三章 業界の力学 4
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クラブ馬が転厩となり伽藍となっていた厩舎は、放牧に出されていた馬たちが帰ってきたことで一時的に埋められた。
視覚的に馬房が満たされて活気を取り戻したと錯覚してしまうが、小野寺厩舎が今年管理していた馬は六〇頭。
先週の転厩事件で一八頭もの管理馬を失ってしまい、現在は四二頭。
馬は常に厩舎に置いてレースに臨めるわけでは無い。
一度のレースにかかる負担は大きく、馬体重も大幅に減少してしまう。
体調を整えるためには放牧に出し、身心をリフレッシュさせる必要があった。
放牧と外厩(トレセン外にある競走馬の管理施設)、厩舎で馬を入れ替えながら、使うレースを見極めている。
なので管理馬の母数が減ってしまうと、馬の体調も加味し、使用できるレースが限られてくる。ともなれば、レースで獲得できたかもしれない賞金は手に入らず、当然厩舎の経営に響くのだ。
厳しい状況は次の新馬が入るまで尾を引くことは間違いない。加えて、手塩にかけて育てていた馬を失った厩舎スタッフの傷心も気がかりだった。
香澄は元気づけてやりたかったが、担当馬を失っていない自分が軽々しく発言しても説得力がない。
首元まで出かかった言葉も堪えて呑み込んだ。
もどかしい思いを抱えながら事務所で雑務に没頭していると、父の勲が疲れた顔をして帰ってきた。
「ただいま。なんだい香澄、まだ居たのか」
「おかえり」
小野寺勲はこの一週間駆けまわっていた。
既存の馬主に事情を説明し、新しい馬主候補を紹介してもらうと、そうした新規のオーナーの接待に出なければならない。最終追い切りの水曜日とレースがあった土日以外は、ずっと出張していた。以前勤めていた商社の社長からも紹介を受け、三人の個人馬主候補を見つけていた。
「いやぁ、何とか話がまとまりそうだよ。土方さんって製薬会社の社長さんでね、新しい馬主候補の方なんだけど、友人を誘って何人か合同で三頭くらい持ってみようかって前向きに考えてくれてるんだ。僕の営業手腕もまだまだ捨てたもんじゃないね」
「まだ三頭ぽっきりじゃ空いた穴は埋められないっしょ。ねえお父さん、お姉に誰か紹介してもらおうよ。お姉だったら芸能人とかテレビ関係の伝手があるよ」
小野寺家は父の勲、母の香織、姉の詩織、そして自分の四人家族だ。
姉の詩織とは三つ歳が離れており、彼女自身も騎手として活躍している。
だが見た目が世間に受けたのか、最初の数年でメディア露出が増え始め、芸能事務所にも所属するようになっていた。競馬界での所属はリットウのフリー騎手で、既に独り立ちしている。
今はオーストラリア遠征で武者修行中——とはなっている物の、度々テレビを点ければスポーツ特番やワイドショーに顔を出していることから、信条として姉の動向を良く思っていなかった。
『しおりん』なんてニックネームでチヤホヤされている姿を見るにつけ、チャンネルを変えたくなる衝動に駆られてしまう。
「いやいや、詩織は自分の世界の確立しているところだからね、今が大事なんだ。実家の面倒事に巻き込むわけにはいかないよ」
「そんなん言ってもさ、ちょくちょく日本のテレビ出てるし、ふらふらしてもう騎手なのかタレントなのか分からないじゃん。ちゃんとオーストラリアで競馬やってるかも怪しいし……この間なんかさ、フリフリの衣装着て踊りながら歌ってたんだよ? そのうち『単独ライブしたい!』とか言い出しかねないよ」
「あっ! そうだった……母さんちゃんと録画しておいてくれたかなぁ」
こちらの意図をまるでくみ取ってくれない父に辟易として、香澄はため息をついた。
どうにもこの調教師は、競馬に対する思い入れが弱いというか、意志薄弱というか。
騎手ならば騎手らしく馬に乗れ、と一喝してくれたどれだけスッキリするだろう。
「親ばかにもほどがあるっしょ……」
管理馬の数は今のままでも厩舎を維持することはできるが、導入したての競走馬用の治療器具やサプリ、外厩などはこれまでの管理馬がある程度賞金を稼ぐと見越して購入した物だ。採算が取れない事態に陥っては元も子もない。
やはり管理馬は多いに越したことはない——新馬の入厩予定は今のところ無いのだが、管理馬を増やす方法は他にもある。
香澄は端末からNRAのホームページに飛び、とある競走の日程を確認した。
クレーミング競走。
出走馬全てが売りに出されている競走で、現役の競走馬を購入することができる。レースが始まる前に購入を決めれば、レース後にはその馬のオーナーになることができるのだ。(賞金は元の馬主の物だが)
この方式であれば、新馬のようにデビューまで数年待たされることもなく、すぐに競走馬のオーナーを愉しみたいという馬主の要望を叶えられる。
ところが、夏の売却競走は終了——という一文を見つけてしまい落胆した。
しばらくはこの状態が続くことになる、香澄はそう悟って、暗澹たる面持ちで端末を閉じた。
数日が経ち、転厩事件後の状況にも慣れつつあった昼下がりのことだった。
業務を終え、今週はほとんど馬をレースに使えないことを厩務員たちと愚痴っていると、事務所の電話が鳴り響いた。今しがた外回りから帰ってきた勲がテーブルに着いた瞬間だったので、彼が気の抜けた息を吐き出しながら受話器を取って応対していた。
気にすることでも無かったので、大仲にたむろしていたスタッフたちに上がって良いと伝えて彼らを先に帰らせる。番頭の別所も同様だ。
管理馬が減ったことで収入の大幅減を見越し、今現在の宿直は自分か父の勲が当たっている。
これまで通りスタッフで回すと宿直手当が発生してしまうので、苦肉の策だ。
家族経営の利点に悩まされつつ、もう一人使える人材が脳裏を過ぎる。
最近何をしているのか、やたら乗鞍を減らしている幼馴染だ。
せっかくレースで見るようになったというに、あの男はいっちょ前にも馬をえり好みしているらしい。
自分の立場を理解しているのかと叱りつけたかったが、逆に調教での騎乗数を増やして意気揚々と様々な厩舎を駆け回っている姿をよく目にする。
暇なら彼に宿直を任せようかとも思ったが、余人には理解できない信念らしきものに衝き動かされている——と、記者の美琴に聞かされたばかりだ。
であれば、邪魔をする気にもなれない。
これまで小野寺厩舎では、町村という所属騎手が居ても、馬主の要望により既に主戦騎手が他に決まった馬ばかりを管理してきた。
結果的に彼を冷遇する形になっていた為、父の勲も度々申し訳ないと零すほどだ。
個人的には、騎手を辞めて正式に調教助手になればいいのにと思う事もある。
しかし子供の時分、夢を語り合った光景があまりに眩しくて、軽々しく口には出来なかった。
あいつは今何をしてるだろうか——またオベイロンにちょっかいを出してはいないか——厩舎に行ってみよう——香澄がそう思い立った矢先のことである。
ガタンッ、と椅子が倒れる音に驚き身体が強張る。
何事かと思い大仲から事務所を覗き込むと、父が額に浮かべて苦悶の表情をしていた。
「ま、待ってください大野さんッ! 何だって突然そんなことを言い出すんです!?」
大野。
香澄は馬主関係で大野という苗字の人物を思い浮かべ、ELウェストの馬主事業を取り扱う子会社にそんな人が居たとに気づく。
「こっちも生活がかかってるんだ、そんな一言で納得なんて出来ませんよ。西野社長と話をさせてください——うち以外におたくの馬を預けたからってすぐに結果に繋がると? 大野さん、そんなのあんたが一番わかってることじゃないか。元トラックマンのあなたが分からないはず無いじゃないですかッ! ライラック? 何を言ってるんだ、ライラックは——あれは先代の所有馬でしょうが! えぇ、ええ……すみません、つい熱くなってしまいました。ええ、わかりました。私が、直接向かいます。ええ、今から——」
話が終わると、父は直ぐに慌ただしく準備を整えて外へ飛び出していった。
その間、香澄は話の内容を問いただすどころか、大仲から出ていくことすら出来なかった。
胸の奥がぎゅっと窄まり、足にも力が入らず、その場に蹲ってしまう。
父は西野社長に会わせて欲しいと訴えていた。
ライラックの名が挙がったことから、ELウェストの馬主事業部からの連絡であることは明白。
あとは聞いた通り——ニシノ冠の馬を転厩させるといった話に違いない。
そうでなければ、温厚な父があんな剣幕で声を荒げたりするはずがないのだ。
不安だった。
いま、ニシノの馬を取り上げられてしまったらこの厩舎は終わりだ。
第二の我が家ともいえるこの小野寺厩舎が無くなってしまうかもしれない。
父親が失業する——自分もここに居られなくなる——ライラックとも離れ離れになるかもしれない。せっかく仕事のイロハを覚えて、大変ながらも充実してきたところだったのに、厩舎の仲間とももう一緒に居られなくなってしまう。あいつとも——。
考えれば考えるほど不安は膨れ上がるばかり。
香澄は一人ぽつんと、外が薄暗くなるまで大仲の床に座り込んでいた。
時間も忘れて不安に取り巻かれていると、これからのことに考えが及び、昏く湿った未来を幻視して動悸が早くなる。上手く呼吸が出来ず、思考に感情が流れ込んで物事を上手く読み解けない。
どうしてニシノが馬を引き上げるのか、なぜここまで転厩騒ぎが続くか——考えられない、心細くてしかたない。
誰かに助けてもらいたかった。
このまま独りでいたら不安に押しつぶされてしまう——。
香澄はふらつきながら立ち上がり、過呼吸のように乱れた息を落ち着かせながら窓辺に取り付いた。
すると、外の流し場から水を流す音がして、窓から覗いてみれば事務所の直ぐ傍に町村の姿があった。
こんな時間まで何をしているのか——そんな些細な事はどうでもよかった。
この苦しみから少しでも逃れたい、その一心で香澄は玄関口に向かった。
◇ ◇
赤々とした果肉と黒い種がこびり付く金たらいを水で洗い流していた。
傍には切り整えられ、食べ残された緑と黒の模様の外皮がいくつも転がっている。
夏と言えばスイカである——と言ったのはもちろん自分ではない。
昼間、オベイロンに言われるがままにスイカを買ってきて、先ほどまで水を張ったたらいで冷やしていたのだ。
人目が無くなった頃を見計らい、スイカを切り揃えてオベイロンや物欲しそうな馬たちに分け与えていた。
なんと従順な召使だろう、自嘲気味に笑ってため息を吐く。
ここまで尽くす見返りを、果たして自分は手に入れられるのだろうか——それともやはり、馬車馬は何も得られないのだろうか。
先週は土日を合わせて二鞍だけ。
せっかく新規の厩舎から依頼が舞い込んだかと思えば、その馬は強いからダメときた。
そんな顔見知り程度の縁の薄い厩舎にとっては、無理に町村を乗せる理由などない。
それならばと、新人の減量特典の恩恵に与ろうとするのは当然の選択で、以降はプッツリ。連絡はない。
馬の承認が無ければ馬に乗れないだなんて情けない話である。
懇意にしている宮下厩舎も、条件に見合う馬をいくつも揃えているわけではない。
ひと月前まで乗っていたレッドジャスティスは、自分が教え込んだゴール板を毎レース、返し馬の時に確認しているようで、折り合いの意味も理解していた。
自分を乗せぬまま、ついこの間オープン馬(クラスの中で最上位に位置し、重賞を主戦場に出来る格付け)へと昇格してしまった。
オベイロンを伴う調教を施した馬の中で、一番の理解力を持っている馬だった。
あの馬に自分が乗れたならと、未練がましくレースを見つめていた。
「やっぱおかしいよな……強い馬にも乗って、まず名前売らないと。じゃなきゃ結局、弱い馬にだって乗れないじゃんか。ああくそっ! バカ馬め! 頭が固いんだよ」
頑固なオベイロンに苛立ち、乱暴にタライをブラシで洗っていると——地面を踏みしめる音がした。
「誰の頭が固いって?」
顔を上げると、同期の新堂翔だった。
彼は普段、兵庫県のリットウトレーニングセンターを拠点にしているので、このミホで会うことはほとんどない。数少ない友達との交流になんら不満なんて無いが、脈絡なく突然出くわすと戸惑いが勝ってしまう。
それに、彼はスーツ姿でやけに身なりを整えていた。
「翔じゃん。なんだよ、どうした?」
「いやさ、たまたまこっちの新馬で騎乗依頼があったもんだからさ。そうしたら馬主さんに会いたいって言われて、わざわざ正装してきたわけ——っていうのと、ちょっと嫌な噂を聞いてさ。お前の顔見に来たんだ」
新堂の顔に陰りが見えた。恐らく小野寺厩舎の窮状が耳に入っているのだろう。
相変わらず面倒見が良い奴だった。
「なんだ、知ってたのか」
「他人事みたいに言うなよ。この件、裏で柴崎が動いてるって話だ。それに、浩平とよくつるんでる後輩にも問い詰めたんだ。浩平のやつ、香澄ちゃんにフラれたって言うじゃないか。完全に逆恨みだよ。ダサいにもほどがある」
「ああ……」
内情を知ったところで、何ができるだろう。自分たちの手が届かない所から、この厄災は降り注いできている。
柴崎に逆らえる騎手や厩舎が、果たしてこの業界にどれほどいるだろう——そこに思い至ってしまい、転厩問題に絡むことは半ば諦めていた。
自然災害のように、じっと嵐が過ぎ去るのを待つだけ。
絶対的権力を振るう大牧場に膝を突くほかない現状を鑑み、二人で諦念を吐露していると、ガラ、と突然に厩舎の戸が開け放たれ、二人は言葉を失った。
青ざめた顔の香澄が、そこにいた。
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