理想の姿

矢向 亜紀

証言

 ええ、刑事さん。包み隠さずなにもかも、全部お話しして差し上げますわ。あの人がいないのならば、もう、なんにも守るものなんてありませんからね。


 きっと、わたしがあの人を見つけたのが先でしたわ。あの時わたしは、街のブティックに勤めておりましたの。お洒落に疎い刑事さんでも、名前を言えばきっとわかってくださいますわ。そう、そのブランドのブティックで、同僚のシンディと一緒に、販売員として働いておりました。


 ブティックの向かいに、カフェがあるのはご存知? あら、ご存知ないの? これだからお忙しい人はいやね。


 わたしはある日、そのカフェのテラス席に、いつも同じ紳士が腰掛けているのに気がつきましたの。

 なぜって? 変なことお聞きになるのね。わたしがいつも、ショーウィンドウの越しに窓の外を眺めているからに決まっているじゃありませんか。


 ショーウィンドウは、いつもわたしが飾り付けをしていますのよ。そこに飾られたのは、美しいお洋服を着た理想の姿。わたしが思い描く理想の姿です。

 だから、街を歩く人がどんな風にショーウィンドウを見てくれるのか、店の誰よりも気になってしまうのは当然でしょう? 街の人が足を止めて、少しでもショーウィンドウに夢を見てくれたなら、それだけでわたしは天にも昇る心地になるんですのよ。


 そして、ある時。ショーウィンドウの向こうから、あの人がテラス席に腰掛ける姿が、まるで映画のワンシーンのように映し出されたんです。その時の胸の高鳴り、あなたはお分かりになって?


 あの人は、仕立てのいいグレーのスーツを着て、よく磨かれた革靴を履き、それと同じ色のベルトの時計をつけ、青いネクタイを締めていました。彫りの深い顔には茶色の髪にお似合いの青い瞳。すらりと伸びた鼻筋の下には、左右対称の薄い唇がうっすら笑みを浮かべて。

 彼がテラス席で佇む姿は、まるで銀幕のスターのよう。頭のてっぺんから足の先までが、誰かに見られるために作られたような美しい造形でしたのよ。そのまま額縁に入れて美術館に飾っても、誰も文句は言わなかったでしょうね。


 ショーウィンドウの向こうに見えるあの人に、わたしはすっかり見惚れてしまいました。そしてあの人も、いつもテラス席に腰掛けて、こちらをうっとりと見つめているのよ。

 一言も言葉を交わさずとも、わたしはあの人に恋をしたわ。いつかあの人が店を訪れてくれやしないかと、夜な夜な空にお祈りをするほどに。


 でもね、刑事さん。あの人は、ちっともこちらに来て下さらなかったの。いつも美しい顔でこちらを見て、左右対称の笑みを浮かべて、見つめるばかり。わたしがどんなに願っても祈っても、あの人は来てくれない。ショーウィンドウ越しに手紙を寄越してくれることもない。

 でも、あの視線を見ればわかります。あの人も確かに、わたしのことを好いてくれていたんです。


 恋の焦燥感は、辛くもあり悲しくもあり、それでいて甘い味のするものね。わたしはそれを噛み締めながら、ある夜、ショーウィンドウの飾り付けを変えました。わたしにとっては、よくある仕事の一つですから、当たり前のようにそうしたわ。

 使っていたマネキンが少し汚れていたから、服を脱がしてやって別のマネキンと入れ替えて倉庫に仕舞う。マネキンがさっきまで着ていた黄色いワンピースは、わたしが明日からしばらく着て、買い取ろうと算段しておりましたの。とっても素敵な黄色で、それは、わたしが一番気に入っていた理想の一着でしたから。


 そうして翌日、黄色いワンピースを着て働いて、少し倉庫に引っ込んだ時分。夢のような出来事が起きたのは、ちょうどその時でした。

 倉庫から出るなり、店にいたシンディが血相を変えてこう言うんです。


「あの子がいなくなったって、男の人が騒いでるわ」


 何のことかと恐ろしくなって、わたしは震えるシンディの肩を抱き寄せました。


「シンディ、ちっとも怖がることなんてないわ。おかしなお客はよくいるものだもの。二人でやっつけてしまいましょう」


 すると、シンディは少し困ったようにわたしの腕の中で言いましたの。


「それがね、マリー。多分、あなたのことを探してるんじゃないかと思うの」

「いやだ、どうして?」

「あの人が、“黄色いワンピースのあの子はどこへ行ったんだ”って、騒いでいるから」


 その声に誘われて、わたしは店の中に目をやりました。

 すると、なんと言うことでしょう! グレーのスーツに身を包んだあの人が、わたしの目の前に立っていたのです。


「あの子がいなくなったんだ」

「あの子って、どなたのことでしょう?」

「黄色いワンピースの子だ」

「わたしでなくって?」


 そうやって答えたわたしを、自意識過剰だとお笑いになる? 普通はそうでしょうね。でもね、刑事さん。わたしとあの人が長い長い間をかけて交えた視線が、ショーウィンドウ越しに伝え合った無言の愛が、そうさせたのは当然のことなのよ。

 実際、あの人はわたしのことをぐるりと見渡して、花がほころぶように笑ったんですから。


「ああ、君だ。確かに君だ。僕は君を探しに来たんだ。さあ、一緒に来ておくれ」


 もちろん、断る理由なんて何ひとつないもの。わたしはあの人に手を引かれるがまま、馬車に乗り、郊外にあるあの人のお屋敷に向かいました。


 あの人は、聞けばこの辺りでも有数の名家の育ちで、けれど家族はおらず、広い屋敷に数人の召使いと暮らしているのだと教えてくれました。お屋敷は門から建物に入るまでに馬車で数分、入り口なんてわたしの狭いアパートのいくつ分かもわからないほど広くて、目が回りそうだったわ。


 それでも、そんな侘しいわたしの暮らしを気取られぬよう、必死に平然とした顔をして、わたしはあの人と一緒にお屋敷の大広間でお茶をしました。香りのいい紅茶はいっとう良いものだったけど、そんなもの全部色褪せてしまうわ。

 目の前で笑うあの人の白い歯の美しさや、スーツの布地の擦れる音色にばかりわたしは気を取られて、しばらく、何の味も香りも分からなかったわ。だって、ずっと遠くから見ていたあの人が、こんな近くにいて、わたしのことを見ているんですから!


 それからあの人は、わたしを二階の部屋に連れて行ってくれましたのよ。そこは、わたしが暮らす部屋の何倍もあるような大きなクローゼットで、壁にはびっしりとドレスが並んでおりました。


「君に似合うと思って、今か今かと用意していたんだ。好きなものを選びたまえ」


 彼ははにかむように、けれど幸せを噛みしめるような左右対称な笑みを浮かべて、わたしにそう言いました。こんな幸せが、他にあるかしら? 愛する美しい男性が、わたしのためにドレスを用意して待っていてくれただなんて。

 刑事さん。わたしは夢心地でした。夢心地だったの。でも、もしあなたに同じような出来事があったら、きっとあなたも、無心でドレスを選ぶでしょうね。

 これが彼の手口だもの。


 クローゼットからドレスを選んで着替えれば、彼もまたスーツを着替えて出迎えてくれました。光沢のある生地のスーツは、夜会に出れば誰もが振り向く美しい仕立てで、彼のために、そしてわたしのためにあるように思えましたわ。それが月の光に照らされて、彼の動きに合わせて輝く景色は、今もわたしの目の裏に焼き付いて離れません。

 夜のバルコニーで、二人して踊りました。あの人はわたしを美しいと言い、わたしもあの人のことをそう言いました。


 あら、そんな無粋なことをお聞きになるの? もちろん、愛する二人が夜を共にすれば、そういうこともあるでしょうね。わたしたちは、知っているのに触れられない長い時期がありましたから。たくさんの時間をかき分けて、求めるものがあったのは確かなことですわ。


 だから、そんな日が何日も何日も続いたある日、あの人がいなくなったと気づいた時、どんな心地がしたか想像してごらんなさい。

 指先がきいんと冷たくなって、頭の内側からハンマーで叩かれたような痛みがして、心臓を直接誰かに握りつぶされたような息苦しさを覚えて、わたしはしばらくベッドの上から動けなくなりましたの。

 当然でしょう。長らくの想いを遂げた愛が、急に目の前から消えてしまったんですから。


 わたしは大急ぎで馬車に乗り、街中を探し回りました。あの人の姿を、影を、気配を、少しでも感じられる場所がないかと探して、探して、探し回りました。

 刑事さんがわたしを見つけて下さった時、わたしが傷だらけだったのはそのせいなのよ? ちゃんと自覚してる。だから、心配には及びません。


 そう、そうよ、刑事さん。

 わたしがあの人を見つけたのは、事もあろうにあのブティックの裏通り。ブティックのごみ集積場でした。そして信じられないことに、シンディとあの人は、そんなところで二人何も着ないで抱き合って、身を寄せ合っていましたわ。


 わたしを美しいと言ったその唇をシンディに寄せ、わたしをなぞったその指でシンディに触れ、わたしを見つめたその目でシンディを捉え、あの人はわたしのことなんてちっとも見向きもしません。そしてシンディも、わたしの方なんてこれっぽっちも見やしないで、あの人のことばかり見ているんです。


 だから、ついわたしは我を忘れてしまいました。嫉妬に狂うとはまさにこのことね。そんなつもりはなかったのに、その場に捨てられていた角材を引き抜いて、シンディの頭を思い切り叩いてしまったの。もちろん、あの人は目を剥いて驚いていたわ。そして、ぱっくりと割れたシンディの頭に、わたしも驚いた。

 けれど、それだけでは嫉妬は収まらない。赤黒く燃える嫉妬の渦の中で、わたしはあの人の頭も殴りつけました。あの人の美しい顔はみるみるうちに砕け散り、そこにはもう、マネキンみたいにピクリとも動かない、あの人とシンディが倒れているだけでしたの。


 なんて恐ろしいことをしたのかと、わたしは地べたに座り込みました。こんなことするつもりじゃなかったの。ただわたしは、あの人を愛していて、そして裏切りを許せなかっただけなの。なぜあの人がシンディを選んだのか、どうして何も言わずに姿を消したのか、何にも分からなかったんだから。

 だからせめて、こんなわたしを罰してほしいと、こうして自首してきたのです。刑事さん。わたしは人なんて殺すつもりはなかったの。そんなこと、するつもりはなかったのよ。ねえ、信じてくださる?


 そう。そうなのね。おかしなこともあるものだわ。

 死体はなかった? 不思議なものね。

 いったい、何があったのかしら。


 ええ。確かにシンディはずっとお店にいたわ。素晴らしいスタイルをした、わたしの大事な同僚だもの。あんな風にしたかったわけじゃない。ただ、わかってほしかっただけ。

 あの人は、少し前からいつもテラス席にいたわ。雨の日も風の日も、テラス席から動くことなく、こちらを甘い視線で眺めていたの。


 あら、また変なこと聞くのね、刑事さん。


 もちろん知ってるわ。だってわたしは、ブティックの店員よ。まるで友達のようなものよ。そう言ったら大袈裟かしら。完璧な見た目で理想の姿を見せてくれる、完全な存在。私にとって、そういうものよ。


 いやね。

 そんなこと言ってからかわないで、刑事さん。


 わたしは、マネキンなんて壊してないわ。

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