序章2
2
小刻みな振動からくる寝苦しさに目を覚ますと、青空が広がっていた。
しばらくの間、呆けて流れゆく空を眺めていると、視界の両端が見慣れない物であることに気づいた。
なんだこれ——どこだ、ここ。
ゆっくり身体を起こすと、自分が木製の荷台に積まれて移動していることがわかった。
道路は舗装されていない道悪で、硬そうな土が剥き出しだ。右手には並木道があり、左手には小川、川向こうには白い花だか綿毛をつけた木々が繁っている。
見慣れない道に困惑していると、顔に違和感を感じて目の周囲をそっと触れてみると、ゴーグルをしたままだった。それだけではなく、服装も騎乗時に馬主が用意した勝負服で、ヘルメットに鞭まで。いつでも騎乗してレースに臨める格好をしていながら、自分はこの牧歌的な景色の中で何をしているんだろう——。
「おや、旦那。起きられましたか。しかし長旅でお疲れでしょう。まだ休んでいて良いですよ。もう少しで着きますからね」
そう言うのはこの馬車の御者——かと思って振り返って見ると、サラブレッドの様に引き締まっている訳ではないが、荒れ地だろうがなんだろうが、どこまでも歩き続けることが出来そうながっしりした体型の馬が一頭。一頭が、荷馬車を牽いているだけだった。
御者なんて何処にもいない
どこから声がしたのかと辺りを見回していると、馬の首がずいっとこちらに向いた。
「あっしですよ、旦那。王国まではもう少しだ、休んでいてくれて構いませんよ」
「————喋った?」馬が? しかし口が動いていない。脳内に直接? 夢?
突然のファンシーな世界観に頭が混乱してフリーズしていると、馬は笑うように嘶いた。
「馬は喋りませんよ、旦那。こいつぁ夢だ。だからリラックスしてくだせぇ」
なんだ夢か。夢ならいいや。
一度割り切ればなんてことはない。欧州の片田舎に広がっているような丘陵地を眺めつつ、夢から覚めるその時を待っていた。
それにしても、どうして勝負服姿をしているのか。
眠りに就く前、自分が何をしていたのかを思い出せない。
「なぁ、お馬さん、さっき何処かに着くって言ってたよな。どこに向かってるんだよ?」
「何処って旦那、そりゃあ決まってる。馬の王国さ。ほら、見てご覧なさい」
再び進行方向に振り向いてみれば、その先には大きな街があった。
街の中心には、千葉の某所で東京を騙るテーマパークのお城みたいな建物まである。
「馬の、王国?」
牧場と違うのかな。
百聞は一見にしかず、見てもらったほうが早いという事で、中世風の城下町へと荷馬車は進んで行く。そこで馬のように目を丸くすることになる。
城下町の住人達は皆、馬である。恐らく、日頃から見慣れているサラブレッドだ。
彼らはみな馬着を着て人間のように生活していた。
特に目抜き通りを抜けていった時などは、馬が露店を開いて干し草の束を売っていたり、チラシを銜えて(配っているのか)客引きをしていたり、街家から顔を出して洗濯物を取り込んでいたり——彼らは人間が作りだした生活空間に、人間に置き換わる形で居座っていたのだ。昔、猿の惑星という映画を見たことがあるが、それに近い印象を受けた。
ただ、四足歩行で手足を人間のように使えない時点で、これはあり得ない光景だ。
夢なのだから何でもありなんだろうと、深く考えることはやめておいた。
「とまーれーいッ!」
声を張り上げたのは、城門前の守衛だった。守衛と言っても二頭の馬である。
彼らは鎧の馬着を身につけて門を守っているようだ。
武器として槍があるのだが、申し訳程度に地面に置いてある。
「そこのアラブ、何用か」
「へぇ、こちらのお客人をお連れしました。陛下にお目通り願いたく存じます」
「人間であるか。よし、貴様、馬車を降りて着いて参れ。謁見の間へ案内しよう」
何だか良く分からないが、夢の終わりが見えてきたような気がしたので、大人しく彼らのいうことを聞くことにした。
ここまで連れてきてくれたアラブ種らしい馬に礼を言って、兵士の後に続く。
お城の中へと入ると、赤、金、黒を基調としたタペストリーが飾られた廊下を通され、奥にある扉の向こうへと案内された。ダンスホールのように広々とした空間が広がり、天井からは今にも落っこちてきそうな巨大シャンデリア、壁際には優勝杯のようなトロフィーや優勝旗のような旗が無数に展示されている。
そして赤絨毯が敷かれた先の玉座に、紅いマントを纏い、王冠を被った鹿毛の馬が居た。
額には星の輝きのように菱形をした白斑——流星が鬣に隠れているが、確認出来る。
その馬を見た途端に、自分の中で何かがうずくような感覚に囚われる。
マントをしている為、全身を見ることは出来ないが、それでもわかる。隆々と盛り上がる肩と胸の筋肉に、マント越しから浮き上がるトモ——腰、臀部、股——の張り。
一完歩毎に生み出されるであろう推進力の強大さが窺えた。
筋骨隆々としていながらも引き締まった胴回りにも目を惹かれ、その馬体は短距離や長距離を問わないオールラウンダーを予感させる期待感に満ち溢れていた。
騎手や調教師、牧場関係者が見たなら、きっと百人中百人が惚れ込むだろう。
そんな、一〇〇カラットのダイヤモンドよりも価値のある馬体の持ち主は、カツン、と大理石の床をひとつ踏みならす。
やはり馬だからか、玉座には座らない。何の為に椅子があるんだろうと素朴な疑問が鎌首を擡げるが、背中を兵士の馬に押されて前に出た。
「おっと……」
「頭が高い。陛下の御前である!」
そう言ったのは、王様らしき馬の隣で巻物を咥えた芦毛の馬である。
黙って床に片膝をついて頭を垂れ、ちらりと上目で奇っ怪な馬を見やった。
王冠を被った馬はブルル、と鼻を鳴らす。
「よくぞ参った旅人よ。長旅ご苦労である」
厳かに、そして威厳に満ちた声でこちらの労をねぎらうと、王様は前肢で二、三回前かきをして床を鳴らした。
不思議な光景だった。普段は彼らの背に跨って芝ターフや砂地ダートを駆け抜けているというのに、今は頭を垂れている。馬に舐められるな、と教えていた競馬学校の教官が見たら怒鳴り散らしそうなものだが、夢である上に、多勢に無勢。五〇〇キロ近くある筋肉の塊であるサラブレッドと本気で喧嘩なんかしたら、人間などひとたまりもない。
大人しく言うことを聞いて、夢から覚めるのを待とう。
すると、王様はブルル、と鼻を鳴らしたあと、首を上下に振ってから高らかに嘶いた。
「我が名はオベイロン——キングオベイロンである! 旅人よ、余は遠路遙々この地にまで脚を運んだ貴様の勇気を讃え、報償を与えたいと考えておる」
オベイロンと名乗った馬の王様は、首をブンブンと上下する。
「ほう、しょう?」
「うむ、貴様の願いを一つだけ叶えてやろう」
戸惑いに拍車が掛かる。
目覚めてから馬車に揺られて入城した——ただそれだけなのに、何故そんな旨い話しが持ち上がるのだろう。いや、夢なのだから考えても無駄だ。だったら、七つの球から喚び出した龍に願うような物でもいけるかもしれない。
「それは——どんな願いでも?」
「どんな願いでも叶えてやれるわけではない。余は馬である」
意外とシビアだ。これで願い事の幅が一気に狭まった。馬に叶えて貰う願い事なんて、何があるだろう。騎手であるという手前、馬への願い事は山ほどあるのだが・・・…例えば指示したときに反応良く馬群を抜け出してくれとか、ちゃんと落ち着いて道中折り合いをつけて体力を温存してくれとか、暴れないで欲しいと……色々ある。
しかし強いて言えば、その昔、馬に競馬を教えて貰ったと語った騎手が居る。
皇帝と呼ばれた伝説の馬の手ほどきを受けた騎手のように、自分を成長させてくれる馬との出会い。もしそんな出会いがあったなら——とは思うが、流石に夢でこんなお願いするのも馬鹿馬鹿しい。自嘲気味に笑った。
「そうであった。そなた、名を述べよ——」
オベイロンの黒目がこちらをじっと見据えている。
名前——それは自分にとって極めてセンシティブな問題だった。
この名前の所為で小学校中学校と弄られまくり、更には競馬学校、そして今現在ですら、自身の名前の所為でストレスを溜め込むハメになっている。
どういう事かと言えば、自分の名前が所謂キラキラネームだからだ。
例え夢であろうが何だろうが、嫌なものは嫌だ。この名前という呪いを解くために騎手の道を志した節もある。それくらい自分の名前が嫌だった。
それ故に、嘘をついた。
「
じっと、オベイロンは自分を見つめていた。
ブルル、と鼻を鳴らすと、彼は途端に落ち着き無く首を上下させ、荒ぶるように前かきをして床を踏みならす。
「貴様——余に嘘を吐いたな?」
じとっとした嫌な汗が背中を湿らせた。
「い、いや……嘘ってことは、読みが違うっていうだけで、自分としてはこっちが本名だと思っていて、そんな騙すとかそういうことじゃ」
「余を謀り、褒美をかすめ取ろうとなどと浅はかなサルめ!」
ぐわん、とオベイロンの巨体が持ち上がり自分に影を落とした。彼は後肢だけで立ち上がり、大きく嘶きながらこちらに覆い被さってきたのだ。
「うわっ、ちょっと待て! それは洒落にならな——」
全てを言い終える前に、オベイロンの蹄が顔面に叩き落とされた。
頭が揺れる。視界がぼやけ、次第に暗くなっていく。
薄れていく意識の向こう側で、自分の名を呼ぶ声がする。
町村——
貴様には褒美ではなく、契約をくれてやる。
嘘をついた罰だ、余のために働くが良い。
それこそ、馬車馬のようにな——。
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