一章 サラブレッドの王様 4




『一八頭スタートしました。綺麗に出ました。先に主張したのは三番のルイボスティー』


『外は一六番のパラメラ、内に六番のシンコーハビアン、先行グループにつけて八番のガレイシップ』


『中段に黄色い帽子二頭、内に九番レッドジャスティス、外は十番イタリア』




『一団になって三コーナーをカーブしていきます。残り一〇〇〇メーターを切りました』


『一番ボディーメイク中段の内、続いて後方ミヤシロカグラ、外からかわすのは七番マスターキー、二番のキーランドと続いて五番ソニックフォー、内十一番のギフト——』




『馬群は四コーナーのカーブへ。先手は一馬身差をつけて三番のルイボスティー、続いて一六番のパラメラ、六番シンコーハビアン、包まれるようにガレイシップ、六〇〇を切ります』


『カーブから直線向いて先頭は依然ルイボスティー、ジョッキー手が動きます。残り四〇〇で坂を登る。ここで三番は一杯か、先頭一六番のパラメラに代わり——』




『各馬鞭が入ります。先頭パラメラが突き放し、八番ガレイシップが追いすがる——外に出してマスターキーが突っ込んできた! 残り二〇〇を切って坂を登り切るッ! 先頭集団は混戦! 残り一〇〇、これは接戦だ、マスターキーがパラメラをかわすか——最内から黄色い帽子! 九番レッドジャスティスが差し込んできたぞ! 二頭の争いになるマスターキーかレッドジャスティスか——内外接戦となりました』




『場内どよめいております。一着レッドジャスティス、単勝払い戻し金は1万6450円、3連単の払い戻しは45万8180円。落馬負傷からの復帰戦で万馬券を演出しました穴男、町村ダービー騎手。三か月ぶりの勝利を自らの復帰戦で彩りました——』




◇ ◇




 新東京国際競馬場での未勝利戦芝一六〇〇メートル。


 町村は宮下厩舎での初戦を勝利で飾ることができた。


 三着までで十分だったが、思いのほか前が止まらなかったことと、レッドジャスティスが体力を余した状態で、最後に力を振り絞ってくれたのが幸いだった。


 レース前、返し馬で本馬場に出た際、町村はレッドジャスティスにゴール板を教え込んだのだ。ここを最初走り抜けた奴が一番偉くて、ご褒美をたくさん貰える、と。


 オベイロンのお陰でそのことを理解したレッドジャスティスは、レース直前で力を使わないための落ち着きや、調教で繰り返し教え込んだ折り合い、スパート時の手前肢の交換を実戦でちゃんと活かすことができた。


 競馬場や騒音、狭いスターティングゲート内、ほかの馬も何一つお前に危害を加えるものはない、という事も彼に伝わり、レッドジャスティスは異様なまでの落ち着きと集中力でレースに臨んだのだった。ゴール前での粘り込みは、ゴール板を知っていたから出来た芸当かもしれないと、町村は想像した。


 さらにその後、フランベルジュでのダート未勝利戦も鼻差で制したことで、この日二本目の万馬券がぶち上がり、競馬場は衝撃に揺れ動いた。




 レースを勝って、地下馬道へと戻る道すがら、駆けつけてきたのはフランベルジュを担当している厩務員の笹原だ。彼は満面の笑みだった。


 年齢は五〇代に差し掛かっているであろう熟練の厩務員である彼だが、今の宮下厩舎に移る前からのこの十数年、勝利から遠ざかっていたらしい。


 久方ぶりの勝利に、年甲斐もなくはしゃいでいるようでガッチリと握手を交わした。


「本当に、本当にありがとう! レッドジャスティスのレース見せれられて、もしかして、なんて思ってたら本当にやっちまうんだから。もうアンちゃんなんて呼べないやね、町村ジョッキー、本当にありがとう」


 彼は日に焼けた顔を破顔し、目尻に涙を浮かべていた。まるで重賞でも勝ったような喜びようだが、笹原にとってはそれだけの価値ある一勝だったのだろう。


 そして脱鞍所に降りたところでは、諸手を挙げて町村に抱き着いてくる中年オヤジに遭遇した。馬主の相田である。飛びつくように抱擁され、フランベルジュも迷惑そうに慄いている。


「良くやった! 良くやってくれたよ町村君! これまでの預託料は無駄じゃなかったんだ! これだよもう、競馬はこれがなくっちゃ! 最高だ! お前は最高の騎手だ!」


 スーツ姿の相田はボタンが弾けとび、シャツがはみ出て薄くなった髪を散らかすほど喜びを爆発させていた。


 未勝利戦でこの大げさな喜びには理由がある。


 今日騎乗したレッドジャスティスと、フランベルジュの二頭が彼の持ち馬なのだ。


 今まで一度も勝ったことが無かった馬主にとっては、至福の瞬間かもしれない。


 それにもう一つ、別の理由が右手に隠されていた。


 宮下が教えたであろうレースの勝算に彼は賭け、しっかりと勝馬投票券を手に入れたのだ。大穴の万馬券を二枚、これまで馬の育成に掛けた支出は回収できたに違いない。


 後ろには笑みを浮かべ、こちらに頷く宮下の姿がある。


 ちゃんと仕事をこなすことができて、町村は安堵した。




 ウイナーズサークルでの表彰式と記念撮影を終え、宮下を始めとした関係者たちと改めて握手を交わし、一連のイベントを終えて控室に戻ってきた。


 今は次のレースが行われるため、室内には数名の騎手しかいない。


 部屋の片隅にある長椅子に腰かけると、どっと疲れがぶり返してきた。


 項垂れ、自分の手を見れば震えていることに気が付く。


 こんなに上手くいって良いのだろうか——あまりにも事が上手く運びすぎた。


「優駿!」


 入口から声が聞こえた。


 こんな風に自分が望んでいる呼び名で言ってくれる人物は一人しかない。


 競馬学校の同期でもある新堂翔だ。騎手としては珍しく長身で、すらっとした手足に女好きしそうな優男だ。彼は声を掛けてから何も言わずに近づいてくると、手荒い握手で今日のレースを労ってくれた。


「良くやったよ、ぶったまげたね。たまにああいうことやってくれるんだからな、まったくこっちは大目玉だよ」


 苦笑いしながらも、普段あまりレースに乗れていない自分を讃えてくれているのは素直に嬉しかった。


「悪いな、ガレイシップ、四着飛ばしちまったみたいで」


「何言ってんだ、掲示板入ったんだから首の皮は繋がってるよ。そんなこと気にすんな」


 隣にどっかり腰かけてくると、頭をガシガシと撫でられた。


「お前は上手い。ただタイミングがなんかズレてるだけなんだよ。競馬の話じゃないぜ、生きていくうえでのタイミングっていうか」


 歳は同じ二三だが、彼の方が大人びた雰囲気をしており、面倒見が良い兄貴肌だった。


 友達、というよりは、戦友と言った方が良いような、不思議な関係だ。


 しばらく新堂と話し込んでいると、レースが終わったのか控室に騎手たちが引き揚げてきた。そんな中「あ! せんぱーい!」と言う声に吊られてみれば——。


 二つ下の後輩である柴崎浩平の姿があった。


 騎手リーディングでは一五位という上位に位置し、既にG1競走でも常連となりつつある期待のルーキー。自分なんかは先輩面できるような立場にないが、競馬学校時代、深夜に寮を抜け出すところを見逃してやってから妙に懐かれた。それからの仲だった。


「見ましたよ? 今日やばいですね、なんですかあれ! 調子良いんじゃないスか?」


「まあな、たまたまだ。お前には負けるよ」


「またまたぁ。有名ですよ、忘れたころの町村って」


 ごく普通に軽口を叩く柴崎だったが、新堂が怒気を孕ませた声を上げる。


「浩平、お前、優駿に何か言うことあるだろ。ダービーがあった日の——」


「あ、すいません、自分次も乗るんで! じゃあお先に。あ、どうです町村先輩、終わったら飲みに行きません? 可愛い子いる店みつけたんですよ。ジャッキーは金持ってるって知ってるから、簡単にお持ち帰りできますよ」


「いや、ミホにすぐ戻らないといけない」


「あ、そすか。厩舎所属は辛いっすねぇ。それじゃ」


 この態度が許せなかったらしく新堂がいきり立って柴崎を捕まえに行こうとするが、町村は彼の腕を掴んで引き止めた。


「あいつ、お前を落馬させて大丈夫ですかの一言もないんだぞ!」


「この仕事してればよくあることだろ。気にすんな。お前も今日のメインに乗るんだし、調整しとけよ」


 やりきれない表情の新堂を置いて帰り支度に取り掛かる。


「お前、それでいいのかよ」


「いいってば」


 今日はそんなことよりも、胸の動悸を早く鎮めたかった。本当に勝ててしまった、そのことがまだ信じられない。長い長い夢を見ているんじゃないだろうか——。


「否、夢ではないぞサルよ」


 ロッカーの鏡には、自分の頭にへばりつくオベイロンの姿があった。


「期待通りの働きである。この調子で、我が臣民の救済に尽力せよ」


 俺は悪魔と契約を交わしたんじゃないだろうか。




◇ ◇




『テイジンファラオが抜け出したァ——! 一番人気モラトリアム首差及ばず!』


『先行二頭のマッチレースを制したのは怪我から復活のテイジンファラオ。モラトリアム鞍上の柴崎、終始マークされた中で良く我慢させましたが、これがブノワマジックか』




「くそッ!」


 柴崎浩平は悪態を吐いて地下馬道へと降てきた。


 モラトリアムの引き綱を持つ厩務員はオロオロとして、聞かなかった風を装い前を向いたままだ。その白白しさすら今の浩平にとっては不愉快だ。このまま馬を爆走させてやりたい衝動に駆られるが、それは寸でのところで抑えた。


 脱案所にやってくると、浩平はさらに不愉快になった。憤懣やるかたないといった様子の父親であり、調教師の柴崎博が待ち構えていたからだ。


「勝てるレースだった。集中できていないぞ浩平」


「競馬に絶対はないっていつも言ってるだろ、父さん」


「取れるところを今日は三つも取りこぼした。メインの前には二つも穴を開けられた。浮ついた気持ちで馬に乗るんじゃない!」


「……わかった、わかってるよ。検量行くから——」


 衆人環視の中で叱責された浩平は、鞍を抱えて逃げるように検量室に入っていった。


 全てを終え、浩平は控室に戻るやいなや忌々し気に脱いだ服をロッカーに叩きつける。


「くそ、くそくそくそッ! 糞おやじめ、てめぇが番組を見誤っただけだろうが糞が」


 周囲の目も気にならず父への憤りを爆発させたところで、良く懐いている後輩の伏見と加納が遠慮がちに声を掛けてきた。


「浩平さん、惜しかったですね」


「仕方ないっすよ、あんだけマークされたのに良く潰されなかったってみんな言ってます」


 確かに、レース内容としては自分はベストを尽くした。圧倒的一番人気を背負って周囲から完全マークされながらもモラトリアムは最後まで押し切りの競馬をやってみせた。


「今日は冴えてない。テイジンファラオを叩きと思って度外視してたんだ。平場でペースを掴めなかったのが痛かったんだよなぁ」


 いつもなら下級条件の平場レースで勘を呼び起こし、メインの重賞に臨む。だが今日はどうにも上手く乗れなかった。こんな日もある。競馬は大半が負けなのだから。


 切り替えていこう——浩平はそう思ったのだが。


「たまぁにレースで見かけると思えば、穴開けて荒らしてくれるんだよな」


「あの人な」


「お前ら、誰のこと言ってんの?」


「ほら、ダービー先輩ですよ。落ちこぼれ世代の残党」


 後輩たちは顔を見合わせると、声を殺して笑っていた。


 たしか、あの世代の騎手は町村と新堂以外は引退していた気がする。新堂はリーディングで自分よりも上に居るが、町村はほとんど見かけず、引退したも同然だ。


 たまに現れて今日みたいに平場を荒らしてくれる。


 それも大事なときにやらかしてくれるものだから……そうだ、あの日も。


 ダービー当日のレースで、自分の馬が寄れたせいであいつが落馬した。


 検量室ではリーディングで首位争いをしているあのフランス人が自分に詰め寄ってきた。下手糞な日本語で捲し立ててきたのだ。


『アナタの騎乗ね、非常にアブナイ。馬がイッパイだって分かるなら、追っちゃだめだよ。だから今日みたいな事故起こすの。ソンナ馬乗りネ、馬も人も殺しますよ』


 思い出して腹が立つ。そうだ。思い返せば、ケチがつくときはいつもあの町村の影があった。あの騎手なのか厩務員なのかわからないような三流が、自分のリズムを崩すんだ。


「忌々しい先輩だぜまったく」


「次やったらなんてことないですよ」


「そうそう。今日はたまたま、ハマったってやつです」


 後輩たちはフォローしているつもりだろうが、その擁護が逆に自分の株を下げている上、感情まで逆なでしていることに気づいていない。


「あのさお前ら、あっちはリーディングのケツから数えた方が早いような泡沫騎手なんだよ。お前らよりも下なの。そもそも比べてること事態が——ま、いいや、疲れた。明日も六鞍乗らねえと」


 父親の叱責や調子の悪いレース内容ばかりに気を取られたくない。明日もレースはあるのだから、とっとと切り替えていかないとまた大恥を掻くことになる。


「浩平さん、そういえばどうなんです? あの美人調教助手と」


「あ、聞きたい聞きたい。しおりんの妹の馬が回ってきたって!」


「もう手出したんですか?」


「どこで聞きつけてくるんだよ……」


 耳聡い連中だ。


 途端に打って変わった話題に色めく後輩たちに浩平は呆れ、彼らを押しのけて自分で荒らしたロッカーを片付けた。この話題だけはどうにも冗談には出来ない理由がある。


 アイドルジョッキー小野寺詩織の妹にして、超がつく美人調教助手。


 前々からエージェントに頼んでおいた話がようやく実ったのだ。


 このチャンスは是が非でも活かしたい。


「やっぱ、馬乗るにもモチベーションが要るわけよ。お前らだって、もっと良い車が欲しいとか、女が欲しいと思って馬に乗ってるわけだろ。つまり欲望が無きゃ馬は追えないの」


「しおりんの妹が新しい欲望ってわけですか?」


「それはどうだろう」とはぐらかす。


「やっぱ良血の種牡馬には良い肌馬が必要っすからね」


 それを聞いた浩平は思わず吹き出し、吊られて後輩たちも笑いだした。


 騒々しい一角には他の騎手たちの白い目が注がれる。。


 確かに、良い肌馬だと浩平は思った。


 顔は言うまでもなく姉に似て美人。小柄でも出るところは出てるし、あの柔肌は男好きして当たり前。好き勝手してやりたい衝動に駆られて当然だ。


 今にモノにしてやる――浩平はその時のことを想像してほくそ笑んだ。




◇ ◇




 最終の12レースまで残らずに町村はリニアに乗り込み、茨城まで帰ってきた。


 水戸駅からは無人タクシーを使ってトレセンに戻り、独身寮からスクーターを持ち出して小野寺厩舎まで向う。


 その間、どういうわけか頭にへばり付くオベイロンが鼻息を荒くして酷く興奮状態に陥っていることに気が付いた。


「お前なんだよさっきから。うるさいぞ」


「サルよ、余は聞いていない。あの娘が火曜から余に調教をつけると言い出しておる! これは命令だ、止めさせよ!」


 なるほど。元の身体である競走馬のオベイロンに向かって、香澄が話しかけているわけだ。それにしても馬鹿なことを言う馬だ。


「あのさ、お前は競走馬なの。なんで調教を受けずに済むなんて思ってるのさ。今まではお前がガリガリだったから引き運動とかウォーキングマシンで済んでたんだ。飼い葉食いが戻ったら本番の調教が始まるのは当たり前だろ」


「しかし余は王である!」


 良くわからない理屈で憤慨するオベイロンだ。そんなに調教が嫌ならなんで競走馬としてやって来たんだと町村は半ば呆れて果て、頭上で喚くクリオネ馬を無視してスクーターを走らせた。


 小野寺厩舎に着くと、真っ先に厩舎へ向かって頭の鬱陶しい王様を引っぺがす。


 四六時中彼の小言を聞いて命令され続けていては休む暇も無い。


 厩舎には案の定誰も居なかった。業務は既に終わっているはずだし、飼いつけも終わっている。これで気兼ねなくオベイロンと喧嘩ができるわけだが、宿直で残っているであろう誰かさんにはあとで顔を出しておけば良いだろう。


 元の身体に戻ったオベイロンは、王様の恰好を殊更強調するように胸を張った。


「よいか、サルよ。王とは君臨する者である」


「言葉の意味としてはな」


「貴い在り方こそが、下々からの羨望や尊崇を集め、王という殻を満たすのだ。余は彼らの為に王たらんとせねばならぬ。気高き魂を常に保たねばならんのだ。そうであろう? ライラックよ」


 斜め向かいの馬房から首を出したニシノライラックに同意を求めるオベイロンだが、彼は理解しているのかしていないのか、首を傾げている。


 要はケイコをつけたくないという遠まわしの抗議なのだろうが、そうは問屋が卸さない。


「オベイロン、お前は案外期待を背負ってるんだぜ? 香澄だってお前でクラシックに挑みたいって言ってるんだ。普段から世話してもらってるんだから、期待に応えてやれよ」


「クラシックとは何か」


 そこで一つ思いついた。オベイロンの性格を考慮し、高貴さや稀少さなどの価値をアピールすれば、その気になるのではないかと思ったのだ。


「クラシックレースっていうのは、格式高いレースのことだよ。競走馬が三歳の時にしか出走できない、生涯に一度だけの大舞台。牝馬は別にあるけど、牡馬のお前には皐月賞、ダービー、菊花賞に出るチャンスがある。その中でも、ダービーだけは、全ホースマンの憧れなんだ」


「ダービーは貴様の名ではないか」


「それは言わないでくれ。サルで良い——いや良くないよ!」


「ふん。さりとて数多くあるレースの一つではないか。三歳だけで争ったところで何がわかるというのか。余には相応しくない。すべての者が権利を有する一大頂上決戦の場であれば、余はこの身に滾る力を発揮してやらんでもないがな」


「ああ……有馬記念、宝塚記念。グランプリレースがある。いやまあそれでも良いんだ。お前がこの先、馬やってくっていうなら、この辺りが目標になる。所謂G1競走な。サラブレッドの王様だっていうなら、G1は取ってもらわらないと格好つかないぜ?」


な? と説得を試みていると、途端にシャッター音が鳴り、ハッとした。


「ふふふ、何のお話をしていたのかな?」


 振り返ってみれば、そこには随分とアナログなカメラを構えた見知らぬ女性が立っていた。見られたことはほぼ確実で、しまった——という焦りがこみ上げてくる。


「ああ! いや! 違うんだよ! 別に話なんか――ってか、え? だれ?」


 突然厩舎に現れて写真を撮ってきた、一見不躾な女は田所美琴と名乗った。


「月刊ホースマンで新しく記者をすることになりました。須藤さんに代わって、小野寺厩舎を担当させてもらうことになったので、これから宜しくね」


 自己紹介と名刺を受け取るも、心中気穏やかではない。傍から見れば自分達のやり取りは他人には見えないし聞こえない。奇人変人と疑われるのも嫌だった——目撃者がメディア関係者ともなれば尚更だ。


「そんなそんな警戒しないで頂戴。これから長いお付き合いになると思うし。今日は動画でしか見てないけど、復帰戦すごかったわ。おめでとう町村ジョッキー」


「あ、はい。ありがとうございます」


「今日は挨拶だけだからこれで失礼するけど、今度は取材させてくださいね。主に——」


 「そこの王様と何を話していたのか」——と彼女なりの冗談なのだろうが、こちらはドギマギしっぱなしだ。終始平静を欠いた邂逅が終わると、町村は深く嘆息した。


「危なかった。だいたいお前がそんな恰好しているから余計に注目集めるんだぞ」


「王である余が、王冠とマント無しに居られるものか。貴様こそ分をわきまえよ。それよりもだ、あの小娘への口添えをだな……」


「はいはい、わかったわかった。おやすみー」


「ちゃんと聞いておるのか! サルよ! 余は二歳であるぞッ!」


 大抵の馬は二歳でデビューしてるもんだ。それにしても、あのオベイロンがここまで狼狽するのは珍しい。本番調教は始まっていないのに、既に香澄を恐れているところを見るに、本気でオベイロンを仕上げようという彼女の気概を感じる。


 鞍上が誰になるのかは定かじゃないが、あんな口うるさい王様でも一度くらいは乗ってみたいと思った。


 オベイロンも馬房に戻した事だし、もう寮に帰ろうかと思ったが、小腹がすいたので事務所で何かつまんでいこうと思い立った。レースがある日は体重管理でゼリーくらいしか口にできない。そのレースも終わり、明日は乗鞍が無いので体重を気にすることも無い。


 つまり腹ペコ——こんな生活を続けることが幸せなのかどうか、あと何年できるのか——そんなことをぼんやり考えながら「戻りましたー」と声を掛けて事務所にやってきたが、人の気配は無い。


「何だよ、不用心だな」


 誰も居ない事務所を横切り、休憩スペースの大仲を覗き込むが人っ子一人いない。


 取り置きのカップ麺があるはずだと台所の棚を漁り、良く食べるお目当ての『もやしたっぷりの激辛大盛麺』を見つけて小さく歓喜していると、コンロの上に置かれた鍋があることに気が付いた。


 中身はカレーで、思わず自分のカップ麺と見比べてしまい、思わず食指が動きそうになる。だがやはり誰かが何か目的があって作ったはず。この歳になって盗み食いで怒られるのも癪である。見て見ぬふりをしながらポットかお湯を注ごうとした——。


「あっつ——あちちち……はぁ……やらかした」


 盛大にお湯を零してしまった。拭くものは無いかとあたふた見回すが、どういうわけか布巾の一枚もこの事務所には無いと来た。


 ぶつくさ悪態を付きながら宿直に使う仮眠室に入り、浴室の戸を開けると——。


「あ」


 目に飛び込んできたのは艶やかな女の肢体である。


 水が滴る濡れほそぼった黒羽色のショートヘア、スラリと伸びたしなやかな手足に日焼けの跡、身体に巻かれたバスタオルは小柄ながら豊満な身体を覆い隠すには窮屈そうに悲鳴を上げている。町村は思った。ああ、良いメリハリだ。特質すべきは胸の張りだが、日頃から調教で鍛え上げている腰つきは布越しからもわかる良いトモをしている。


 胴の短さから恐らくは短距離のスプリンター気質だろうと予想するが、日々目にしている働きぶりからステイヤーにも使えそうだと——そう思い、そっと扉を閉めてドアノブを固定した。


『ダビ夫』


「すまん、すまんから許して。怒らないで」


『開けなさいダビ夫。怒らないから』


「いいや信じられない。悪いのは俺だけどこれは不可抗力だ。悪い、悪かったから怒らないで」


『怒ってないから——開けろって言ってんだよオイッ!』


「ヒィィ——ッ」


 音を立てて跳ね回るドアを後ろ手で懸命に押さえ、へたり込みながら町村はこの数日の出来事を思った。これが走馬灯だろうか——。




 ボサボサになった髪をそのままに、左目に青たんを作った町村は大仲のソファーでカレーを食べていた。誰が悪かったとかそういうのではない。そういうのではないが、甘んじて受けるのが男の甲斐性であろう——そうやって香澄に腕力で負けた過去を乗り越えようとしていた。


「ほんと最悪。覗きまでされた挙句になんでカレーごちそうしてやらなきゃいけないの」


「美味しいです」


「当たり前じゃん。この状況で舐めた口聞いたら右目もヤルから」


 どうしてこんな恐ろしい娘に育ってしまったのか。昔の香澄はもっとこう——あまり変わっていない。覗きの罰は、それはもう過激であることが証明されているが、それでも事情を聞いて手料理を振舞ってくれるとは思わなかった。飴と鞭、まるで調教だ。DV夫とだらだらつい関係を長引かせてしまう妻の心境である。


 おかげで口の中は血とカレーの味がするが、まあまあ美味いカレーだと思う。


「カレーなんて誰が作っても一緒っしょ。それよりあんた、今日のレースさぁ——」


 レースなんてもうどうでも良いほど身心に衝撃とダメージを負っていたが、彼女はテレビを点けて録画していたらしい今日の競馬を映し出した。


「いつも前目で行くの下手だったじゃん。今日どっちも前で押し切ったよね」


「え? ああ……そうだったかな」


「勝つときはいつも追い込みかマクリで後ろからの競馬だったっしょ。てかあれって、前に壁が無いと馬を宥められないからでしょ。上手くポジションも取れないから、仕方なく後ろから競馬して、でも馬を走る気にさせるのは昔から上手かったもんね、だからハマったときに大穴が決まるんだ。アンタ」


 言われてみればそうなのかなと思う。自覚はしていなかったが、先行競馬が下手糞だと言われたのはなかなかの衝撃だった。


「あんな騎乗できるなら最初からしなさいよ。そうすれば後輩に追い抜かれて、今みたいに乗鞍で苦労することなかったんだし。追い込みが好きだって子供頃言ってたけどさ、確かにカッコいいのはわかるけど、勝ちたいなら変なこだわり捨てた方が良いよ。今日見たいな乗り方すれば、きっと——」


 と、香澄からダメ出しをされてしまった。確かに先行競馬は苦手でこれまで避けてきた部分もあるのは事実だ。今日は馬との折り合いが改善されたからこなせる訳で、その点を香澄は評価してくれている。だがこの改善された点はオベイロンに拠るところが多く、素直に喜べない。ただ、意外な事実を知ることができて嬉しかった。


「レース、見ててくれたんだ」


 オベイロンに出会う以前はほとんど会話も無かったというのに、随分と自分の恥ずかしいレースを見られてしまい、それでも見ていてくれたのだ。


 こんな末端の騎手のレースを。


 すると香澄はすっと顔を背け、自分のカレーを片付けて引っ込んでいってしまった。


「食ったらさっさと帰れ、馬鹿」

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