四章 待ち人 1
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早朝の坂路コース。
町村は珍しく調教に乗らず、調教スタンドからコースを見下ろしていた。
隣には双眼鏡を覗き込む小野寺の姿があり、彼が「さて」と呟き身を乗り出した。
一組の人馬が坂路を駆け上がってくる。
ニシノライラックと鞍上の香澄だ。
ドローンも彼女らに並走し、走行フォームを具に記録している。
「悪くない。相変わらず坂路は良く走るね」
独り言かどうかわからない師の言葉を聞きながら、ドローンから送られてくるライラックと香澄の映像を端末から見つめた。
オベイロンからの言いつけもあり、厩舎の一大事に首を突っ込んでしまった町村は、現在開店休業中。
他厩舎での調教依頼を最小限に絞り、ライラックの調整に全力を注いでいるのだ。
あの日、小野寺厩舎を襲った事件から既にひと月が過ぎようとしていた。
マッチレースが開催されるのは今週の日曜にまで差し迫り、他に労力を割いていられるほど楽天的にはなれなかった。人馬を仕上げる時間は限りなく少なく、尻に火が付いた状況と言える。
対する柴崎サイドもそれは同じだ。
豊富な素質馬を多数所有していても、直ぐに大レースに使える馬は存在しない。
よくもこんなリスクしかないレースにあの柴崎が乗ってきたと思う。
だがそれも、西野東二と旧知の間柄だという柴崎グループの元会長、柴崎俊平太を対戦相手に選んだことが功を奏したのかもしれない。小野寺厩舎との直接的な因縁は、柴崎浩平とその背後に控える柴崎グループ筆頭の柴崎厩舎に向けられるはずだが、多くのクラブ馬を有する大厩舎がそんなリスキーなレースに乗るはずがない。
だからこそ、創始者である俊平太に東二は手袋を投げつけたのだ。
俊平太は会長職を退いた後も、個人としてオーナーブリーダー、トレーナーを現役で続けている。
馬の所有、生産、調教という全てを手掛ける競馬界の重鎮として名が知られており、完全なる持ち馬を個人で作り上げ、中央競馬に挑む名伯楽——言ってしまえば、究極の趣味人で、道楽好きな老人だった。
これを知っていたからこそ、東二は俊平太に剣先を向け、マッチレースを取り付けることに成功したのだろう。
「本当に、西野さんには感謝しなくちゃいけないね。このチャンスは絶対にモノにしなくちゃいけないよ、ユウ君。いいかい? 君が手を挙げてしまったんだからね。全部君の、君の双肩に掛かっている! 頼むよほんと? 本当に頼む!」
レースは馬の出来次第であることくらいわかっているだろうが、有無を言わさないと小野寺の悲哀が滲む表情を前にし、引きつった顔で答えた。
「は、はい」
相手が誰だろうと、レースに勝たなければ小野寺厩舎に明日は無い、かもしれない。
何としてもニシノライラックを勝たせる。この重責を果たすためには、やはり彼の協力が必要だったのだが……。
町村は数週間前の苦々しい記憶を思い出した。
西野東二からマッチレースを申請したとの旨を聞かされ、ニシノライラックとコンビを組むことになったその日の夜。
事務所で馬主への対応に追われている小野寺親子の目を盗み、町村は厩舎に忍び込んだ。
明らかに荷が勝ちすぎるこの事態。厩舎にとっても、自分にとっても窮地に追い込まれている形だが、これを切り抜けるためにはやはりオベイロンの協力が必要不可欠。
何より、自分を焚きつけてこうなるよう仕向けたのはあの馬だ。責任を取って貰わなければ、レース当日までに自分はストレスで禿げ上がってしまう。
オベイロンの馬房がある一角だけ証明を灯し、寝入っていた馬たちに気を使いながら馬房の前までやってきた。
彼は立ったままうつらうつらと眠りの船を漕いでいる。これがただの馬なら静に寝かせてやるところだが、こいつはそんな生易しい生き物じゃない。
「おい、おい! 起きろオベイロン」
押し殺した声で話しかけて鼻先小突くと、彼は目をしばたかせて耳をクルリと回した。
「余の眠りを妨げるとはなんと不届きな」
「お前こそ、よくのんきに眠ってられるな。こんなことになったのはお前の責任でもあるんだぞ。絶対協力してもらうからな」
「なんと肝の小さなサルだ。余の従僕であるのなら、もっと堂々としておれ。下々の者に示しがつかんではないか」
「そんなのはどうだっていい。ライラックが勝たなきゃこの厩舎も共倒れだ。勝算はあるんだろうな?」
「ライラックは弱い馬ではない」
そんなことは知っている。
「でもG3が精々のオープン馬だ。向こうがどんな化け物を当ててくるかわからないんだから——」
念には念を入れて……万全の対策でレースに臨みたい。ましてやレースの形式は自身未体験のマッチレースだ。調教の併せ馬なんかとはわけが違う。
町村はオベイロンの協力なしに、次のレースは勝ち上がれない理由を並べ立て、事の重大さを伝えたつもりだったのだが、当のオベイロンは大きなあくびをして首を振り、眠たげな眼差しを向けながら吐き捨てた。
「余は、ライラックのレースに帯同する気はない」
青天の霹靂とでもいうべきか、頭の中が真っ白に染まっていく。じりじりと競り上がる焦燥感に胃の腑が圧迫され、股の間が縮み上がる感覚に囚われた。
「な、なんて?」
「ライラックのレースには貴様が一人で行くのだ」
「なん、な、なななな——んだってそんなこと今更言うんだよ! お前がやれって言ったんじゃないか! どうしてそうなるんだよッ!」
口角泡を飛ばしながらオベイロンに詰め寄り抗議すると、彼は煙たがるように顔を背けた。
「どうしてだと? 余が手を差し伸べるのは弱者だけである」
「だって、だってお前、ライラックには恩があるとか言ってたじゃないか!」
「故に、余の従僕である貴様を貸し与えたのだ」
これは所謂、はしごを外されたということなのか。
頭を鈍器で殴られたみたいに気が遠くなっていくが、まるでため息を吐くようにオベイロンがブルルと鼻を鳴らした。
「話を最後まで聞かぬか、阿呆め。貴様一人に任せて、失態を演じられでもしたら余の沽券に関わることだ。余の顔に泥を塗るような不手際を引き起こさぬよう、協力はしてやるつもりだ」
「……っていうと?」
「これまでと変わらぬ。ただ、レースで貴様のお守をするつもりは無い」
つまりオベイロンは、これまで通りに調教では協力してくれるという話だった。レースまでの間、ライラックとの意思疎通を受け持ってくれる。
しかしながら、しかしながらである。情けない話ではあるが、本来であればレース当日もオベイロンに居てもらった方が何倍も良い。馬にゴール板の位置を教えてやれるし、折り合いも自由自在、ラストスパートの手前肢の切り替えも非常にスムーズに行えるからだ。
でもオベイロンはご覧の通りの頑固者。
しぶしぶとその条件でライラックと向き合うことになった。
振り返って新たな相棒となるライラックに視線を転じれば、彼はこちらの騒ぎなど気にも留めない。
身体を横たえて眠りこけていた。
「神経が図太いのは良いのか悪いのか……」
馬栓棒から身を乗り出して馬房を覗き込めば、壁に夜間照明で薄く灯るデジタルフォトフレームが飾られている。香澄か馬主の西野東二の計らいか、二歳馬だったニシノライラックの雄姿が映し出され、次には彼の主戦ジョッキーだった男とのツーショット。
満面の笑みでライラックの顔を撫でているこの男性——彼と最後に会ったのは、いつだっただろうか。
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