零から一へ進む道

零から一へ進む道

「ぼくがカートおす!」

「あっ、こら勝手に行かない!」


 日曜日のマーケット。


 買い物カートをシュカの手から奪った六歳児が、勢いよく走り出す。

 本日特売の青果売り場は買い物客で混雑している。

 そんな人混みの通路を暴走車両さながらに突っ走っていくものだから、いつ他のお客に衝突するか分からない。


「イチ! ストップストップ! 待ちなさい! イチ! 止まっ、コラァ止まれ!」


 小柄なおばあさんに接触する寸前でどうにかカートを止め、「すみません」と頭を下げる。


「危なかったじゃん! あとちょっとでぶつかるとこだったよ!」

「ぼくひとりでおしたいの!」

「じゃあ一人で突っ走らないの! 周りをよく見る!」


 そこまで言って、ふと思い出す。新人時代、全く同じことをレイから言われた。

 血は争えない。完全にシュカの子だ。

 「はーい」と不服そうな表情で返事をするイチは、顔立ちも骨格もレイに似ている。どうせなら性格もそうであれば良かったのに。


 気を取り直して、買い物を再開する。

 言い付け通り、今度はゆっくりカートを押すイチが、お菓子売り場で足を止める。


「おやつかっていい?」

「いいよ、一個だけね」

「やったー!」


 言うなりカートから離れ、さまざまなお菓子の並ぶ棚を、真剣な面持ちで検分し始める。いつもここからが長い。

 迷いに迷って五分後。イチがようやく『スカイソルジャーゼータチョコ』を取り、カートに乗せた買い物カゴへ入れようとした時だった。

 通路を駆けてきた小さな男の子が彼の背中に思い切りぶつかり、勢いよく転倒した。


「わっ!」


 シュカは慌てて声を掛ける。


「僕、大丈夫? 怪我はしてないかな?」


 転んだ男の子は火が付いたように泣き出す。三歳か四歳くらいだろうか。


「だいじょうぶ? いたい? たてる?」


 イチは男の子に手を差し伸べ、助け起こした。

 後からその子の父親と思しき男性が小走りにやってくる。


「す、すいません! ごめんね、お兄ちゃん。ほら、だから一人で走ってくなって言ったのに」


 どこも同じだな、と内心で苦笑した。

 シュカと同年代に見える父親は、自分の息子を軽々抱き上げた。男の子は泣き止み、「パパ!」と男性にしがみ付く。

 その父親の申し訳なさそうな顔に、シュカは朗らかな笑みで応える。こう言う時はお互いさまだ。


 我が子を抱えた男性が、頭を下げて去っていく。

 その父子の後ろ姿が、不意に記憶の溝をなぞる。

 一瞬、息が止まりそうになった。

 ちょうど、イチがあのくらいの時だった。レイが死んだのは。

 同じ年頃の父親と子供を見かけると、未だに胸の奥がじくりと痛む。

 記憶の中のレイは、三歳のイチを抱いている。


 あぁ、駄目だ駄目だ。

 暗い気持ちを追い払うように、シュカは明るい声を出す。


「イチ、偉かったね! あの子を助けてあげた」

「うん、ぼくはみんなのえがおをまもりたいんだ」


 真っ直ぐの眼差し。そこに宿る、曇りなき意思の光。

 やはりこの子はレイの血を引いて——


「って、ゼータがいってた」

ゼータかい」

「へんっしんっ! せやっ!」

「ちょっ……」


 ポーズもバッチリだ。

 通りがかったおばさんが、イチを見てくすくす笑っている。

 ちびゼータの表情は得意げで、まぁいいか、とシュカは思った。

 自分と同じ髪の色をしたその頭を、ぽんぽんと撫でてやる。


「偉い偉い。強くて優しいヒーローみたいだったよ、イチ」

「……うひっ」


 変な笑い声を漏らしたイチだったが、次の瞬間。


「よーし、しゅっぱーつ!」


 突然カートの持ち手を掴んだかと思うと、間髪入れずスタートダッシュを決めた。


「は? ちょっ待っ……だから走るなっつーのコラァァ!」


 かくして、追いかけっこ地獄は再開された。



 さんざん寄り道して、どうにか会計を済ませる。ただの食料品の買い出しなのに、今回もめちゃくちゃ時間が掛かった。疲労感が凄い。

 ふらふらと動くイチに目を配りつつ、買ったものを手早くショッピングバッグに詰め替える。

 それも終え、出入口へ向かおうとしたところで、突然イチが声を上げた。


「あっ、さっきの子!」


 見れば確かに、先ほどの男の子がいた。今度は父親だけでなく、母親も一緒だ。

 こちらに気付いた父親が小さく頭を下げてきたので、会釈で応じる。が、彼は僅かに首を傾げた後、隣の妻にそっと何かを耳打ちした。


 あぁ、この感じは。人知れず身構える。

 するとやはり、その男性が控えめな調子で声を掛けてきた。


「あの、先ほどはどうも、すみませんでした」

「いえいえ、よくあることですから」

「えぇと、失礼ですが……カンザキ・シュカさんですよね? 『スパイダー・リリィ』の」


 案の定。

 ほぼ脊髄反射で営業用の笑顔を作る。


「えぇ、そうです」

「やっぱり! あの時の動画、何回も見ました。それからインタビュー記事も」

「ありがとうございます」


 『あの時の動画』とは無論、シュカが暴走した大型兵器にとどめを刺す動画である。

 メディアに出て以降、街で声を掛けられることが多くなった。そのため、オフの日でもそこそこの化粧が欠かせない。


「握手していただいてもいいですか?」

「えぇ、もちろん」


 差し出された二人の右手を、順に握った。

 こういう時、イチはいつも傍らに立って、シュカと相手のやりとりをじっと見ている。

 だから実は毎回、当事者でありながらちょっと身の置き場のない気分になるのだ。握手を求められている自分は、仕事の時の顔だから。


 両親につられて男の子もシュカに手を伸ばしてきたので、大人同士で顔を見合わせて笑ってしまった。少しだけ、見知らぬ人と距離が近づく瞬間。

 身を屈め、我が子のものより一回りは小さなその手を、そっと握る。


「あはは、ありがとうね」


 きょとんとしたままの男の子に、イチが言った。


「ぼくのママなんだよ」


 イチはまた先ほどと同じ得意げな表情をしていた。訳もなく恥ずかしくなってくる。


「どうも、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」


 家族は礼を言うと、先に店を出ていった。

 同じ出口に向かうタイミングを逸してしまった。何となくその場に立ち尽くす。毎回、ここからの一歩が割と難しい。


 ゆっくりと閉じていく自動ドア。

 両親と手を繋いだあの男の子が、「ぴょーん!」と言いながらジャンプするのが見えた。

 小さな身体が両側から引き上げられ、ふわりと大きく跳躍する。


 隣のイチが、ぽつりと呟いた。


「あれ、いいなぁ」


 途端、ずきん、と胸に小さな痛みが走る。

 それを皮切りに、心がざわざわとさざめき立つ。その波は瞬く間に大きくなり、どんどんせり上がってきて、ぐっと喉の奥を塞いだ。


 私も、あれがやりたい。

 三人で。


 どうにか声を絞り出す。


「……そう、だね」

「ママもやりたいの?」

「えっ……と」


 何と答えるべきかと一瞬迷って、曖昧な言葉を選ぶ。


「うん、まぁ……できたら良かったけどね」

「そっかぁ」


 こういう時こそ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ほんのあれしきのことであっても、自分一人だけでは——


「じゃあ、ぼくがおっきくなったら、ママをぴょーんてやったげるね」

「あっ、そっちか」


 思わず、小さく吹き出してしまった。くつくつと、くすぐったい笑いが込み上げてくる。

 ママはやる側がやりたいんだよ、とか。引っ張る人は二人いないとできないんだよ、とか。

 突っ込みどころはいろいろあったけれど。


 頬が熱い。心なしか目の奥も。


「……そしたら、楽しみにしてようかな」

「うん!」


 イチが、ぎゅっと手を握ってきた。きらきら光る瞳の中に、輪郭の揺らぐシュカがいる。


「さぁいこう、ママ」


 ——さぁ行こう、シュカ。


 ぴたりと重なる。今は遠い、あの日の記憶に。

 再び胸に感じた小さな痛みが、どこか甘く、そして温かく、全身に血を巡らせていく。


 これまで何度、進むべき方位を見失っただろう。

 大事なものを失くすたび、独りぼっちの迷子を繰り返してきた。

 先が見えないまま、ただ闇雲に足を動かしていた時もあった。それが正しい道かも分からずに。

 だけど気付けば、手を差し伸べてくれる誰かが傍にいた。そうしてまた新しい一歩を踏み出してきたのだ。


 レイと共に歩くことを決めたあの日から、道は途切れず続いている。他でもない、彼の導いてくれた道が。

 そしてそれはきっと、この先の未来に繋がっている。


 心に空いた、埋めることのできない穴は、しかし決して空虚じゃない。


「うん、行こうか、イチ」


 ——行こう、レイさん。


 もう何度目かも分からない、新しい第一歩。

 立ち止まってはいられない。すぐ隣に、イチがいるから。


 扉が開き、視界が拓ける。

 外へ出るなり、強い風が髪を攫っていく。

 上昇気流を生む、気持ちのいい向かい風だ。


「ぴょーん!」


 あの子を真似てジャンプしたイチの身体が、ほんの少し、ふわりと舞い上がった気がした。



—零から一へ進む道・了—




★本作はこれにて完結です。応援ありがとうございました!

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