2,サイカイ
あの日からさらに1ヶ月後、僕は母と鎌倉に来ていた。1泊2日の短い旅行だが、母は「それでも充分」と今回の旅行を楽しみにしていたようだった。
鎌倉の町を散策中、母は江ノ島に行きたいと言い出した。僕がまだ産まれていない内に父を事故で亡くし、それ以来女手ひとつで僕を育ててくれた母。体は痩せこけ、目は落ち窪み、健康とは言えない見た目になってしまったが、母はいつでも冒険家だった。猪のように何に対しても突進していくような、恐れ知らずの母が、僕は好きだった。
電車に揺られ、僕ちは江ノ島についた。磯の香りが僕たちを迎え、僕は大きく深呼吸をした。そうこうしているうちに、母は僕を置いて歩いて行ってしまった。母も携帯を持っているし、江ノ島だけなら会えないこともないだろう、と思っていた僕は、特に心配もせず、1人で散歩をすることにした。
少し歩くと、池があった。大きな丸い石に囲まれた、ただの池であるようだった。
その時、風が吹いた。
《《》》 生暖かくて、皮膚の上を撫でていくような風が。
目の前を、真っ赤なハンカチが舞った。
ただのハンカチに、胸騒ぎがした。
前にも、こんな風景を見たことがある。
何だったかな。
「あの、ハンカチ、撮ってもらえます?」
風の音の隙間に、女の声が聞こえた。その声で我に返った僕は、地面に舞い降りそうなハンカチを、急いで掴んだ。
「はい、どうぞ」
掴んだハンカチを丁寧に畳み、声のした方を振り向いた。
「ありがとうございます」
声の主は、……彼女だった。
僕の心臓は、ギュッと握られたように苦しくなった。
あの日、僕と目が合った。あの綺麗な女の人。
目を逸らさなかった、あの綺麗な女の人。
僕に魔法をかけた、あの綺麗な女の人。
僕の心臓は、小刻みに動き始めた。
「無熱池、というらしいですよ」
僕に話しかけているのだと気付くのに、少し時間がかかった。
「む、むねつち?」
「この池の名前です」
「あ、ああ、そうなのですか」
間抜けな声を発した自分を思い返し、顔が熱くなっていくのを感じた。
「ここには竜が住んでいて、どんな干ばつの時でも水が枯れることはない、らしいです」
静かに言葉を発する彼女に、鼓動はどんどん早くなっていった。
「物知りですね」
ふふふ、と彼女が笑う。
その目は、バスで僕と目が合った時とは違う、暖かい笑みだった。
僕はまた、彼女の魔法にかかっていた。
「地元の方なんですか?」
ナンパだと思われないように、冷静に。
「いいえ、旅をしているんです」
彼女は、ゆっくりと歩き始めた。
「へえ、僕も旅行で来たんですよ。母と一緒に」
気さくに、自然に。僕もまた、彼女に合わせて歩き始めた。
「いいえ、私は旅行ではなく、旅をしているんです」
「同じことではないのですか?」
「私は、さすらいの旅をしているんです。目的のない、ただの散歩です」
彼女は、念を押すように言った。
何だか妙に思った。さすらいの旅。今時、こんな若い人がそんなことをするだろうか。
「そうなんですか」
どうして彼女について行こうと思ったのか、不思議だった。しかし、僕の足は自然に彼女を追いかけていた。
僕たちは、2人並んで歩き出した。
「そういえば、お互いに名乗っていませんでしたね。僕は、」
「名前なんて、どうだっていいじゃないですか」
彼女は、僕の言葉を遮った。
「……そうですね」
彼女にそう言われた僕は、本当にどうでもよくなってきた。数分前は、彼女の名前を知りたい一心だったというのに。
しかし、僕には、もう1つ知りたいことがあった。彼女は気付いているのだろうか。1か月前、お互いに目が合ったことを。
僕は、あの日のことを知りたかった。あの日、本当は何が起こったのか。あの日、僕と目が合った人は、確かにここにいるのだから、全部夢であるはずがないのだ。見ず知らずの人の顔を、夢で見るなんて有り得ないのだから。
でも、もし、本当に夢だったのならば、僕は彼女のことを知っていたのだろうか。
キーンと耳鳴りがした。
何だろう、以前にもこんなことがあった気がする。
「どうかされました?」
彼女は、静かだった。
僕は、決心した。疑問に思ったことは、すぐに人に聞こう。これは、僕が以前から皆に教えていたことではないか。
「あの、僕たち以前にも会ったことありますよね」
こんなことを言ったら、気味悪がられるだろうか。
彼女は、先程の暖かい笑みから一転、冷ややかな真顔になった。
しまった。口説いていると思われてしまったのだろうか。
「さあ、どうでしょう」
彼女は、また暖かい笑みに戻った。僕にはそれが、お茶を濁しているようにしか思えなかった。気味悪がったとかではなく、何だか楽しんでいるような、僕をからかっているような、そんな口調だったのだ。
それから、彼女は僕に沢山質問をした。職業だったり、趣味であったり、他愛のない内容だった。僕は、それに答えた。答えられない内容もあったが、彼女の質問にはほとんど答えた。
彼女の話を聞くと、どうやら彼女は大学生だそうだ。今は休暇中なのだと、軽い調子で話していた。
休学してまで、さすらいの旅をしているということだろうか。
なぜ、そこまで。
「……あなたは、死ぬって怖いですか」
今までの質問とは違うジャンルに、僕は少し驚いた。
「え、ええ、まあ」
「それはどうしてですか」
「そうですね……」
僕が悩んでいると、彼女は道端にあった雑草を引きちぎった。
「この雑草は、今から死に向かいます」
彼女の予測不能の行動に、僕はかなり驚いた。
「そ、そうですね」
「雑草は、死ぬのが怖いと思うのでしょうか」
僕は返答に困った。雑草。心は無いと世界は言うが、人間としてはそういうことも考えなくてはならないのだろうか。
「私は、思うのではないか、と考えます。さっきまで、朝露を浴びて、太陽の光を浴びて、ああ、生きているんだって思っていたら、いきなり引き剥がされるのです。心は準備していないはずですから、恐怖を感じるのではないでしょうか」
彼女の発する言葉に、僕は恐怖を感じた。急に何を言い出すのか。僕に何を言いたいのか。
「あなたは、死ぬとはどういうことだと思いますか」
「急に何ですか」
彼女の口調は、だんだん鋭く、冷たくなっていく。
遠くで、何かの音が聞こえた。
「答えてください」
さっきよりも大きな音。
「体の機能が停止する、ということですかね」
「では、心はどうなりますか」
また音が鳴る。さっきから何なのだ、この音は。
「体と共に停止する、とか」
あたりはしん、と静まり返った。
沈黙は長く続いた。
「私は、死ぬことが知りたいのです。どういう気分なのか、どんな風に逝くのか、死ぬっていう感覚が知りたいのです」
ブ―――。
脳内を掻き回すように、音が鳴り響いた。
「君、何をするつもりなんだ!」
いつの間にか、僕は人気のいないところに来ていた。
「教えてください、死ぬとはどういう事なのか」
彼女の手元に、キラリと光るものが見えた。
萱草色の、小さな飴玉のような西日が、僕の目を刺していた。眩しくて、五月蝿くて、酷く懐かしい光。
その時、僕は始めて気付いたのだ。
彼女の瞳が、萱草色だということに。
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