三章 業界の力学 2
2
早朝、小野寺厩舎に出勤すると、異様な光景が広がっていた。
いつもならばとっくに担当する馬の馬房清掃や馬具の点検、調教に備えた準備に取り掛かっているはずの厩務員たちだが——この日はどういうわけか厩舎で作業することも無く、事務所の前で油を売っている。
雑談するでもなくたむろして項垂れていたり、背中を壁に預けて天を仰いでいたり、加熱タバコをふかしていたりと、皆一様に手持無沙汰な上に精気が欠けている。
ただならぬ雰囲気にギョッとして、厩舎の敷地に足を踏み入れるのを躊躇してしまうほどだった。
トレセンは既に動き始めており、馬場へと向かう人馬が時折背後を通り過ぎていく。
一瞬、他厩舎の人と目が合ったがすぐに視線を逸らされてしまった。
事務所から物音がして、勢いよく戸が開くと香澄が飛び出してきた。
彼女はこちらに一瞥をくれたが、なぜかギッと睨みを利し、厩舎へと歩き始めた。
「さあ仕事だよ! 馬はまだ居るんだ、空いている手があるならその分残った馬に回すよ!」
その号令に、胡乱気だったスタッフたちもノロノロと体を起こして動き始めた。
「いったい何があったんだ……」
彼らがこんな状態になるであろう最悪の状況を想定しながら、恐る恐る歩を進める。
みんなが気落ちしていたという事は、もしかすると管理馬から予後不良が出てしまい、安楽死措置が取られたのかもしれない。そんな憂鬱なことを考えながら事務所に入ろうとすると、再び戸が開いた。
いつもながら渋い表情をした別所だ。
「別所さん! なんか、様子がおかしいんですけど、みんなどうしちゃったの?」
「町村か。昨日も言っただろう、チェッカーズフラッグの馬が転厩になった」
「それは聞きましたけど」
「それだけじゃない。ドリームレースクラブ、NGS、ホースレーシング、GPR……国内クラブが一斉に転厩すると言い出したんだ。夜中の内に根こそぎ持っていかれちまった」
「そんな——ッ」
そんなバカな話があるかと、町村は慌てて厩舎に駆け込んだ。
目の前に飛び込んできたのは、ひどく寂しいうらぶれた厩舎の光景だった。
いつもならば顔を突き出して出迎えてくれるはずの馬たちが居ない。
がらんとした馬房だけが物寂しく取り残されているだけで、息を呑んだ。
厩務員たちが落ち込んでいたのもわかる。
昨日まで手塩にかけて育てていた馬が突然取り上げられたのだ。
通常であれば、入厩してから数年間の付き合いがあったはずの馬たちなのだから。
人生の一部だと感じる出会いだった者も居ただろう。
それが何の前触れもなく、突然消え去った。
何も手が付けられない精神状態だったに違いない。
遅れてやってきた別所に尋ねる。
「どうしてこんなとこに」
「どこも一身上の都合だそうだ。特に明確な説明があったわけじゃない」
「でも契約違反になるんじゃ? 違約金とか……」
「そんなはした金を気にする連中じゃないさ。放牧中のクラブ馬もうちには帰ってこない。ただ、国内のクラブだけだ。海外クラブ法人や個人馬主の馬は問題ない」
それを聞いて少しほっとした。
となると、見た目ほど大きなダメージは無いかもしれない。
そもそも中堅厩舎である小野寺厩舎に、クラブ法人の馬は多くない。
個人馬主によって支えられている部分が多いことが、不幸中の幸いだった言える。
馬集めはまた苦労するかもしれないが、放牧や外厩に出されている馬が帰ってくれば、また厩舎に活気が戻ってくる。小野寺は今頃頭を抱えていることだろうが、元営業マンの人脈を駆使すれば、いずれこの状況も打開できるだろう。
外見は頼りない中年サラリーマンにしか見えないが、営業で培った人脈は中々に侮れない。
そうでなければ、新参者だった小野寺が六〇頭以上の馬を管理することなどできなかったはずだからだ。
「どいて」
と、厩舎の今後を心配していると、香澄がニシノライラックを牽いて出入口にやってきた。
明らかに気が立っていたので黙って道を譲る。
「町村、今はこのありさまだ。人手は足りてるから、ケイコの約束があればそっちいっても良いぞ」
確かに、今は馬よりもスタッフの方が多いような気がする。
だが気になることもあるので、軽く掃除だけでもしてから行くと別所に断りを入れた。
一通りスタッフが出払ってから、こっそりとオベイロンの馬房に近づけば、彼はずいと首を伸ばした。
「遅いぞサルよ! 余の臣下が宵闇に紛れた悪漢どもに拉致された。彼らを救わねばならぬ、この棒をどかすのだ」
「大丈夫だって、落ち着けよ。連れていかれたけど、取って食われるわけじゃない。別の厩舎に移っただけで、向こうでも大事にされるさ。仲良かったのか?」
「余を敬う良き民草であった。しかしそうか……この城も寂しくなる」
オベイロンにしては珍しくしおらしい態度だった。二歳馬の癖に人にも馬にも態度がデカい王様も、慕ってくれる者たちが居なくなるのは流石に寂しさを覚えるようだ。
「でも妙なんだよ」
「妙、とは?」
オベイロンの耳がクルリと回り、こちらに耳を傾けた。
「転厩したのはクラブ法人の馬なんだけどさ、別々のクラブの馬が一斉に引き上げるなんて聞いたことない。そんな失態があったとも思えないんだ。ウチの厩舎は何だかんだ賞金だけは持ち帰ってきてるし、顧客に損はさせてない。ここに来るときも、他の厩舎の連中から変な視線を感じたし、お前なんかわからないか?」
「異なる勢力が示しを合わせて行動を起こした……反旗を翻されたのは何故か。連合破りを犯すにはそれなりの対価が必要だ。もしくは、そうせざるを得ない理由が——すわッ、そのクラブとやらの背後を洗え。影響力を持った黒幕が存在する。陰謀のにおいがするぞ、サルよ。これは政治である」
「お前が何を言ってるのかさっぱしわかんねぇよ」
「阿保め。だから貴様はサルなのだ。宮下とかいう調教師から移籍の話を持ち掛けられたと申したであろう。彼奴はコレを予期していたのではないか? 昨日今日でこの有様だ。あの男は何かを察知し、貴様に焼け落ちる城からの退路を用意しようとしたのかもしれぬ」
「言われてみれば」
唐突な移籍の話と現状が妙に噛み合う。
今思うと、今朝すれ違った他厩舎のスタッフたち、彼らのよそよそしい目は小野寺厩舎に向けられたのかもしれない。
宮下ならば何か知っているだろうか、この後の尋ねに行こうかと考えていた時だった。
美琴が「ひゃー」とぼやきながら小走りで厩舎に駆け込んできた。
そして自分を見つけるなり小さく手を振ってやって来た。
「美琴さん」
「おはよう、町村くん。みんなピリピリしてるわねぇ……無理もないけど。話が聞けそうもないからこっちに来ちゃった」
「うちの厩舎のこと何か知ってるんですか?」
「やっぱり、知らぬは亭主ばかりなり、じゃないか。灯台下暗し? まあいいや。今ね、トレセンでちょっとした噂になってるのよ。私も昨日ね、須藤さんから聞くまで知らなかったんだけど、小野寺厩舎が潰れちゃうかもしれないって話」
小野寺厩舎が潰れる——聞いた瞬間に耳を疑った。
転厩される馬が多数でたことでダメージを受けたのは間違いないが、それは一部に過ぎない。
レースに使うローテーションを見直せば、通常通りの営業は可能だ。
「潰れるって、いったいどうしてそんな噂が? 転厩の話だけでですか?」
「その程度じゃこんな噂は流れないでしょ。だからちょっと調べてみたの。転厩先の先生方にも聞いてみたんだけどね、突然のことでどこも参ってるみたいなのよ。でも内情を知っているわけじゃなさそうで……」
美琴は手の甲に張り付けていた電子タトゥーを操作し、端末から資料を呼び出した。
ペンダント型端末から宙に投影された資料を羅列し、その中のファイルを開いた。
「今回のクラブ法人をリストアップしていくと、五つのクラブのうち、四つが特定の親族よる経営だったわ。みんな苗字が違うんで調査するの大変だったのよ? んで、残りの一つはGPRで、出資者の大半が政治家のクラブね。競馬関係者がロビー活動に利用しているところ」
親族経営の競馬関係者となると、数は多くないので大分絞ることができる。
中でも良血の馬を多数所有しているクラブともなれば、もはや片手で数えられるほどだ。
そこで、町村の中で疑念が芽生える。
街灯に照らされた厩舎前に佇む男と女の姿、そのやりとり、事の顛末。
理由はわからないが、幾度となく自分に向けられてきた敵意や対抗心が嫌味な笑みと共に蘇る——。
「美琴さん、それって」
「いま上げたクラブはすべて、柴崎牧場の傘下にあるわ」
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