二章 契約の意味 2
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砂煙が舞い上がる——。
前を行く馬の蹴り上げた砂がバチバチと体に当たる。
ゴーグルやバイザーが無ければ目を開けておくことなど不可能だ。
背後につけば一頭ですらこのありさまなのだから、それが十数頭ともなれば砂のシャワーを浴びているようなもの。
ダート戦における鉄則は基本的に先行競馬。この砂塵を見れば、何故、などという疑問は湧かないはずだ。後方の馬たちは砂嵐の中での競馬を強いられることになり、それに加えて彼らの目は剥き出しなのだ。
走っている最中に砂粒が幾度となく眼球に打ち付けられれば、幾ら馬が従順であってもやる気をなくしてしまう。ここのケアが出来る出来ないで、レースの結果は大きく左右される。
福島ダート一七〇〇メートル、三歳未勝利戦、6R。
柴崎浩平は馬群中段の外に張り付き、出来うる限り舞い上がる砂の影響が出ない位置を確保する。今日の馬場は比較的乾いており、この距離のレースでは差しが効いている。
好位を確保したままレースを勧めれば勝ち負けができる。
『二番シルクフォード半馬身リードで先頭、四コーナーを回ります。差が詰まって四番ウェイディング、リリーブラウン——』
最後のコーナーで馬群は凝縮。逃げ馬が潰れる。
先団馬群が横に膨れた時を見計らい、一番人気のルールブレイカーが気を見計らったように追い出した。
簡単に行かせると思ったら大間違いだ。こっちは最初からこの馬をマークして競馬を進めてきた。
このレースは貰いだ——。
騎乗馬のグレイアンビシャスは、競走馬としてのスタートこそ躓いた。
だがそれでも現在の主流種牡馬——リーディングサイヤーである三冠馬イスカンダルの産駒だ。
柴崎のクラブ馬、柴崎牧場生産、柴崎グループ外厩仕上げ、柴崎厩舎所属——そして柴崎の騎手。オール柴崎の馬がここを落とすわけにはいかない。
『直線コースに変わって八番グレイアンビシャス追い上げ体勢、反応が良い! アッという間に先頭に代わる! イスカンダル産駒はダートでも力を見せつけるのか——おっと、しかしぴったりとサラザール! 十二番のサラザールが食い下がる! これは二頭の追い比べになりました!』
最高のタイミングで仕掛けたはず——どうして併せ馬の形になっているんだ。いやそれは良い、レースをしているんだから当然のこと。だがこの馬に用は無い——十二番——サラザールは米国ダート血統のミーティア産駒。
よしんば馬場が合っていたとしても、三流の外国産馬じゃないか。そんな禄でもない馬に併せられてどうする——ッ。
「くそったれ! 落とせるかよ!」
クズ馬でしかないはずだ。たまたま折り合いがついたんだ。末脚は活きない血統。
あと一ハロン、もう止まる。早く止まれ、早く、早く、早く止まれッ!
サラザールの騎手が馬の横面で見せ鞭をしてからクルリと回した——途端にサラザールは流れるような足捌きで手前肢を交換し——再加速。右手前から左手前へ、乳酸の溜まった肢を開放し、力を振り絞ろうとしている。
何て器用なことをしやがる——冗談じゃない、誰だ——。
浩平は歯を食いしばって懸命に馬を追ったが、グレイアンビシャスの末脚は併せた馬に抜かされた途端、風船から空気が抜けるように萎んでしまった。
『サラザールが先頭に変わったところでゴール! 首差の決着となりました。二着は三番人気グレイアンビシャス、三着は四頭接戦。一着の八番人気サラザール鞍上、忘れたころの町村ダービー、本日は忘れる間もなくやって来ました——』
浩平は感情をそぎ落とした面持ちで控室に帰った。
また父親にこっぴどく叱られたのだ。衆人環視の中での叱責ほど惨い仕打ちはない。
お前は老い先短いから好きなことが言えるだろう、だが俺はこの先の競馬界を背負って立つ騎手にならなきゃいけない。
それなのにどうしてあんな真似ができる。
他の有名調教師が雁首を揃えている中で、どうして息子の評価を必要以上に貶めようとする——いつもならば感情が爆発寸前まで追いやられていた。
だが、怒りや羞恥心からくる反発や反骨も、どういうわけ今回はスッと引いていた。
6Rで目の当たりにした流れるようなシフトワークが目に焼き付き、その異様さの方が自分の感情よりも優先されてしまっていた。
自分にはあの馬が不可思議に見えて仕方なかったのだ。
あの三流血統に加えて夏のクズ馬に、あんな見事な手前交換ができるのか。
もちろん、競馬は何が起こるかわからない。偶然、たまたまその馬が激走してしまったということはままある話で、気にしても仕方ない類かもしれない。
だとしても、それにしても——多くないか?
「町村……」
ぽつりと呟いた忌々しい三流ジョッキーの名前。
このところ、自棄に見かけるようになったあの男。あいつが何か馬に影響を及ぼしているのか——そこまで考えて、浩平はチューブのゼリーで体重調整を始めた。
「ありえない」
ただの偶然だ。どうせメインレースに出られるような格じゃない。
条件戦で小銭稼ぎをするしか脳のない奴から、下級レースまで取り上げては可哀そうというものだ。
それに、下級条件戦では自分も毎回良い馬に乗せてもらえるわけじゃない。
勝ちきれない馬がそのクラスに居るわけだから、多少向こうの馬質が上だっただけ。
それだけの理由に過ぎないし、どうせ使い捨てだ。潰される夏馬に頓着する意味なんて無い。
競馬は馬がすべて。
いい馬を回して貰えるコネを持つことこそが、騎手の腕だ。
騎乗技術なんてものはただの幻想にすぎない。
人脈こそが、勝利への鍵なのだから——。
◇ ◇
福島の6Rで優勝し、ウイナーズサークルで口どり写真を撮り終えたところだ。
今日の騎乗予定は二鞍。午前と昼に一鞍ずつ乗って、どちらも勝つことはできた。
ただ、後が続かない——レースに出るごとに鞍は減る一方。
今年入った減量特典のある新人は、競馬にも慣れてきて腕をつけ、乗鞍を増やし続けるだろう。
だがその分、自分が乗れる馬のパイが減っていくのだ。
宮下が用意してくれる馬数にも限度があるし、一度乗った馬は大抵ひと月近く使うことが出来ない。疲労を抜いてから次のレースに臨むのが一般的だ。
叩き台と呼ばれる(勝ち負け度外視の)レースを使用し、翌週にもう一度レースを使う連闘の手法もあるが、その場合は休養明けの馬に走る気を起こさせる為、走りの勘を取り戻させてやる為にするもの。
今の自分が取れる手段は、馬をオベイロンの協力によって覚醒させ、持てる力と技量の全てを吐き出させ辛勝を捥ぎ取る、というものだ。連闘などしてしまえば馬が壊れてしまうし、そんなことをオベイロンは許さないだろう。
どうしたものか——。
ウイナーズサークル内での一連の行事を終え、スタンドの観客からの握手やサインの求めに応じていく。
以前はあまりこういうことも無かったが、最近では自棄にファンと呼ばれる人たちが増えた気がする。
『町村ダービー』なんて恥ずかしい横断幕まで提げられるようになって、有り難いが、内心複雑だ——自分の力ではないのに。
「お前大したやつやで。前から目ぇつけたけど、ようやっと日の目が出たなァ。良かったなァ。いやほんとありがとう町村ァ、お陰で借金返せるわ!」
「おじさん、勝てたなら今日はもう止めといてくださいよ。責任とれないすからね」
「なははははっ! そりゃあお前、ほれ、アレだ——なははははっ!」
いつもの穴党馬券親父に苦笑いで応える。
福島くんだりまで遠征してきてくれるのは喜び半分驚き半分、嬉しいことだが、どうせなら女性ファンが欲しいな、ぼんやりと思った。
応援してくれるのは大抵が五〇過ぎのおじさんたちで、どういうわけかいつも借金を背負ってやってくる。
自分を借金返済計画に組み込むのは本当に勘弁してほしい。
それは置いとくとして、今日の仕事はやり切った。
オベイロンの要望にも応えられた。
次に繋げるためにも、さっさと帰って無い知恵を絞り、馬をどうやって確保するか検討しなければならない——控室への帰路でのこと。
突如としてスタンドが揺れた。歓声が悲鳴に変わり、また歓声に変わる。
競馬場ではよくある光景である——。
7Rで落馬事故が発生したのを知ったのは、控室で帰り支度をしている時だった。
「良かった——もう、帰ってしまったんじゃないかと」
帰り支度をしていたところ、宮下から呼び出された。
彼はいつもの白衣ではなくスーツ姿。レースの当日は、馬主と会ったり口どり写真を撮られることもあるため正装の必要がある。だがそんなことお構いなしに、息せき切らせて駆けつけてきたようだった。
「どうしたんですか先生、そんな慌てて」
「いやね、ちょっと、君にお願いがあって」
お願い? と疑問符を浮かべていると、宮下の背後からえっちらおっちらと小太りの男が額に汗を浮かせながら走ってくる。
「ひゃー……これは、しんどい……馬は、すごいなぁ」
駆け寄ってきた小太りの男は膝に手をつきゼイゼイと肩で息をしていた。
突然のことに困惑を隠せないでいると、宮下は意味深な笑みを向けてきた。
「町村君、こちらはリットウ所属の調教師で大須賀先生だ。私の大学のOBでね。単刀直入に言わせてもらうと、今日のメインレースで騎乗予定だった貝塚騎手がさっきのレースで落馬負傷してしまったんだ。だから代わりの騎手を探している。私としては君を推したいんだが、どうだろうか? もちろん、私の厩舎に所属しているわけでもないから無理にとは言わないよ」
「どうも、初めまして」
大須賀に握手を求められ、町村は慌ててその汗ばんだ手を握って頭を下げる。
宮下の意味深な笑みの理由がわかって、すっかりオフモードに入りかかっていた体に気合が乗った。
彼は自分をピンチヒッターに推薦してくれたのだ。
11R——これは競馬に於いて特別な意味をもっている。
その日行われるレースの中でメインとなるのが、第十一競走なのだ。
賞金も、馬券の売り上げも段違いに多く、出走する競走馬の質も一段と跳ね上がる。
騎手に目を転じても、一流どころがゴロゴロといる。
今日でこそ土曜ということもありグレードレースから格落ちするが、それでもメインだ。
騎手人生を振り返っても、11Rに出たことなんて一度も無い。憧れと言っては何だが、目指すべき場所。
目標に掲げる日本ダービーを制覇するのなら、当然この『11R』の常連でなければ歯牙にもかけられない。
町村は胸の鼓動が早まるのを感じていた——当然乗りたい。挑戦したい。
このチャンスを是が非でも掴みたい——しかし——。
「すみません……今日のメイン、ウチの厩舎からも出るんです」
タイミングの悪いことに、小野寺厩舎からも出走馬がある。同門対決というのはあまり聞いたことが無いし、何より自分の師匠である小野寺を介さず、同じレースでかち合うことは憚られた。いくら自厩舎が自分を乗せてくれなくたって、師を裏切るような真似は出来ない——。
「いい話じゃないか、ユー君」
声を掛けてきたのは小野寺だった。
どこで見ていたのか、訳知り顔で近づいてくると、宮下たちと挨拶をかわして礼を述べ、「最低限の仕事はできる筈です」と大須賀にとりなし話を進めてしまう。
ポカンと口を開けてその様子を見ていると、小野寺が振り返った。
「いい機会だから乗せていただきなさい。最近の頑張りを思えば、こういう巡り合わせは大事にしないといけないよ」
外見的な印象から見る人に頼りなさを抱かせる小野寺であったが、この弟子を思う優しさに町村は小さな感動を覚えた。
普段ほったらかしにされている、とは言わないが、それでもちゃんと考えていてくれたことが嬉しかった。
香澄にしろ師にしろ、小野寺家は放任主義の家系なのだろうかと頭の隅で思う。
「助かりました小野寺先生。いやはや申し訳ない、先生のとこも使うレースなのに」
「とんでもございません、良い機会をいただきました」
小野寺は大須賀と互いに譲り合うような腰の低い交流で名刺を交換を始め、そこへ宮下が混ざり調教師たちだけの世界が形作られていく。
これでもう逃げ道は塞がれた——出るのだ、『11R』に。
「サルよ、聞いた話によると、11Rというのは強者ぞろいのレースということであろう?」
「ああ、そうだ。頼むぜオベイロン、力を貸してくれ」
「忘れたかサルよ、余は弱者に手を貸すと申したはずだ」
頭上にへばり付くオベイロンは冷たく言い放った。
どういうことかと意味を斟酌していていると、言葉に詰まってしまう。
これは言外に断れているのか——ここまで来てそれは無いだろうという焦りがこみ上げる。
「頼むよ……ここで覚えが良くなれば、大須賀先生のところの馬を今後も回して貰えるようになるかもしれない。騎乗馬を集めろっていつも言ってるじゃないか。なぁ頼むよ!」
搦め手拝み手で頭上の主に頼みこむと、オベイロンは身動ぎをして鼻を鳴らした。
「余を丸めこもうという腹か。確かに理にかなっておるし、手を貸してやらんでもないが、ケイコの機会もなく初対面の馬と息が合うのか?」
「……いや、わからない。けどもう退けるかってんだよ。ぶっつけ本番でいくしかない」
騎乗馬はリットウ所属、大須賀厩舎の五歳の牡馬、ミリアンドーベル。
騎手変更が決まってから大慌てで勝負服を受け取って準備を始めた。
体重が大分落ち込んでいたので、その分を水とゼリーで調節していく。
突然のことなのでろくに資料を見ることもできず、競馬新聞だけを頼りに騎乗馬の情報を読み込んでいると、あっという間にレースの発走時刻が近づき、押っ取り刀でパドックまで駆けつけた。
パドック周回が終わったところで、初めてミリアンドーベルとのご対面である。
黒鹿毛の五歳という事もあって体つきは雄大、盛り上がる筋肉は普段自分が乗っている未勝利馬とは比べるべくもない。馬体重も五〇〇キロ台と大型で、パワーがありそうだ。
だが首をしきりに振り乱し、発汗が激しい点が気になる。
汗を纏った黒い馬体が夏の日差しに照り輝いていた。
「イレ込んでるかな……」
「町村君、今日は前が止まらない。幸い初めて内枠を引けたから前目につけてくれ。内で脚を溜めて押し切るんだ。馬主さんも落馬交代ならしかたないと理解してくれたから、着を取れとは言わないよ。だが賞金は持ち帰りたい。掲示板を目標にしてくれ」
五着までに入れという指示だが、初タッグでどこまでやれるか不安が募る。
ドーベルは依然として気を悪くしたままで、厩務員がなんとか押さえている状態だ。
「了解です」
大須賀が作った組手に膝をかけて鞍にまたがると、ドーベルの気性が一段と荒れ狂い、何度か立ち上がろうと試みる。
こんなところで落馬は御免だと、懸命に馬にしがみつく。
やはり調教から乗れなかったのが悔やまれる——これからレースがあるのだと雰囲気や場所から感じ取っているドーベルは、極度の興奮状態に陥り制御が効かない。
「オベイロン——落ち着かせてやってくれッ、レースどころじゃない——」
「恐慌状態では対話など無意味だ……致し方ない。ドーベルよ、余の声を王命と知れ——静まるのだ——」
クリオネ紛いの姿で威厳も何もあったものではないが、それでもオベイロンの声の威力は絶大だった。
ドーベルは暴れることをピタリと止める。
ただ、興奮状態に変わりはないようで、目は血走らせて鼻息が荒いままだ。
「こりゃ、いったいどうしたんだろう?」
調教師の大須賀からしたら突然馬が従順になったように見えたはずだ。これで解決できれば話は早いのだが、オベイロンの見通しは暗かった。
「安堵するのは早い。サルよ、押さえつけただけではこやつの力を発揮できぬぞ」
「わかってる」
落ち着いてオベイロンの声を聞いてくれれば連携は取れるはずだ。
この馬の特徴はつかめていないが、一度返し馬で走らせて一呼吸置けば気性面を改善させられる可能性もある。
まずはそこから——町村は意を決して本馬場へと赴いた。
そんな彼の背中へ、歪む情念を孕んだ視線を向ける者が居た。
発走時刻は刻一刻と迫る。
係員によってスターティングゲートへと誘導され、ミリアンドーベルは大人しく三枠四番のゲートに収まってくれた。
先ほど本馬場に出たドーベルは、抑え込んでいた興奮を発散させるように爆走してしまった。パドックでも異常な発汗が続いていたこともあり、これ以上スタミナを消耗させるわけにはいかず、オベイロンの声を届けることに注力した。
早めに落ち着きを取り戻させることは出来たが、ドーベルにゴール板を教える暇がなかったのは痛手だ。
彼は他の馬と同じくどこまで走ればよいか分からないままである。
奇数番号からゲート入りが始まり、偶数番号が収まり、大外の十五番の馬が促される。
その時だ——。
「サルよ、この者は馬を怖がっておる。馬群の中に入れば暴走か萎縮かのどちらかだ」
「なに、言ってんだよッ——こんな始まる間際に言われたって——痛——ッ!」
忽ちドーベルの落ち着きが無くなっていく。
彼は足を踏み鳴らし、ゲートの左右にある仕切りに身体をぶつけ始めた。その際に自分の足が仕切りと馬体に挟まれ、眼球の奥で火花を見た気がする。
こんなスタート間際に作戦変更だなんてどうしたらいいのか——最後の馬がゲートに収まって係員が離れようとしている。
もう始まってしまう。
作戦を強行するか否か、最後の瞬間まで考え続け、大須賀の言葉を思い出す。
『幸い初めて内枠を引けたから前目につけてくれ』——初めて内枠を引けた——。
恐らくドーベルは内側で馬群に揉まれた経験が無い。
「オベイロン、一完歩遅らせて出るぞ」
『福島競馬場、第11R、芝一八〇〇メートル阿武隈ステークス……スタートしました。おっと四番のミリアンドーベルちょっと出遅れたか——後方からの競馬となります。その他はそろったスタート。先に主張するのは——』
大須賀は手前の欄干を掴んで声にならない悲鳴を上げながら項垂れた。
スタート間際までミリアンドーベルの状態が悪く気を揉んでいたが、大人しくゲート入りしてくれて一安心した矢先のことだった。
「ああぁ……やっぱりテン乗りじゃダメだったかぁ……」
米神を抑えて俯いてしまった大須賀に、隣の席にいた宮下は「まだわかりません」と慰めの言葉をかけた。
これは半分が気休めではあったが、もう半分は本気であった。
まだわからない——。
「先輩、まだ分かりませんよ。普段、彼の騎乗を観察していて驚いたのが、時折、馬なりで全てのことをこなしてしまうんです。手綱も持ったままで折り合いをつけてしまうし、まるで馬との意思疎通ができているような……」
泣きそうな顔を上げた大須賀は怪訝そうに眉を潜めたが、億劫そうに体を起こした。
「ダメでもともと……。お手並み拝見しますか」
馬群は列が流れていかない団子状の一団を形成しつつある。
体内時計に絶対的な自信が無くとも、スローペースであろうことはわかる。
後方三番手の位置で、先行馬のドーベルを活かすのは中々に難しい——。
「サルよ、前を行く者たちの気迫が緩んでおる。今だ」
オベイロンはラップタイムを理解しているわけでは無い。
だが、ペースが緩む感覚を馬の覇気という形で読み取れる。これを利用し、一ハロン二〇〇メートル毎のラップタイムが遅くなった箇所で加速を指示し、少しずつ順位を繰り上げる。
捲り競馬という戦法で、後方から最終コーナーまでに順位を繰り上げながら直線に雪崩れ込むのだが、加速を指示することで馬は「もうスパートをかけて良いんだ」と勘違いし、最後までスタミナが持たない状態に陥ることもある。
「馬体併せて——落ち着いて、馬は怖くない、お前の仲間だ、外から少しずつ」
他の馬に刺激されて暴走する状態を『掛かる』『引っ掛かる』と表現するが、オベイロンを介することで絶妙な加減速の匙加減を可能にすることができた。
これによって『捲り』の成功率を上げようという算段である。
「悪くない」
ラップの緩急、そして馬群の隙を突き、ドーベルを中段の外まで押し上げた。
乗ってみてわかったことだが、ミリアンドーベルという馬は決して弱くなかった。
気性面での弱点が彼を一六〇〇万下クラスで引き留めていた要因に思える。
ここを解消してしまえば、恐らくオープンクラス入りは直ぐだろう。
強い先行馬になりそうな予感があった。
背中の弾力というか、乗り味とも言える伸びやかな疾走は騎乗していて気持ちが良い。
また乗れるだろうか——ここを勝てばもしかすると——。
仄かな期待を抱きつつ、最終コーナーへ。
オベイロンが教えてくれる馬群の覇気の度合いを鑑みながら少し下げ、食い下がり、息を入れさせ、加速する。
微調整を繰り返しながら最後の直線に突入し、前で先行勢がコーナーで横に振られ馬群が膨れた。
間隙を突く——五位までの掲示板と言わず、三位までの着と言わず、せせこましく賞金を咥えて帰るレースにする必要はない——勝とうじゃないか。
「ここだ、オベイロン!」
町村は見せ鞭をしてラストスパートの合図を出した。
ドーベルの走りが前傾姿勢へと変化し、グンと加速する。
馬を怖がるドーベルに内は辛い——外目に逸れた馬群の隙間目掛けて距離をどんどんと差を詰めていった。
「————なっ」
追い越しに掛かっていたドーベルの鼻面が、左手前で追い出し体勢にあった騎手の鞭によって思い切り叩かれてしまった。
ドーベルはパニック状態に陥り、嫌気を出して走りが乱れ、足さばきが空を切る。つんのめって落馬寸前の事態に見舞われた。
「堪えるのだ!」
オベイロンの叱咤する声が轟く。
ドーベルに向けた言葉なのか、自分になのか、それは定かではないが、その声のお陰でドーベルにしがみ付いて落馬を回避し、ドーベルは左右にぶれながらも気合で持ち直してくれた。
「やられた」
今しがたドーベルの顔に鞭いれた騎手がちらりと後方を伺っていた。
その口元が微かに笑みを湛えた気がして、全身の血が煮えたぎるほど熱くなる。
差し返してやりたい気持ちが感情を乱すが、もう手遅れだ。
上位陣に追いつくことは不可能に近い。
競馬は選択とタイミングの連続。
コンマ数秒を競う世界では一つのミス、一つのアクシデントで取り返しようのない差が生まれてしまう。
巻き返せないと判断した町村は即座にプランを変更した。
勝ち負けの勝負を捨て、がむしゃらに掲示板を目指すべくドーベルを追う。
手前肢を替えさせ、ラストスパートをかけ、四、五頭に周りを囲まれながら決して馬群に沈むまいと泥臭いゴールを切った。
ゴール板を通過して歩法を襲歩から駆歩へと転じ、本馬場でクールダウンに入る。
その間、町村はどっと襲い掛かってきた疲れに眩暈がして俯いていた。
終盤に感じた高揚感は地面に叩きつけられ、ラストの直線では心臓が潰されるかと思うほどの緊張で息すらできなかった。
全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れ、曇ったゴーグルを外せば眉間から汗が伝って落ちてくる。
落馬の危機で強張った身体が痛みを伴い悲鳴を上げていた。動悸もいまだに治まらない。
ドーベルがもう一周走ってしまいそうだったので、腹に力を入れて手綱を手繰り、反転させて歩法を速歩に変えた。
これだけの消耗するレースも早々ない。その価値はあっただろうかと掲示板に目を向けて、五着の約束だけは守り通せたことに安堵していると、鼻息荒くオベイロンがヘルメットをバンバンと叩きながら喚いた。
「サルよ、彼奴である! ドーベルを打擲し、貴様を亡き者にしようとした不届き者だ」
視線の先に見えるのは脱案所へと向かう一組の人馬。
柴崎浩平だった。
「あの者に気をつけよ。先のレース、あれは偶然ではない!」
「接戦になれば、こういうことは起きる。気にしてたらレースなんてやってられない」
憤慨する気持ちはわかるが、人馬という異なる種族同士が決して一〇〇パーセントの意思疎通が叶わない中で競技に臨むのが競馬だ。アクシデントは必ずある。
「ドーベルをよく見よ、鼻から血を流しておるではないか! 我が臣民へのこの仕打ち、いずれ落とし前をつけさせる必要があろう」
「やめてくれ、俺たちは中世の騎士じゃない。騎手だ。レーサーだよ」
「——軟弱者め。余の肉体が十全であったなら、あのような小物、足蹴にして月まで弾き飛ばしてやるというのに」
「レースは終わったんだ。大須賀先生からの最低限の要望にも応えられた。ドーベルも次に繋がったよ。それでいいだろう?」
「サル……時として、サルであろうとも、戦わねばならぬときがある」
「どういう意味さ」
「余は王であるぞ! いちいち余の口に答えを求めるでない! 自分で考えるなり検索するなりしたらよいではないか! たわけがッ!」
よくわからない言い回しで激怒すると、オベイロンはふわりと宙を舞い、それからひらひらとどこかへ飛んで行ってしまった。
「ネットのやりすぎだ」と町村は嘆息する。
脱案所へと向かう途中、柴崎がこちらを一瞥したことに気が付いた。
何を思っているのだろう。遠巻きからではその表情はうかがい知れない。
良くしゃべる後輩で、ほとんど接点もなかったのであまり気に掛けたことは無かった。だが時折、敵意のようなものを感じることはままあった。
彼と自分では根本的に馬が合わないであろうことも察していた。
今までは自分の事だけで精いっぱいだったこともあり、騎手間における人付き合いは希薄だ。
同期の騎手仲間はみんな鞍を確保できずに辞めてしまい、残っているのは新堂だけ。
騎乗機会も少なく、知り合いの先輩騎手も海外から来た騎手との競争に負けて続々と引退し、騎手仲間で親しいと呼べる人はほとんど残っていない。
狭い世界だ。
レースに出れば必ず見知った顔とかち合うことになる。
上手くやっていかなければ——。
柴崎から向けられているであろう視線の意味を、町村は考えないよう努めた。
それがデビューから一貫して末端の騎手として生きてきた彼に染み付く処世術だった。
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