三章 業界の力学 5
5
香澄の瞳には、自分はおろか新堂の姿も映っていなかった。
会話を聞かれたことは間違いないようで、茫然自失と言った様子にみえた。
まさか本人が居るなんて予想だにしていなかった新堂も言葉が出て来ず、町村も何か声を掛けなければと焦りるばかりで、だがこの状況下で何を言えばよいのか、適切な言葉が見つからない。
男どもが狼狽える中、厩舎を襲った騒動の原因に自分が居たことを知ってしまった香澄は居た堪れなくなり、逃げるように厩舎の中へと駆け込んでいってしまった。
「ああ……やっちまった。優駿、香澄ちゃんが居るなら居るって言ってくれよ」
額を押さえて憂鬱そうにしゃがみこんだ新堂がぼやくが、それどころではない。
あの夕暮れの中に見た光景から、厩舎の窮状に至るまで——香澄はきっとこの状況を自分が招いたものと思い込むだろう。昔から馬一筋で、馬を預かることから責任の何たるかを学んできた彼女は、恐らく人一倍責任を感じている。厩務員たちから馬を奪ったのは自分だと責めているかもしれない。
今独りにさせたら、全部を背負いこんで潰されてしまう。
「——悪い、新堂。先帰ってくれ」
「は? おい優駿、」
新堂の声を背中に聞きながら、香澄の後を追って厩舎に向かった。
どんな言葉を掛けるべきか、自分が行って何をしてやれるのか、そもそも適役なのか——様々な思いが噴出したが、居ても立ってもいられなかった。
香澄が走りながら厩舎に入ったからだろう、馬たちが首を伸ばして何事かと騒めき嘶いていた。
驚いた一頭の小心者が仕切りに立ち上がろうとしている。
その馬を落ち着かせるために対応に回るが、その間にも、厩舎の中を見渡す。
彼女の姿は無いが、最奥の馬房からこちらを見据える一頭の馬が『言った』。
「サルよ、小娘はここだ」
オベイロンがそう言って、くいっと顎をしゃくった。
ニシノライラックの馬房だった。
「助かるよ、へーか」
「ふん。いきなり騒がしくするでない、我々は臆病な動物である」
こんな時に馬と喋れるのは便利だな、なんてのはどうでも良いことで、問題に当たらなくては。
ライラックの馬房の前へとやってくると、香澄はその中で、ライラックの大きな体に隠れるように膝を抱えて縮こまっていた。
顔は伏せられていて確認できないが、彼女のジーンズに涙で出来た染みらしきものが見受けられる。
この馬房の主はと言えば、この騒ぎにも動じず、至って平静だ。
こちらを見つめてくるライラックは、闖入者の香澄を匿うように体をずらし、出入口を塞いで守りの姿勢を見せていた。自分の厩務員を守ろうとしているのか——そのことに少し驚きはしたが、彼の額を撫でて敵意が無いことを示す。
「香澄」
びくりと彼女の身体が震え、ややあって、くぐもった声が聞こえてくる。
「あたしのせいだ。あたしが厩舎をこんなにしたんだ……みんなの馬が取られたのも、あたしがあんなことしたから……」
後悔の念を口にしながら、彼女は自分を責めて大粒の涙を零していた。
言葉尻はぐずぐずと泣き崩れ、嗚咽のようだ。
町村はこんな香澄の姿を見たのは初めてだった。子供の頃に喧嘩の一つや二つあったものだが、彼女の涙を初めて目にした。その姿が自分にとって苦しいことであると気づき、胸が締め付けられる。
「そんなことあるか、なんでお前が悪いことになるんだ」
「だって! みんなが大事に育ててきた馬を取られて、この厩舎まで無くなるくらいだったら——さっき、お父さんが西野さんのとこと電話してたんだ。きっとうちから馬を移す気だよ。いま西野さんの馬まで引き上げられたら、うちの厩舎は終わりだよ。ライラックも、居なくなっちゃう」
そんな話まで持ち上がっていたとは露知らず、少なからず衝撃を受ける。西野の馬が居なくなるのは小野寺厩舎にとって痛恨の極みだろう。厩舎はダメかもしれない。
だが、今は目の前に起きていることほうが重要だった。
「だから——あいつと付き合えばよかったって? 俺は、お前があの時言ったことが間違っていたとは思わない」
「……見てたんだ」
「悪い」
町村は頭を働かせ、どうにか香澄を慰めるなり奮い立たせるなり出来ない考える。
難しいのはここでいくら香澄に非が無いことを訴えたところで、何の解決にもならないことだ。
所詮、自分たちは馬主ありきの非力な存在に過ぎないのだから。
何か打開策は無いか——そこへ、背後でやり取りを見ていたオベイロンが口をはさんできた。
「政略結婚の話をしておるのか?」
「いま取り込み中」
煩わしいハエを追い払うように手を振って小声で言った。
「貴様らは我らを使って似たようなことをしておるであろう。サラブレッドは自らの伴侶を決められぬ。それと何が違う」
「人間には色々あるんだよ。話をややこしくしないでくれ」
「ふん、サルよ、貴様はいつか吹いておったな。自分は騎士ではなく騎手でえあると。貴様に出来ることなど限られておるし、余はその術を与えた。今こそ、その真価が問われておるのだ——」
何やら仰々しい雰囲気を醸すオベイロンがそう宣うと、厩舎に人が入ってきた。
一人は小野寺だったが、もう一人は見たことのない七〇代くらいの老人だ。
山高帽を被っていて白い口ひげを生やし、高級そうなスーツを着こなす小柄な老紳士。
険しい表情をしていた小野寺だったが、こちらを認めると眉を上げて驚いた素振りをみせる。老紳士も物珍し気に視線を向けてきた。
「先生、そちらの方は?」
「ユー君、まだ残っていたのか。こちら、西野東二さん。ニシノライラックの馬主さんだ」
簡単な紹介を受け、会釈して挨拶をする——西野ということは、先代のELウェストの代表だ。
なぜ今、ここに先代が現れたのかと当惑してしまう。
二人が馬房のそばまでやってきた所で、小野寺は状況を察したように沈痛な面持ちになる。東二は見た目の老いに反して、確りとした足取りでライラックの馬房に歩み寄ると、穏やかに「やあ、香澄さん」と声を掛けた。
「西野さん……」
彼女は泣き腫らした顔を上げ、何か釈明めいたことを言おうとするも東二に制される。
「香澄さんが、ライラックを誠心誠意育ててくれているのはわかっているよ。今回のことは、君が何一つ責任を感じるようなことではない。巷で流れている噂は、馬主仲間からそれとなく聞き及んでいる。私の周囲には、風説の流布に耳を貸さぬよう伝えておいた。だが——」
と区切り、東二は小野寺を一瞥した。それに小野寺は無念そうに目を伏せる。
「私はもうすでに一線を退いて、すべてを倅に任せてしまっている。会社の役員でもないんだ。倅も、あれはあれの結論でしか動かない男だ。小野寺厩舎に預けている馬が、会社の満足に足るものではないというアレの意見も否定できない。小野寺先生も良くやっているし、馬とはそういう物だと分かって、この事業を続けていた私とは違う」
東二の言う通り、馬主のほとんどは儲からない。
馬主を四〇年続けて、やっと一頭のG1馬に巡り合った馬主すらいる。
「倅は会社を私物化しないよう、利益を最大化するために行動を起こしている。アレの考えを改めさせるためには、再考にあたう判断材料を提供するしかない。でなければ、私が何を言ったところで聞き入れてはくれないだろう」
穏やかな口調ながら、厳しい結論を語られてしまい皆が神妙な顔をした。
小野寺厩舎から馬を引き上げる話は、現状では取り消すことは出来ないということだ。
小野寺親子は、視線を落として落胆を色を示している。
「ただ——」東二が静寂を割った。
「競馬ごとで信頼を取り戻すには、やはりレースで結果を出すほかあるまい。私ができることはね、そのお膳立てをしてやることくらいさ」
「と、いいますと?」素っ頓狂な顔をして小野寺が尋ねる。
「近ごろは会うことも無くなかったが、柴崎にも話の分かるやつがいる。柴崎グループからは離れて久しいが、未だ影響力があるだろう。先代の当主である柴崎俊平太だ。あいつとは旧知の仲でね、あいつに——決闘を申し込む」
決闘。
クラシカルな響きにピンと来ない町村と香澄だったが、小野寺だけはハッとして顔を上げた。
「西野さん、まさか、」
「ああ、NRAにマッチレースの開催を申請した」
驚いた。
マッチレースとは、多頭数レースに於いて突出した二頭により、最後の直線での競い合いを指す場合が多い。
だが今回、東二が言っているのは二頭の馬によって競い合うレースのことだ。
最初から最後まで、二頭の馬と、二人の騎手と、二人の馬主よる戦い。
NRA以前の歴史では、馬の消耗や故障率の高さから自然消滅的に行われなくなったマッチレースだが、近代の国際競馬統括連合による支配体制では、数こそ多くないが実際に開催されている例がある。
日本での実施は、自分の記憶にない。なので二十年近く行われていないだろう。
あまりの急展開に足腰の力が抜けそうになるが、逆に香澄は目に力が戻り始めていた。
彼女はライラックの庇護下から立ち上がる。
「でも、そんな馬どこに?」
東二は不敵に笑い、真っ白なで綺麗に整えられた口ひげを触った。
「私の愛馬はもうこいつだけだ。井崎との夢、遂には叶えられんかったが、今でも信じている。この馬の、ライラックの力と、井崎の言葉を——そして、小野寺さんたちの力を」
東二はライラックを通して過去を懐かしむように見つめ、広い額を厳かに撫でてる様は、お前に託すという事を伝えているかのようだ。
「マッチレースとなると、屋根を慎重に選ばなければなりませんね……ここまでして頂いたんだ、トップジョッキーに依頼しないと。ですが、柴崎と関係の薄い騎手となるとこの日本で見つけるのは……」
「さっき表に新堂さんが居たっしょ? 新堂さんなら、今年のリーディングも狙えるくらいの人だし、ちょっとまだ居るか見てくる」
為す術のなかった状況を鑑みれば、希望の光が差し込んだことにより、小野寺親子は活力を取り戻していた。
自分はと言えば、蚊帳の外に置かれていることが多少気になったが、それよりも香澄が新堂にだけ『さん』づけするのが何となく気にくわなかった。
自分と新堂は同い年なのに。
「いやいや、新堂君もかなり柴崎系の馬のお世話になっている。無理に巻き込んでしまったら、彼の将来にも影響が出てしまう」
「だったら……木原オムランとか、呂本輝は? デール・グレイグ辺りなら、柴崎のしがらみに囚われてないし、面白がって乗ってくれるかも」
世界的名手の名を挙げ、騎手選びで白熱している小野寺親子。
正直、厩舎の未来を背をわざるを得ない競走などしり込みしてしまう。
いったい誰がこの重責を担うのだろうか。
競馬界の支配的地位にある大牧場と決闘に臨むことが出来て、柴崎から馬を回して貰えなくなっても問題のない、腕のいい騎手。
その後の人生すら左右されかねないレースだ。
誰なら適任かと考えていると、背中をオベイロンが小突いてきた。
「貴様は何であるか。騎手であろう。貴様に出来る数少ないことの一つが目の前に転がっておるのだ。なぜ手をこまねくことがあろう。余の僕が臆病者であることは許されぬ。気高き炎たらんとする志を示し、ライラックに勝利の栄冠をもたらすのだ」
「無茶言うな、荷が重すぎる。それに、ライラックは二歳王者の二着だ。調子は落としていても、弱くないぞ」
「余は民の力となり、彼らの未来の一助となるべくして使命を果たす。だが、臣下を無碍に扱う王国に繁栄はないのだ」
「いつからライラックがお前の部下になったっていうのさ」
「ライラックは盟友である。おやつの梨を余に分け与えた。余の好物と知ってのことだ」
「たかが果物一つでお前……」
「義を見てせざるは勇無きなり——その胸に刻むが良い!」
ヒヒーンとオベイロンは嘶いき、町村の背中に頭突きを食らわせて彼を押し出した。
「馬鹿ッ、いっ――つ……あ、その」
場の注目を集めてしまい、集まる視線に窮する中、様々な考えが頭を駆け巡る。
ライラックは確かに二歳G1レースを差のない二着で駆け抜けた。
しかしそれからというもの、重賞に顔を出しても掲示板が精々の馬で、準オープン馬くらいの力しないのではとすら思っていた。
今回の東二がぶち上げたマッチレースは、馬主同士による決闘。
頑張ってもG3のライラックに対し、G1級の馬をぶつけられたらどうなるか。
どちらの馬が強いのかを競うのであって、公正な賭けごととは一線を画する。
同じクラスでの競争とはならないだろう。
柴崎の厩舎にはG1級の素質馬がずらりと居揃い、もしG1馬に出てこられたらいかにリーディングトップの騎手であっても勝つのは至難の業。
こんなレースは勝負ならない、どんな騎手でも無理だ。
並みの騎手でも、リーディングトップでも無理……となると?
町村は臆する気持ちとは裏腹に、腹の底からせり上がる可能性に自身の考えを押し流されてしまった。
「西野さん、俺をライラックに乗せてください」
口を衝いて出てしまった一言に、香澄が目を剥く。
「あんた! 何バカなこと言ってんのさ!」
「いやね、ユー君、君の最近の成績が良いのはわかってるんだけれどね、これは失敗が許されないレースだ」
乗せられるわけがないと香澄に吠えられ、小野寺も切々と説いてくる。
いかに厩舎所属の騎手であっても、分を弁えなければならない場面だ。
しかし、どんな騎手が乗っても難しい競馬になるのなら、それこそ、自分の身に起こった数奇な出来事を活かす絶好の機会ではないだろうか。
ズルい考えだが、背に腹は代えられない。
誰にもバレず、どんなトップジョッキーにだってできない騎乗が今の自分にはできる。
馬との意思疎通なんてインチキにも近い芸当を、オベイロンが可能にしてくれたのだから。
しかしそんなことを言っても信じて貰えない。余計に遠ざけられるだけだ。
あとはどう説得したものか、問題はそこだった。
バカな考えはよせと声を上げる小野寺親子。
しかし二人を尻目に西野東二の真っすぐな視線が射抜いてくる。
耄碌した気配など微塵も無い鋭い眼差しにたじろぎそうになる足腰を奮い立たせ、懸命に受け止めていると、東二の口ひげが微かに動き、笑ったように見えた。
「これまで、ちゃんと話をしたことがなかったが、町村正治さんのお孫さんだね」
暫く聞くことのなかった祖父の名を耳にし、ハッと我に返る。
「は、はい」
すると東二は明らかに口元を緩めて笑った。
「町村正治と言えば、モーゼの町村なんて呼ばれたりもしていた。だが実際は、怒鳴り散らしながら馬群を割って先頭に躍り出てくるのさ。戦国武将さながらだったよ。懐かしい、あの豪快な競馬は今でも語り草だ。反則じゃないのかと未だにやり玉に挙げられるがね、とても人気のある騎手だった。なんたって、どんな馬に乗ろうと是が非でも馬券にしようとしてくれる人だったからね」
そんな話は初めて知った。
危険な騎乗に声を上げることはあっても、前を開けさせるために怒鳴り散らすなんてことはまずない……祖父の所業を聞かされて恥ずかしさがこみ上げてくる。
「私が馬を持って数年の頃かな、ビギナーズラックというやつで、強い馬を持ったことがある。ニシノタイタンという青鹿毛でね、重賞に挑戦する機会があった。だがそのレース直前、騎乗予定だった騎手が落馬してしまったんだ。急遽代わりの騎手を探さなくてはというとき、正治さんがニコニコと満面の笑みで近づいてきて『ようルーキー、勝つから俺を乗せてみな』と調教師の先生に聞こえないよう私に耳打ちしてきたことがあった」
「それは……なんというか、その、すみません!」
まさか祖父がそんな大それた真似をしていたとは露知らず、ライラック鞍上への立候補が藪蛇になったかと焦る。
忌まわしい名前を付けられた反発から、自分は祖父の現役時代をまるで知らなかったし、知ろうともしなかった。そんな大言壮語をして、大負けでもしていたらライラックの話が吹き飛んでしまうではないか——そんなことを考えて恐縮していると、
「なんだ、お爺さんのレースを知らないのか。正治さんは勝ったのさ。先行押切の競馬で、私に初めての重賞をプレゼントしてくれた。豪快な人だったよ。それ以来、騎乗してもらいたくても機会に恵まれなかったが……こうして、何十年かぶりに、まさかそのお孫さんに同じことを言われるとはね。血は争えん——まさに、ブラッドスポーツ」
感慨深い様子で東二は視線を中空に投げ「これも競馬か」と独り言ちて口角を上げた。
「町村くん、ライラックの手綱は君に任せる」
東二から差し出された手を見つめて呆けてしまった。
オベイロンが咳払いをするかのように鼻を鳴らしてきたことで、ようやく事態を呑み込むことができ、慌てて彼のしわがれた手を握り返す。
「が、頑張ります!」
町村が握手をしながら頭を下げる光景を傍からみていた小野寺親子は、互いに顔を見合わせた。
そして口をあんぐり開けたまま、呆然と立ち尽くすのだった。
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