四章 待ち人 3


 夏競馬も佳境に差し掛かる9月。

 この週末も、新東京国際競馬場は悲喜こもごもの歓声に包まれていた。

 観客たちは握りしめた馬券とレースに一喜一憂しながらも、とある噂に意識を惹かれつつあるらしく、集中を欠いて浮足立っている。SNSにリークされたその情報に、若者たちが興奮した様子で携帯端末を覗き込みながら実しやかに話しているのだ。

 そして漏れ聞こえてくる会話が周囲に伝播し、老若男女が疑わし気に話を膨らませていった。

 通常は、第12レースまでと定められていたのがこの国の競馬だ。

 これを現在も、長年の慣習のように継承して執り行われてきた。

 しかし——。


『第13レース』。


 この聞きなれない数字が方々で飛び交い始めていた。




『間もなく、新潟競馬場記念G3、芝二千メートルの発走となります。実況は私、谷川。解説には元騎手でダービージョッキーの遠藤ノーラン氏にお越しいただいております。宜しくお願いします』

『よろしくお願いします』

『もう間もなくメインレース発走となります。先ほどパドックを見ていただきまして、ずばり、遠藤さんの本命、お聞かせください』

『そうですね。この暑い中、ええ、何度ですか……三六度もあるんで、馬も騎手も辛いところなんですよね。ですけど大きく調子を落とした馬は居ないように見えましたね。どの馬も集中出来ていて、踏み込みも問題はないかと……この時期ですし、大きな差は無いと思います』

『馬に差は無いと』

『ええ、なんで、ここは騎手で買いたいと思います。この猛暑ですから、騎手の方が先にまいっていると思うので、今日一番調子のいい騎手、⑩番ローランドの柴崎浩平を本命、対抗に⑬番ルーベンスのアルノー・ブノワで行きます』

『このメインは騎手で買うと、思い切りましたね』

『そうですか? まあ夏競馬ですからね。みんな僕より年下でしょうけど、この暑さはおじさん騎手には辛いですよ。若くて活きの良い騎手の方が最後まで集中力を持たせられるんじゃないかな』

『遠藤さんの本命は⑩ローランド。柴崎浩平騎手はここを勝ちますと本日5勝目です』

『五勝ですか? ははは、すごいな。ノってるね』

『さあ、若手のホープがリーディング争いに加わるのか否か——新潟競馬場記念G3、ファンファーレです』


◇ ◇


 今日は本当に調子が良かった。

 いや、今日だけではなく、ここ最近は憑き物が落ちたように快調だった。

 それも全部、あの三流厩舎をやり込めてやったことが起因しているに違いない。

 聞くところによれば、香澄も流石にこの状況にこたえたらしく、涙ながらに後悔していたという話だ。あのバカ女を調教してやった、それだけで胸が空く思いだったが、町村の姿を最近見かけないのも清々しかった。

 厩舎所属とは言え、騎乗馬に制約はないはずなので他厩舎での騎乗は可能——小野寺厩舎よろしく指を咥えてみている必要はないのだが……。

 どういう理由にしろ、あの男も目障りだったのでいないに越したことはない。

 ただ、この報復には一つの代償があった。

 叔父を突いて転厩を唆したことや、裏で小野寺厩舎のネガティブキャンペーンを画策していたことが、どこからか身内の耳に届いてしまったのだ。

 その為、今日のメインレースを優勝し、一日五勝という自分の最高記録を更新した記念日にケチがつくことになりそうだった。

 優勝インタビューを終え、ファンサービスに応えてから、重い足取りで馬主席へと向う。

 恐らくそこでは父親が待ち構えているだろうが、今日は珍しく叔父も来ている。

 父が怒り狂うのは目に浮かぶが、ほぼ共犯の叔父がいればそう大事にはなるまい。

 上手いこと取り成してもらえることを期待していた——それに今日のメインで勝ったローランドは、父が管理する馬だ。

 留飲を下げる取引材料に使えるよう、打算で自分の仕事ぶりを振り返る。騎手の仕事ととして、騎乗したレース全てを勝ったのだから、文句のつけようはあるまい。

 馬主向けに作られたフロアへと上がれば、そこはもうホテルのロビーの様になっている。

 木目調の壁に挟まれた通路を一人進み、数々の名馬の写真が収められたいくつもの額を横目に、最奥の個室の前で深呼吸をしてから中へ入った。

「父さん、来たけど」

 部屋に入ってまず目に入ったのはクールビズ姿の父親、博の姿だった。その隣には、カウボーイハットを被る叔父の哲が居る。哲はモニターで先ほどのメインレースを観ていたらしく、「おう、今日のヒーローが来たぞ」と満面の笑みを浮かべていた。

 室内の雰囲気はそれほど張りつめて居ないことに少し安堵した——それも束の間、ソファーに腰かけていた小さな影の存在に気づき、息を呑んだ。

「来たか」

 しわがれた声で呟いた小さな影——この暑さの中でも真っ黒なスリーピーススーツを着込み、山高帽を被る老人は、杖を鳴らして静かに立ち上がった。

 競馬界の重鎮——いや、妖怪——柴崎俊平太である。

「お爺ちゃん……」

 まさか祖父の俊平太が居るとは予想だせず、なぜこの男がこの場に居るのかと困惑する。

 安穏と構えている訳にもいかず、強張る身体に力を入れて背筋を伸ばした。

 柴崎グループの実権は名目上叔父の哲が掌握しているのだが、この老骨ほどの影響力があるかと言うとそれは疑問だった。

 俊平太は自分で育てた柴崎グループを離れ、八〇歳になった今でも現役の調教師として独立している。国内の競馬関係者に一目置かれる存在のみならず、海外の一流調教師との親交も厚く、積極的に海外レースにも参戦するほどである。

 骨の髄まで競馬で出来ている生粋のホースマン。

「浩平、もうわかっているだろうが、お前がしでかしたことは人間として下の下だ。私の育て方が悪かったらしい」

 いつも語気を荒げて叱責する父の口調はやけに落ち着いていた。

 それが逆に失望の顕れなのだと気付き、奥歯をかみしめる。

「いや博、今回のことは俺が悪かったんだよ。ちゃんと精査するべきだったんだ。浩平は若いし——そう、若い時分、一時の感情で動くことはままあるだろう? だから俺がしっかりしてなきゃならなかったんだ。それに、お前だって、稔君と浩平を比べたりしてきたじゃないか。そういうのが劣等感を育てるんだぞ」

 フランスで騎手をしている兄の名が出たことで、一瞬唾を吐きだしてやりたくなるが、擁護の立場を取ってくれる叔父を立てるためにも何とか堪えた。

「アニキは浩平を甘やかしすぎなんだよ。それに今回の一件は謝ってどうこう出来る話じゃない。転厩させた馬をまた転厩させるわけにもいかないだろう? これ以上他の先生方に迷惑をかけられん。何かしら責任をとらなきゃならない」

「それなら俺が責任を取るさ」

「そんな簡単な話じゃないし、アニキが責任を取ったからって何になるんだ。それに柴崎グループはどうなる。無責任にもほどがある」

「じゃあどうしろって言うんだ」

 想像していたよりも事態が深刻化しそうな気配を感じ取り、どうしたものかと億劫ながらに思索を巡らせていると「二人とも静かにしろ」と祖父が厳かに告げた。

 俊平太は先のレースを見つめながら微笑んでいた。

「浩平、今日は良い騎乗だった。馬の邪魔をしないし、行くべき道をしっかりと馬に示していた。これがいつも出来るようになれば、まだまだ上に行ける。ムラはあるがね」

「あ、ありがとう、お爺ちゃん……」

 唐突な誉め言葉に困惑してしまう。

 そもそもどうして俊平太がこの場に居るのか——その理由はほどなく判明した。

「浩平はもう大人だ。生き方を決めるのは自分自身であって、他の誰でもない。それが親兄弟であろうと、口出しは無用。だがこの一件、先方の要望もあって儂が預かることになった」

 どういうことか——先方というのは誰だ——まるで話が読めない。

 俊平太は静かに振り返り、顔に深く刻まれた皺の奥底で、鈍い輝きを放つ眼光を向けてくる。


「競馬ごとで生きる以上、競馬ごとで解決するのが儂ら流儀だ。馬に乗れ、浩平。我が道を行くというのならば、勝って我を通してみせろ」


 提示されたのは一対一のマッチレース。

 汚名を雪ぐ必要もなく、責任だなんだととやかく言う事は無い。

 勝て。

 勝って退けろ。

 俊平太からはただそれだけを告げられ、騎乗予定馬の現在の状態が詳細に記された封書を手渡された。

 話はそれだけで終わり、浩平は再び名馬たちが疾駆する回廊に一人いた。

 その場で封の中を検めて見れば、思わず笑いがこみ上げてくる。

「ふ……く——あは、はははははッ! なんだい、ジジイ。尻ぬぐいだ禊だって雰囲気みんなで出しちゃってさ。えぇ? くだらねえ芝居しやがって。結局あんたら、人間じゃないんだ。妖怪だよ、妖怪馬狂いだ! 慈悲の欠片も無いじゃんか。アハ——」

 祖父は一切の情を廃して勝負に徹している。

 もし自分の家族が世間一般の凡夫どもであったのなら、自分を謝罪させた上で転厩を取り消し、父か叔父が責任を取って競馬界の表舞台から姿を消した事だろう。

 だが相手が悪かった。

 彼らは人間の世界に後足で砂をかけ、とっくに決別していた馬狂いだったのだ。

 生産育成から実践に至るまでを自己完結させて、世の理や常識礼節知るものかと、馬だけで築き上げた富によって自らの世界を作り上げたのだ。

 記された馬名を見た瞬間に、浩平は小野寺厩舎を憐れんだ——香澄と会うことがあるのなら、非礼忘れて優しくしてやろうと思うほどに。

 自分が乗る馬は、そういう馬なのだから。

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