11,ワカラナイ
あの日の朝、私はクラスメイトを教室に閉じ込めた。教室の後ろの方で固まらせて、ボス猿の解体ショーを見てもらおうと思った。「死ね」という言葉が使える皆なら、「死」の場面に感動できるのではないだろうか。
家から持っていたナイフで少し足を切っただけで、ボス猿はけたたましい叫び声を挙げた。私の顔を一叩きすると、ずるずると教室の後方へ逃げていった。
ボス猿は歯をガチガチ鳴らし、化け物を見ているかのような目で私を見ていた。どうして、そんなに怯えているのだろう。「死ね」と率先して口に出していたボス猿は、「死」を悟っているのではなかったのか?
そこへ、何も知らない先生が入ってきた。
「先生」
私が一声かけると、先生は私を愛おしそうに見つめたが、私の周りにある赤色を見て、顔から表情を消していった。
「せ、先生、助けて!椿ちゃんが、なんか、変なの!」
ボス猿の声は、教室中に轟いた。
「どうしたんだ、椿」
先生は、私に駆け寄ってきてくれた。本当に、馬鹿な人。でも、漸く、誰にも邪魔をされずに質問ができる。
「……先生は、死ねと言われたことがありますか」
先生は、凍り付いた。どうしたのだろう、質問に、なかなか答えてくれない。
「答えてください。答えないと、生徒を一人殺します」
先生は氷漬けにされてしまったかのように、その場から動かない。
「……まさか、この赤いのは、椿の血なのか」
漸く口から出た言葉は、私の欲しかった答えではなかった。
「違います」
先生は、黙ってしまった。
「先生、生徒の問いに、答えないつもりですか?わからないことはすぐに先生に聞きなさいって教えてくれたのは、先生ですよね。答えてください、死ねと言われたことはありますか」
先生の顔色が変わった。私と出会う前に持っていた「先生」としての責任を、思い出してくれたのかもしれない。
「まあ、友達に軽く、なら」
それでも、以前の様な熱さはまだ戻らない。
「友達は、本当に死んでほしくて言ったのでしょうか」
「いや、それは、わからないけれど」
「人はなぜ、簡単に死ねと言えるのでしょうか」
そこへ、ボス猿の怒号が飛んで来た。私の質問を妨害することは、許せない。ボス猿の血がまだついているナイフを投げると、ナイフはボス猿の頬の皮を掠め取った。
「落ち着け、椿!」
椿。
先生はまだ、私の名前を呼んでくれている。父の姓や祖父母の姓でもない、私だけの名前。
「先生は、質問に答えてください。答えないのなら、今度はナイフを外しません」
本当はまぐれで刺さっただけだけど、先生は私を信じてくれる。未だに、私を好いているから。
「……わかった。人が死ねと言えるのは、……まだ死という概念をわかっていないからだ!きっとそうだ」
「では、その『死という概念』とは、何ですか」
先生は、頭を抱えた。考えているんだ。私の質問に真摯に答えようと、頭の中に私だけを詰めて、必死に考えているんだ。そう思ったら、今まではただの駒としか見ていなかった先生に、少しずつ好意が芽生えてくる。
「『死という概念』とは、……死の淵に立ったことのある者にしかわからないことだと、僕は思う」
何それ、抽象的すぎる。
「僕はまだわからないけれど、椿なら、きっとわかるはずだ。お母さんやお父さんの死を看取ったのは、君しかいないんだから」
病室で、急に静かになって動かなくなった母。リビングで首を吊って、静かにぶら下がっていた父。
私には、「死」がわかるの?
「死」を見たことのある私は、わかっていなければならないの?
「死」が分からない私は、おかしいの?
涙が出てきそう。泣いてはいけないのに、わからなくて、諦めてしまいたくなる。
わからない。私には、全然わからない。
「わかりません。私には、死というものがわかりません。死とは、何なのですか。死ぬと、人はどうなってしまうのですか」
「いいんだ、まだわからなくても。これから生きていく中で、死という物はわかるようになるはずだ。だから、皆を開放して……、」
もう、先生の声は届かない。
このまま「死」を知らずに生きていくなんて、耐えられない。
私は、ボス猿の前に立った。
死ね。
うん、わかった。死んでみるね。
「何をやっている!」
壁に突き刺さっているナイフを取って、自分の体に押し付けた。ボス猿の返り血の上に、私の血が走って行く。どこまでも、どこまでも、血は流れていく。
まだ、死なない。こんなものじゃ、人は死なない。
ナイフは、私の体を駆け巡る。
頭を、肩を、腕を、脚を。
先生の手が伸びてきても、私の手は止まらない。先生の力が貧弱に思えるくらい、私の腕には力が籠っている。
教室に、太陽が舞い降りた。オレンジ色の光を湛えて、私の赤に装飾する。
あ、この色、何ていうんだっけ。
ボス猿の金切り声も、どこか遠くの世界に感じる。
目の前に、オレンジ色の花が咲いているのが見える。百合の様な形の、綺麗な花。
花の名前は、「忘れ草」。身に着けると、憂いを忘れる。
そうだ、この花は、萱草。私の血を装飾するこの色は、萱草色。
私は、先生の方を見上げた。
「死ぬって、どういう気持ちなんでしょう」
そこで、私の意識は途切れた。
あの日から数年後、私は無事に大学生になった。私の起こした事件は、「淫行教師のセクハラに耐えられなかった生徒が暴れた」と片付けられた。先生は責任を負わされて教師を辞め、ボス猿は精神を病んで家に引きこもるようになった。
「死」に一番近づくことができたように思えたあの事件は、もう遥か遠い記憶になっていた。そして、私は未だに「死」がわからず、私は勉学に集中ができていなかった。
そんな時、ある教授の言葉が、私の頭に光を灯した。
「人は、答えを探しに、旅に出る。私も若い頃、自分を探しに旅に出たものよ……」
これだ、と思った。
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