四章 待ち人 4
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馬場に大量の木片——ウッドチップを敷き詰めたコースがトレセンにはある。
チップには杉や赤松の木屑が用いられ、砂のダートコースよりも馬の脚元に掛かる負担が少ないため、肢を労りながら負荷を掛けることが出来る。脚元が弱い馬にうってつけのコースではあるが、肢を隅々まで鍛えることが出来る優れた調教コースでもあった。
町村はウッドチップの馬場でニシノライラックの調教を終えたあと、表情を曇らせる。
「はぁ……はぁ……あれぇ」
先ほど駆け抜けた馬場を見返して、ヒヤリとした悪寒に襲われた。
ライラックは下級条件の馬との併せ馬に臨み、タイミングよく追い抜く練習をしていた。
だが、追い出しのサインを出しても、ライラックはビクともしなかった。
オベイロンの仲介があっても、他の馬のようには従おうとしない。
こちらは死ぬ気で追って肩で息をしているというのに、ライラックは並歩で進みながら平然としている。
併せた馬を差すことはなかったが、全力で追われてスパートをかけていた僚馬を徹底的にマークして張り付いていたからには、多少呼吸や心拍に乱れがあってもよさそうなもの。
ところがライラックにはそれも無い。
高い心肺機能を裏付けるものではあるのだが、走れるけれど走る気はない——そんな意思を示されているような気がしてならない。
シルバーコレクターという言葉が頭に思い浮かぶ。
「本気で困ったぞ」
本番を見据えたライラックの調教が始まり、すでに二週間が過ぎている。
騎乗数を減らしたとは言え、函館などの競馬の開催地には赴かなくてはならない。
たとえ一鞍二鞍でも、その開催地で調教し、騎乗し、レースが終われば茨城にトンボ返り。
常にライラックの調教を念頭に置いた生活だ。
予てより気がかりだったライラックのズブさ改善には、担当調教助手である香澄にも案を出して貰っていた。
二人で話し合い様々な方法でズブさを取り除こうと模索するも、数々の名伯楽と謳われた調教師たちが終生頭を悩ませ続けた問題である。
若手の騎手と調教助手が、一朝一夕に解決できる類のものではなかった。
調教師の小野寺はと言えば、どちらかと言えばセールスマンであって、馬主への売り込みや馬の買い付けが主体。馬を見る目が無いとは言わないが、伯楽と称する師ではないのが、小野寺厩舎が中堅たる理由である。
打つ手を見出せないまま、時間だけが過ぎて行く。
馬との意思疎通を図れても——聞き入れて貰えなければ意味は無い、人と同じだ。
「ホント、大変なことになってる。どこもかしこもこの話題で持ち切りよ」
調教が終わった後、事務所には美琴がいた。
小野寺厩舎にとって崖っぷちの大一番となるマッチレースで、主役の一頭であるニシノライラックを担当する香澄のインタビューをする為だった。
マッチレースの情報は既にネットにリークされており、マスコミやファンの間で先週から徐々に話題になりつつあったのだが、タイムリーなことに今朝方、ようやくNRA広報より正式発表がなされたのだ。
日本では三〇年ぶりのマッチレースであり、開催場所は新東京国際競馬場、芝コース、二四〇〇メートルと正式決定した。この情報はそれとなく耳にしていたので驚きは無かったが、朝の速報に続いて先ほど対戦する馬の情報が公開された。
ゴールデンハインド——去年の皐月賞、日本ダービーを優勝——栄光のクラシック競走を二つ制した二冠馬である。
去年の日本ダービーの事はよく覚えていた。
柴崎俊平太厩舎という『トレセン外からの刺客により成された偉業』と讃えられ、大々的に取り上げられていたからだ。馬体重が前走から二〇キロ減、ガレて骨が浮き出てしまうという不安材料があったにも関わらず、他を寄せ付けない華麗なる勝利をしてのけ、師の手腕が大いに注目された。
しかしダービー以降、ゴールデンハインドは怪我で長期休養に入っていた。
恐らくダービーを取る為だけに究極の仕上げを施したのだろう。
無茶をさせすぎだという関係者の批判の声もあるし、個人的にもそう思うが、時にダービーはホースマンの目を曇らせる。
それだけの魔力と魅力が、あの称号にはあるらしい。
「まさか復帰戦にここを使うなんて何考えてるの……」
香澄も信じられないといった様子で、ネットニュースを自分の目で追っていた。
「大騒ぎね、あっという間にワードがトレンドに上がってる。さっそく論争が始まってるみたい……あること無いこと言ってくれちゃって。あれ、でもどうしてかしら。この柴崎さんのゴールデンハインドってダービー馬でしょ? 私はもちろんあなた達を応援してるけど、何かすごい喧嘩腰にライラックを支持してる人が結構いるわね」
競馬記者とは言っても、美琴はこの世界に飛び込んでまだ半年も経っていない。
この季節、夏馬についてはエージェントの仕事もあるので勉強しているようだが、過去のレースや四歳以上の古馬についてはまだ疎いのだろう。
それを承知している香澄は答えた。
「ライラックとハインドは同い年なんですよ。それで一昨年、二歳G1のホープフルSで一緒に走ってるんです。まあ……負けちゃったんですけど」
「なるほど、因縁の対決ってわけか。いけないいけない、勉強しておかなきゃ記事なんて書けないわ」
二人の会話を聞きながら、町村は当時のレースを思い出した。
中山競馬場で行われた芝2000メートル。
中枠の中段からインを突いたゴールデンハインドに対し、大外枠後方からの競馬でありながら、最速の末脚でニシノライラックは迫り、タイム差無しの二着に入選。
この二頭が論争を呼ぶのはこのレースがあったからで、ライラックが低迷期に突入するまでは盛んに比較され続けた。ハインドは世代のダービー馬ではあるが、ライラックこそ中距離向きとみる識者やファンも未だに居る。
その為だろう、SNSのタイムラインに『幻のダービー馬対決』というワードが急上昇しているのは——。
ビッグニュースの襲来に思わず寄り道してしまった美琴であったが、改めて香澄への取材を再開していた。
二人が大仲で向かい合って座っている傍ら、自分は給湯室で食い入るようにネットの情報を追いかけ続ける。
ファン同士の論争やプロ馬券師の考察から何かヒントは無いかと、藁にも縋る思いだった。
そして、一人の騎手の名前が頻繁に上がっていることに気が付いた。
井崎修。
ニシノライラックの主戦騎手だった男。
馬房に掛けられたデジタルフォトフレームにも写っていた彼——オベイロンが教えてくれたライラックの『待っている』という言葉が妙な親和性を持っていた。
「まさかな」とは思いつつも、やはり気になる。
だが真相をどうやって確かめれば良いのかわからない。
オベイロンによれば、ライラックは『無口な性格』で多くを語ってはくれないらしい。
「なあ香澄、もしライラックに待っているものがあるとしたら何だと思う?」
知りたいという衝動を抑えきれず、給湯室から顔を出して唐突に尋ねてしまった。
するとウンザリした様子で彼女はため息をつく。
「あのね、インタビュー中なの。見てわからない?」
突拍子もない幼馴染の妨害を煙たがる香澄だが、美琴の方が面白そうに「なになになに」と興味津々だった。
「町村くん、もしかして馬が何か言ったの?」
前々から自分が本当に馬と話が出来るのでは、と美琴は疑っている節がある。そのためこういう話題は彼女の恰好の餌食になってしまうのだ。それを失念していたことに「やっちまった」という後悔が過ぎる。
「その……なんていうのかな。素質も実力もあるし、走るのが嫌っていうんでもないから、きっかけがあったらライラックが本当の力を見せてくれる気がして……」
「ほんとうにぃ~? 何か誤魔化されてる気がするんですけどぉ?」
「いや本当ですってば、馬と話なんかできるわけ——」
美琴による執拗な追求を何とかいなしていると、今度は香澄が「あ」と声を発した。
これを逃げの糸口にするべく即座に飛びつく。
「なんか、思い当たることあったか?」
この手の話を普段から馬鹿にしている分、若干嫌そうではあるが話してくれた。
「さっきの待ってるって話。もしライラックが誰かを待っているんだとしたら、それはきっと井崎さんだわ」
——結局そこに行きつくのかと、悩ましい答えに唸るしかなかった。
馬が人を——騎手を恋しがることなどあるだろうか?
騎手という仕事は馬に乗るのが本業だが、馬の生活の全てに携わるわけでは無い。
とりわけ騎手の場合は、馬にとっては辛い記憶の方が多いのではないか。
彼らを乗せたら背中で早く走る様に急かされ、折り合いの為に気持ちよく走らせてはくれず、かと思えば鞭を打たれて走れと命じられる。煩わしいことこの上ない——そんな風に思ってはいないだろうか。
日常を供にして面倒を見てくれる厩務員に懐く馬が居るのは想像できる。
だが騎手との付き合いはビジネスパートナーでしかなく、ファミリーとはならない。
後にオベイロンにもそのことを確認しにいけば、ブルフフフ、と鼻を鳴らして頷いた。
「人も動物も大事にしているものは皆それぞれだ。それが何であるかはわからぬが、ライラックは『待っている』ことを大事にしておる」
まだ納得したわけではなかったが、井崎修がキーパーソンだろうという考えが頭から離れなくなった。
日が暮れてから事務所の大仲で一人、電気も点けずにライラックの調教やレースパターンの分析に取り掛かった。端末から香澄が入力し続けてきた最初期からの調教内容を全て呼び出し、テレビではライラックのレースを新馬戦から流し続けた。
分析と言っても、インテリなアナリストの紛いの頭を持っているわけでは無い。
こちとら中学から競馬学校上がりの頭しかなく、自分に蓄積されてきた事物は馬に乗ることが大半だ。馬乗りの洞察力で見抜く以外に方法を持たない。
ライラックのレースを観続けること二時間弱。
新馬戦からホープフルSまで、井崎が手綱を取ったレースのどれもが後方からの差し競馬だった。初期の頃は一六〇〇メートルのマイル戦だが、はた目には仕掛けのタイミングを仕損じているような、馬券オヤジが激高しそうなレースを繰り返していた。
事実、五着までの掲示板を外してしまうような内容すらあった。
何度も同じレースを見続けて、少しわかったことがある。
井崎の仕掛けるタイミングだ。
一六〇〇メートル、一八〇〇メートル、そして二〇〇〇メートル——追い出すタイミングが徐々に遅くなるのは距離からして当然だが、どれもぎりぎりまで引っ張ろうとしているように見えたのだ。特に千六のマイル戦に至っては勝負を捨てているように見えた。
強烈な末脚を発揮させるための後方待機、一瞬の切れ味にすべてを託す競馬を目指していたのだろうか——突然、部屋の明かりがついて視界が真っ白になった。
「うわっぷ」
手で目を覆い泡を食っていると「明かりくらい点けなよ」と言う香澄が戸口に立っていた。
「目悪くするよ」
「いきなり電気つけるなよ、目が潰れる」
こちらの抗議など聞き入れてはくれない。
香澄は何の気なしに近づいてきて、自分が腰かけているソファーの腕置きに跨りながら「ほら」と缶コーヒーを投げてよこしてきた。
「残ってると思った。ライラックの研究してたんでしょ。あんただけに任せておくのは癪だし、何もしないで時間が過ぎるのは気持ち悪いし」
つまり自分にも手伝わせろ、と香澄は言っている。
厩務員も調教助手も朝は早いんだからさっさと寝ろよ、というのは簡単だ。
だがそれで不安が取り除けるわけでもない。
今朝、発表された対戦相手がゴールデンハインドともなれば尚更。
特に気にした様子を見せなかったが、心中不安だったに違いないし、居ても立っても居られないだろう。
世代のダービー馬ともなれば、運と実力を兼ね備えた名馬であることは証明済み。
それに誰あろう「勝ちたい」「協力してくれ」と吐いたのはこの口だ。
「何を調べてるわけ?」
「ライラックって、なんであんなズブい馬になったのかなって。きっかけがあったんじゃないかと思ったんだ」
そう言ってから少しの静寂。テレビから流れてくるレース実況の声だけが部屋に響く。
別に反応が欲しかったわけではない。ただ少し気になって香澄の様子を窺ってみれば、彼女は中空に視線を漂わせていた。
「あのさ、昼間にライラックが待っているとしたら、きっと井崎さんだって話したじゃん」
「それが?」
「今の調教メニューもね、あれから多少アレンジはしてるんだけど、大筋を考えたんは井崎さんなんだよ。あんた覚えてない? あの頃、井崎さん毎日顔出してたこと」
「それは覚えてる」
二年前のこと。
ニシノライラックの主戦騎手に決まった井崎修は、毎日のように小野寺厩舎に顔を出していた。
自分は会うたびに先輩騎手に対する挨拶をかわすくらいで、交流と言ったものは無かったが、香澄とその周りの厩務員とは親交が深かったようだった。
「でね、井崎さんに調教の注文をつけられたんだよ。『とにかく我慢を覚えさせろ。そうしたらライラックは、香澄ちゃんに沢山の贈り物をしてくれるよ』って。あたしも全然新人だったし、どうしてあたしが任されたのかもわからなかったけど、勉強のつもりで言われたこと必死にやったんだ」
騎手が直接調教方針を指示していたということは、調教師の小野寺はほぼ関わっていないのかもしれない。
馬主の西野と井崎との間で、何かしらの合意があってのことだろう。
「井崎さん、何か理由とか言ってなかった?」
「あの人って冗談好きだったじゃん? 何聞いてもはぐらかされちゃってさ。そのうちわかるから楽しみにしてな——って。そんなこと言って、レースじゃ押えすぎて勝ちきれない競馬で歯がゆかったりね。でもこんな素質馬任されてあたしも強く言えないし。理由だって絶対教えてくれなかったし、結局そのまま——」
『井崎ライラック』コンビの最高成績は二歳G1、芝二〇〇〇メートル、タイム差無し、ゴールデンハインドの僅差の二着だったホープフルS。
そのレースの翌日、井崎は癌であることを公表。
一か月もしない内にこの世を去った。
同時期にライラックも歩様に異常が見られる跛行を発症して療養、三歳馬だけが出走できる伝統のクラシックレース『皐月賞』『日本ダービー』『菊花賞』を棒に振り、低迷期に突入したのだ。
「井崎さん、あたしが居ないときも毎日ライラックに会いに来てたんだ。自分でリンゴ切ってあげてたり、馬房の掃除からブラシまでかけてた。そうだ、今のあんたとオベイロンみたいにね。よく話し声が聞こえてきたんだよ。もう猫可愛がりもいいとこ。ライラックもライラックでね、足音で誰なのかわかるみたいで、井崎さんが厩舎に来たら顔出してまってるの。だから……きっとライラックが待ってるのは井崎さん、だと思う」
一人と一頭の絆がまさかそれほど深いものとは思っていなかった。
井崎はライラックへの並々ならぬ思いを抱いて接していたのだろう。
ライラックもまた、井崎のことを強く信頼していたのかもしれない。
それはレースにも表れている。
同じ距離のレースでも、鞍上が井崎とそうでない騎手とでは、残り3ハロン(600メートル)の反応と伸びが段違いだったのだ。
ここまで来て確信に近い答えを得た。
ライラックは井崎が来ることを未だに待ち続けている。
それ故に、このままでは確実に負ける——。
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