみたらいいっしょ。いくらでも話してやるわ」
さすが難攻不落と囁かれるほどガードが堅い香澄だったのだが、小野寺がひょっこりと給湯室から顔を出した。
「良いじゃないか香澄、ニシノライラックはなんとか重賞を勝たせたい。柴崎君は次から主戦騎手になるかもしれないし、せっかくのお誘いだ。話を詰めてきなさい」
「小野寺先生! ご無沙汰してます」
「こちらこそ。たまには外に出してやってくれ。二時くらいまでは大丈夫だから」
「ありがとうございます先生。じゃあ、娘さんちょっとお借りしますね」
香澄の父親からの援護射撃という何よりの応援を受け、浩平は愛想良く笑って見せた。こちらにちらりと視線を寄越した彼の顔が、一瞬勝ち誇ったように見えたのは気のせいか。
得体のしれない感情に胸が騒めき、自分の表情が強張る。
思わぬ横やりに逃げ道が封じられた香澄は口を尖がらせて「面倒くさいな」と悪態を吐きながら小野寺厩舎のロゴが入った帽子を被った。
「ほら、行くならさっさと行こう」
「おっし、じゃあ行こう。ちょっと時間あるし何が良い? フレンチ、それかイタリアンとか。ドレスコード無いけどいいとこ知ってるし、御馳走するよ」
「松乃屋の牛丼」
「えぇ……」
事前にレストランの下調べでもしていたのか、香澄のあり触れた大衆的チョイスに浩平はガクッと項垂れた。
騎手がお世話になっている厩務員に食事をご馳走することは珍しくない。
自分だって近場だが、最近は宮下厩舎の厩務員に寿司をご馳走したりする。
馬を仕上げるのは調教で攻めることも大事だが、攻めることができる状態に持っていく過程も重要だ。馬が怪我をしないようにウォームアップで一時間でも二時間でも根気よく付き合い、調教での疲れが残らないように飼い葉やマッサージでケアをして、日々の生活のあらゆる面倒を見ている厩務員の存在が必要不可欠。
厩務員の推薦によって調教師が鞍上に据えてくれたりする例もある。
だからこそ騎手は厩務員に感謝する——しかし、浩平が同じような精神性を有しているかと言われれば……数々のヤンチャな噂は公然の秘密だった。
それでも、自分は単なる幼馴染に過ぎないし、香澄の彼氏でも何でもない。
後ろ髪を引かれる思いで、二人が乗る車を見送るしかなかった。
どうしてこんなことで自分がヤキモキするのか、この感情も上手く呑み込めない。
「柴崎のバックには大牧場があるからね。覚えを良くして置いて損はないだろう。ふふふ」
訳知り顔で呟き奥へと引っ込んでいく小野寺。
その背中が消えるのを見計らって美琴が「先生ったら悪い顔」とぼやく。
「調教師としては、身内に柴崎グループが居れば良い馬が回ってくるかも、なんて考えてるのかもしれないわね。それに玉の輿だし。でもちゃんと香澄ちゃんのこと考えてるのかしら……ま、いってもしょうがないか。私もそろそろ戻るわ、じゃあね」
一人残された町村の足は自然と厩舎へと向いていく。
事務所の壁際に駐車していた自分のスクーターが目に入り、嫌でも浩平が乗ってきた高級車と比較してしまう。
騎手としての格を見せつけられたようで、情けない気持ちになっていることに気が付いた。
しかし自分は金の為に騎手になったわけでもないし、金の為に騎手を続けているわけでもない。注目されてちやほやされたいからでもなく、女にモテたいからというのでもない。
なら、自分はいったいどうして騎手を続けるのか——オベイロン云々を除いて、騎手を続けてどうしたかったのか——自分の未来がぼやけて、よく見えない。
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