一章 サラブレッドの王様 2
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「サルよ、余をこれほど待たせるとは、貴様は自分の立場が分かっておらぬようだな」
居丈高な口ぶりで人を見下すのは、馬だ——馬が喋ってる。
いや、正確には馬の口は声と同期してない。どこかにスピーカーがあってドッキリでも仕掛けられているんじゃないだろうか。町村はきょろきょろと辺りを見回して声の発生源を探したが、馬房を覗こうとした瞬間に王様コスプレ馬が噛みつこうとしてきた。
「うわッ」
「何を考えておるのかわかるぞ、サルよ。小細工などあるはずもなかろう。なぜ余が貴様の前に現れたのか、わかっているはずだ——のう、サルよ」
オベイロンに真正面から見据えられて身体が強張る。
目の前で起きている現象を受け入れられず、パニックに陥りながらも思考の奥底ではわかっていた。この喋る馬の王様は、夢で見たキングオベイロンで間違いない。夢だと思っていた馬が現実に顕れてしまったのだ。しかしここまであからさまな異変となると——。
「夢か、ああそうか夢なんだな。俺はまだ夢を見てるんだ」
「夢ではない。貴様は夢の中で余の王国を訪れたではないか。そこで何をしたか、もう思い出したのではないか?」
町村は後退さった。夢の出来事は覚えている。
この珍妙な馬を見た瞬間から全部思い出していた。
「貴様には契約を履行してもらう。そのために余は馳せ参じた」
「契……約?」
そういえば、夢の中で意識が遠のく前にそんなことを言っていたような——あの時の光景が脳裏に過ぎると、途端に顔が熱を持ち始め、まるで焼き印でも押されたかのような激痛に襲われた。
「あれ……痛——あっつ……ぐっ、ぁああ——ッ! 待って、これ、これなんだよ!」
町村は突如襲い掛かってきた顔面の激痛にもだえ苦しみ、厩舎の床を転げまわった。
自分では制御できない痛みと熱が暫く続き、クツクツと嘲笑するオベイロンが蹄をカンと打ち鳴らした。
「喚くでない。痛みはもう引く。自分の顔をよく見るが良い。そして受け入れよ、契約の証を——」
言った通り、顔の痛みは直ぐに引いていく。ふらつきながら立ち上がった町村は、自分の顔を確認すべく、馬房に提げられている水の入ったバケツを覗き込んだ。
顔面には、赤々とした蹄鉄の痕が刻み込まれている。
呆然と自分の間抜け面を暫く眺めていると、蹄鉄の痕は次第に消失していった。
「契約は成立しておる。サルよ、選択肢は無い。これからは余の従僕として働くのだ」
「契約って……破ったらどうなるんだよ」
「死んでもらう」
清々しいほど直球の脅し文句だ。しかも騎手の分際で馬に脅されるなんて情けないったらない。しかし先ほどの目が飛び出そうになるほどの激痛が脳裏をよぎる。
冷や汗が止まらない。いったい自分はどうなってしまうのだろうか。
「なにを……すればいいんだ」
「貴様は余の使命の一助となるのだ。拒否することは許さぬ」
「使命って?」
「馬の王たる余の使命それは——サラブレッドの救済である」
頭をガツンと殴られるような衝撃だ。
よりにもよって、それを騎手で生計を立てている自分に言うのか——。
まさか動物愛護団体の隣でプレートを掲げて競馬廃止を叫ばせようと――そんな考えが瞬時に巡り、町村は裁判の被告人席にいるかのような戦々恐々とした心持になっていた。だが、オベイロンから語られた言葉は意外なものだ。
「我が同胞たちは貴様らに搾取されておる。この現状を打破すべく、余は弱者の救済に乗り出さねばならぬ。貴様らサルに種の選別をされる謂れなどないのだ。その傲慢を余が正す——そのために、貴様には弱者を勝利させてもらう。彼らに未来を作ってやるのだ」
「……」
正直なところ、ホッとしていた。競馬を廃止させろなどという、自分の手に負えないような話ではなかったことが救いだった。
だが、すぐにオベイロンの要求に疑問が持ち上がる。
そして、決して安請け合いできる類の話でないことに気づいてしまった。
競馬には、強い馬を負けさせる騎手は居ても、弱い馬を勝たせる騎手は居ない。
レースを決めるのは馬が七割、騎手が三割。馬の力が四しかなければ、騎手がミスなく乗れたとしても十全の馬にはとてもかなわない。これが業界の定説だ。
「あ、いや……む、無茶だよ。どうして俺なんかが、そんなスーパージョッキーにみたいな真似できると思ったんだよ! できっこないぞそんなの!」
自分には荷が重いと激しく反論した町村だったが、オベイロンはブルフフ、と鼻を鳴らして蹄を打ち鳴らした。
「びくびくするでない情けない奴め、おのこであろう。元から過大な期待などしておらぬわ。余が力を貸してやる。その力を持ってして、余が使命を果たすために働くのだ」
そこまで言われて、既に逃げられるような状況でないことを悟った。
力を貸すとは、いったい何だろう。自分の負担はどれほどのものなのか。
ただの痩せ馬でしかないはずのオベイロンが、やけに大きく、そそり立つ壁のようになって立ちはだかっているような気がした。
町村はこの先に待ち受けるであろう苦労を思い、諦念のため息をついて頭を抱えた。
「わかったよ、もう……好きにしろ」
「あの娘が帰ってきたな」とオベイロンが呟いた。あの娘というのは、獣医に電話を掛けに行っていた香澄のことだろう。
そして、その原因であるオベイロンの問題を思い出した。
「そうだ、話せるなら話が早い。どうしてお前、飼い葉を食べないんだよ。腹減ってないのか? このままだと馬体がどんどん減って、ケイコもできなくなるし、香澄の問題にもなっちまう」
ただの馬ではないことは確かだが、馬体の減り具合から見て食べなければ死んでしまうのは他と変わらない。そういった純粋な疑問から尋ねたのだが、オベイロンはふふん、と嘲笑う。
「余を出しにあの娘に気に入られようとしておるのか?」
「なっ、違う! 話を逸らすなよ!」
「余には余のことなどわからぬ」
なんだそりゃと、意味不明の回答に立ち尽くしている間に香澄が戻ってきた。
「まだ居るし。あ、オベイロン虐めてたんじゃないでしょうね?」
あきれ顔から綺麗な柳眉がすぐに吊り上がった。
「だから、そんなことするわけないだろって! なあオベイロン? ほーら、ちゃんと食べないと干からびるぞぉ」
また奇人を見るような眼を向けられるのは苦痛だ。どうにか誤魔化そうと町村は飼い葉をすくい、食べさせるふりをしながら彼の耳元に顔を近づけた。
「いいか、絶対に喋るなよ。競馬じゃなくてサーカス小屋に売り飛ばされることになるぞ」
別に自分を脅すこの馬を擁護してやる義理は無かったが、こういう時はセオリーとして他人には秘密にするものと思ってのことだったが、
「余の声は契約を結んだ貴様にしか聞こえぬ。要らぬ心配するでない小心者め」
「あーはいはいそーうですかッ、そらメシだぞ食えよぉ」
度重なる高慢な態度に少々カチンときた。王様だ呪いだと言えば何でも従順になると思ってるのか。馬は馬だ。町村は引きつった笑顔で飼い葉をぐりぐりと口元に押し付けてやったが、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
「可愛くねぇ」なまじ言葉わかる分、余計に可愛くない。
「なにさひとりでぶつくさ言って。さあどいたどいた、いい加減外回りしろっての」
煩わし気に香澄がシッシと手で追い払おうとしてくるが、まだ退くわけにはいかない。
「いや、まだ俺はこいつに話があって——」
「はぁ?」
いよいよ不信感が掻き立てられてきたのか、香澄は素っ頓狂な声を上げた。
「あんた本当にどっかおかしいんじゃないの?」
困った。まだ聞きたいことが山ほどあるというのに、こんな状態で営業なんてできるわけない。だが香澄に不審がられたら、本当に病院送りにされてしまうかもしれない。
町村はしどろもどろになって弁解しようとするが、どうにも風向きが悪い。
出直すしかないかと思ったその矢先。
「よっこらせ」という声が聞こえたかと思えば、出入口から調教師の小野寺が姿を現したのだった。彼は薄くなった頭に厩舎オリジナルのキャップをかぶり、ビール腹の腹には大きな段ボール箱を抱えていた。その姿だけを見ると、定年間際にリストラされてしまった中年サラリーマン感が半端ではない。
「おや、ユー君じゃないか。もう出てきて大丈夫なのかい?」
「先生、御迷惑おかけしました。レースはまだですけど、調教なら乗れます」
娘とは違い、開口一番に気遣いの言葉をかけてくれた小野寺に対し、先日の落馬の件を謝った。先生、というのは調教師に対してしばしば使われる敬称だ。
「いやいや良いんだよ。酷いけがじゃなくて本当によかった。何かあったら正治さんに申し訳が立たないからね」
「ちょっとお父さ——テキ! こいつ病院に戻してよ。ぜったい頭かどっかやっちゃってるんだ」
ひどい言われようだが、はた目から見ればこれが正しい反応なのかもしれない。ちなみにテキというのも調教師の事を指し、騎手という文字を逆から読んた手騎から来ている。
「香澄、そんな汚い言葉を使う子に育ては覚えはないよ。お父さんは悲しい」
おいおいおい……と泣き真似をして娘を嗜める小野寺に、香澄は口を窄めて不満顔だ。
すると、香澄は小野寺が抱えている段ボールに気づいて指摘した。
「それ、何はいってるの?」
「これかい? これはね、オベイロンの馬主さんから預かったオベイロンの私物だ」
馬の私物とは——町村も香澄も首を傾げた。
「変わった馬だからね」と気にしていないらしい小野寺は段ボールを床に置き、中身を見せてくれた。
段ボールの中には、畳まれた真っ赤なマントや用途不明の白い布巾、その他にも種々雑多な高級ブランド品の馬具や、単なる装飾の類が所せましと収められていた。
「まるで王様だな」と呟けば、背後からブルフフと鼻息が聞こえてくる。
「余は王である。当たり前のことを申すでないぞ。貴様は認識を改めるべきだ」
当然のように喋りだすオベイロンにうんざりし、町村は「わかったから」と投げやりに返事をする。だがそのやり取りを香澄は見逃ずに見咎めた。
「ほら、やっぱり馬と喋ってる。病院戻った方が良いよ」
「香澄だって馬に話かけたりするだろう? それと同じじゃないか。もうその話は止めなさい。父さん本当に怒るぞ」
あたしのとは全然違う、と気勢をそがれた香澄は不貞腐れたように視線を逸らした。
「もういい——あ、そうだ。それよりオベイロンが飼い葉どころか水も飲まないの。さっき獣医に連絡したから」
寝耳に水だったのか、小野寺の柔和な表情は一瞬で曇り、眉間に皺を寄せて馬房に近づいた。
「なんだ、あれからずっとじゃないか。それは心配だな」
彼は馬栓棒を潜って馬房に入ると、オベイロンの身体を隅々手で触って検診していく。表面的な異変が顕れていないかチェックしているのだ。
町村はその様子を、小野寺親子とは違った視点で観察していた。
どうしてオベイロンは何も食べないのか。何を意固地になっているのか。何にせよ、何も食べなければ本当に餓死してしまうし、立っている体力すら失ってしまう。立つことのできない馬に待ち受けている未来は死だけだ。このままだと本当に死ぬかもしれない、と思うと、何となく後味が悪かった。ついでに、自分も道連れにされるんじゃという考えも過ぎっていた。後味どころじゃない、それじゃ犬死だ。
「どうして食べないんだよ」と再びオベイロンにこっそりと耳打ちした。
「余は王である。王には王の作法が必要だ。しかし、このままでは餓死してしまうだろう。なればこそ、見事、このオベイロンに食事をさせてみせるがよい」
なんて偉そうなやつだ。自分の生死を逆手にとってここまで尊大な態度を取れる奴なんて見たことない。いや、自殺志願者が自殺するぞ騒いで警察に囲まれている映像を見たことがあるが、まるでそれだ。
しかし、その挑発的な口ぶりからして、体調不良ではないのかもしれない。
馬を支配する人間に対する反発か、ただの嫌がらせか。
「なんのつもりだよ」と町村はオベイロンを睨みつけ、ムムムと考えてみることにした。
視界の隅で、段ボール箱をあさっていた香澄が高級そうなブラシを取り出し「これ使わないとだめなのかなぁ……」と困っている。
そして彼女があの謎の白い布巾を手に取って広げていた。
いったい何に使う布巾なのだろう。ハンカチにしては大きいし部厚ように思える。
それにただの布を入れたってしょうがない。
布巾を広げた張本人の香澄は、その異様に大きな布に目を白黒させ、「何に使えってのさ」と不満を漏らして膝の上で畳み始めた。
「あ」と声が出てしまった。香澄の膝に乗せられた布巾がどうにも、アレに見えて仕方がない。加えてオベイロンの発言だ。
ことキングオベイロンという馬に対しては、馬として扱うことは止めよう。
町村はそう心の中で決意し、香澄からその布を取り上げた。
「ちょっと、せっかく畳んだのになにすんのさ!」
「借りるぞ」とだけ断りを入れ、バサッと布を広げて——オベイロンの首に巻き付けた。
「な、なにしてんの?」
怪訝そうに立ち上がる香澄を無視して、町村はオベイロンに真正面から向き合った。
「これで宜しいですか、陛下」
オベイロンはブルフフフ、と鼻を鳴らすと、飼い葉桶に顔を突っ込んだのであった。
「うそぉっ!?」と驚愕する香澄。
「ははぁぁあ——これはたまげた……」と逆に感心するような声を上げる小野寺。
それと同時に、小野寺の携帯端末がバイブレーションで着信を伝えた。
「あ、馬主の近藤さんからだ。えぇと、なになに……伝え忘れた、と。オベイロンに飼いつけをするときはちゃんとエプロンを巻くこと、毎日の飼い葉には味に変化を加えること、マントは二日置きに洗濯し、エプロンは毎日洗濯、どちらも欠かさず着用させてやること、梨は定期的に与えること、王冠は調教とレース時以外は外させてくれない——だってさ」
「えぇえええええ——ッ!?」
オベイロンの馬主らしき人物からの要求に香澄は悲鳴を上げて絶望する。ただでさえ激務の調教助手の仕事に加えて、個性派の難題な要求が突き付けられたのだ。
随分と、面倒な新入りが入ってきたものだ。
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